小説『九月のタイトロープ』

心のこもらない「死にたい」が野ざらしになっており、そのことできみは深く傷つき、本当に死んでやろうかと思う。お気に入りもしてくれない冷たさの中で生きていくには心許ないので。しかしそれを誰にも打ち明けられないので。通販サイトでロープを探していたきみはオススメ商品に好きな作家の新刊予約を見つけ死期を遅らせる。そうして一日一日を過ごすうちに九月は終わり十月に入る。鮮やかだった死にたいがペットボトルの炭酸とともに薄れる。気づかないきみはきみの大好きな渋皮栗のタッパーを冷蔵庫から引っ張り出し、フォークで上品に口へ運びながら、海外の俳優がおかっぱ頭の少女にするキスを見ている。ばたばたばたと強い風に洗濯物が吹かれるような音がして、しかしそれは涙なのだった。涙がこんなに大きな音を立てるとは知らずにきみは狼狽える。グラニュー糖を吸い込んだ茶色がほろほろほどけてきみは呟く。知らない。まだ何も知らない。誰にも平等に流れる音楽の訴えるままに元気づけられてしまう自分が嫌だった。フィクションの中で語られる言葉に軽率に救いを見出す自分が嫌だった。そうだろう、でも、生きて。何も考えなくても生きてみたら分かる。欲しかったものがあったこと。自分が名前をつけて呼んだこと。自分以外のすべての人が何事もなく無事の心で生きているなんて思ってはいけない。かけ合う言葉もなくなってしまう。もしも上手く喋れなければ、ただ泣いて見せると良かった。満月の下では許されよう。運命がどれほどか。奇跡がどれほどか。昔きみがたったひとりで泣きながら頬張っていた食べ物だというだけで今ではぼくの好物だよ。

6+

小説『深海のイレイサー』

なんとなく目を覚まして
なんとなく朝食はパンにした
なんとなく選んだ本を読んで
なんとなく散歩に出かける

なんとなく目についた靴を
なんとなく試し履きして
なんとなく気に入ったので購入し
なんとなくいい気分になった

なんとなく凝った料理をつくり
なんとなく合わせたラジオを聴きながら
なんとなく来るかなと思っていたら、

玄関のチャィムが鳴った。

ドアを開ければきみがケーキ屋の紙袋を掲げて立ってる。

「新作だって。店員さんにオススメされたから、なんとなく買ってみた。あがっても?」

こっくり頷く。
外に広がる深い夜から、ぼくはきみだけを選んで招き入れる。
きみの連れてきたにおいや、ざわめき、きみがすれ違ったであろうひとびとの感情が、少しずつ薄まって消えていく。

深海のようなアパートの一室できみとケーキを食べる。
罪悪感をともなわない食卓。
豪華ではないけど特別で贅沢な食卓。
ぼくはこのために生まれたと言って過言ではない。
きみはこのために生まれたんじゃないかもしれないけど。

「ケーキおいしいねえ」

こっくり頷く。

「明日はボートに乗ろうか」

こっくり頷く。

「青いボート、空いてるといいね」

こっくり。

「殺せと言えば殺してくれそうだね」

はっとして固まったぼくを、きみが笑う「冗談だよ。ごめんごめん。何言っても頷いてくれるから」。

今からでも頷きそうになる。もしきみが朗らかに笑いながら生きていくことを阻むものがあるなら、ぼくはぜんぜん頷くのに。なんとなくじゃない、確固たる決意で。きみはぼくからなんとなくを取り除くたったひとりの存在なのに。

ケーキの上に視線を落としたぼくは、言えなかったセリフを桃と一緒に飲み込んだ。

3+

小説『シネマハイツに守られなくても』

人がどんどん死んでいく映画を見て、こんな世界ならすれ違わなくて済んだのかなと思えるほど、ぼくは平和に生きている。そりゃ生きていればいつかは死ぬだろうが、差し迫った生命の危機はなく、嫌なことには嫌だと言っていいし、手に入れたいものを手に入れる手段はいくらでもある。時代や環境を無視して比較されたら怒っていいし、傷つけられたら訴えていい。それなのに。

月光という名のクッキーをレモンティーに浸して食べる。すっかり染み込ませたつもりでも、中は案外乾いている。上下の歯でさくさく粉砕される、粉と油からなる食料。その音と同じリズムで人が撃たれたり地面に倒れたりする。この映画を作った人が伝えたかったことは、ぼくが感じ取っている何かとは違うだろう。描きたいものがあって、そこに多くの人が共感して関わって作ったとしても、別のとらえ方をされてしまうんだ。ひとりとひとりで同じことが起こらないはずはない。

クッキーの空き箱を丁寧に折りたたんで、一番上になった面に書かれてある文字すべてを読んで、読み終えた後はきみの名前を拾った。一文字一文字には音と形しかないのに、つなげると胸を締め付ける。祈るように視線を動かし、救済のように発見をする。

(もう、行っていいんだ)。

見つけたかった文字をすべて見つけられたので、ぼくは決意する。会いに行こう。いま。行って伝えよう。 その後のことは知らない。

玄関を出ると握りしめたスマホが震えた。「今から会いに行っていい?」「だめ」。少し考えて「こっちから行く」と追伸。少しも考えなかったことがわかる早さで承諾のスタンプ。ああ、それで良いんだ。それほど考えなくても伝えて良いんだ。何度も教えてくれたのに、今さらやっと腑に落ちた。スマホはもう見ない。アパートの階段に昆虫の死骸がいくつか転がっている。その横をたんたたんと不規則なリズムで駆け下りる。何事も悲劇ではない。

映画とクッキーの部屋を後にしたぼくは、銃撃されることもなくきみの場所まで安全にたどり着けるよ。

4+

小説『この甘さに対抗しうるもの』

このシリーズに出てきたハレが幸せを噛みしめるだけの小噺。甘め。

仕事が早く片付いた今日は久しぶりに定時で上がった。取引先から連絡が入る予定も特に無し。同じ部署の同期から飲みに誘われたが「やめとく」と即答すれば「オンナ?」とからかわれる。オトコ!と元気よく答えて会社を後にした。

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2+

【小説】『花葬の双子』

僕が私になる頃、空はすみれ色に変わっていた。正しい順番は疑うこともできたが、正しくあるという共通の目的のために平和は保たれ、僕達ははっきりと決別しようとしていた。忌ま忌ましい朝に向かう最後の夜の始まりに、惰性でストローは一本。側から見れば仲睦まじい双子のように見えるだろう。わずかの唾液とわずかの毒が互いの舌を潤していくので、器官はしばしその役割を忘れた。血に大差はない。人間が考えるほど血というものに大差はない。ふいに君は窓際に飾った花が枯れた話をする。不精な僕が原因であると責めているのだ。そこで僕は愛猫が不審死を遂げたことを引き合いに出す。とびきり真っ黒の、砂上に落ちた果物の影のようにかわいいやつだ。もういない。君が餌の調合を間違えたこと、知っているんだからな。弱みを散らつかせた後は瞳の中に真相を探り合うけど、一筋縄でいかないこともまた分かっている。どちらも。畢竟この争いは静かに平行線をたどって、いつもの場所へ落ち着いた。すると決まって僕は君のいないこの部屋がどれだけ虚しいか言って聞かせ、君は君で僕のいない暮らしがどれだけ退屈かを熱弁する。やがて夜が来て真夜中を経て朝が訪れ、暴力的な光がカーテンをこじ開ける頃。僕と君とは決別の目的を忘れてしまいひとつの棺に収まって、次の宵まで仲良く眠る。花が咲き小猫が跳ねる、僕らの大好きな棺に。両親の手によって優しく埋められた時のように、柔らかくまるく白い膝を互い違いに折り合って。

4+