小説『遅刻できるひととそうでない僕』

遅刻できるひとが羨ましかった。昔から。今でもそう。堂々と遅刻できるきみが羨ましい。僕にはできない。

必ずみんなが笑うから、嘘か本当か分からない。あまり笑ったところを見かけない、あの子が、あの子までが、窓際の席で微かに笑っている。いや、そう見えた、だけか。僕がそう思うから。バイアス、と言うのだっけ。

遅刻できるきみはすごいよ。ルールを破って、誰のことも不幸にせず、笑顔に変えてしまう。タダシイコトをしなくても、それで良い存在を、神さまは作ったんだろうな。

同級生からの、好意に満ちたからかいを、冬のコートについた雪のように振り落とし、きみは席に着く。クラスの八割ほどがようやく正面に向き直ったとき、きみの視線が僕を射抜く。

「あ。先生、おはよ」。

そうにっこりと笑われて、叱責のタイミングを失う。いや、失ってた、か。ずっと前に。「おはよう」。素っ気なく挨拶を返すと、きみは「おや?」という表情をする。微かに。

遅刻者を見ても劣等感を抱かず、宿題を写させる自分を嫌悪せず、つまらない状況でも深呼吸するのは、本当は、かんたんなこと。

「授業を再開します」。

僕はそう言いきみに背を向ける、そして、爪を切ったばかりの右手でチョークを持った。これまで数え切れないほど多くの人が、感じた程度の奇跡だろう。たまたま僕にも降りかかったんだ。

この爪を昨日、きみに切ってもらったことを、知っている人は、どこにもいない。遅刻できる側のきみと、そうでなかったぼく以外で。誰も。字を書く。

2+

小説『ミライエンスストア』

どこへ行ったら手に入るか分からなくて、コンビニで愛を探した。いつか聴いた昔の音楽で誰かが歌ってたんだ。ここにはなんでもそろってるって。

地球最後のコンビニ店員はぼくを見て言った。うわあ、久しぶりだな、人間が買いに来るなんて。たしかにぼくはここに来るまで誰ともすれ違わなかったし、今も店内にはぼくしか客がいない。他はすべて買い物ロボで、かごを抱える頑丈なアームと頭脳に清算機能を備えただけの形だ。

ずっと昔はコンビニ店員とお客が会話することもあったらしいよ。今日もよく晴れてますね、とか。二日酔いですか。とか。
そうなの。なんのために会話を?
分からない。だって昔の人のことだから。
でもぼくらも今まさに会話してるね、こんな感じなのかな。
たしかに。

店員はぼくを見てニコリと笑った。

きみは何を探しに?答えようと口を開いたぼくは忘れてしまった。何を買おうとしていたのか。何を求めていたのか。そもそも本当に求めていたのか。本当なら忘れたりしないんじゃないか。

「手に入ったんじゃないかな」。
俯いていた顔を上げる。
「忘れたのは、手に入ったからじゃないかな。覚えておく必要が、なくなったからじゃないかな」。
そうかも。
たしかに、そんな気がする。
うんうん頷いて見せると店員は安心したようだった。

「今日が最後の出勤日なんだ。きみは最後のお客さんだから、泣いて欲しくなかったよ」。
「知らなかった。泣きそうになってしまってごめんね」。
「いいんだ。きみの名前はなに?」。
「なぜ?」。
「昔の人はこうして直接訊ねたらしいよ。気になる子ができたら。今じゃ信じられないことだけどね、彼らの気持ちが少し分かった気がする」。

へんなの。
分からないながらも嫌な気はしなかったので、ぼくは名前を伝える。きみはぼくの名前を繰り返して、よい一日をと言ってくれた。

よい一日はもう、果たされたよ。

そう。お礼がしたいな。少し散歩をしよう。プログラムを書き換えて。バグのふりをして繰り返しを離脱するんだ。宇宙でもたまにあるらしい。軌道をそれてしまう衛星が。
そう。
そうだよ。
物知りだね。
今はなんの役にも立たない知識さ。

4+

小説『月の無い夜が来る』

このシリーズの話

サイドテーブルにミックスナッツとビール。髪はドライヤーをかけ乾かした。完璧。いや待て。いったんベッドの上にあぐらをかいたおれはもう一度立ち上がる。クローゼットからフリースを引っ張り出し、再びベッドの上にあぐらをかいてくるまる。スマホを開いて「さあ、ゲームの続きやるぞ」と思ったところで同居人が帰ってきた。

「ただいま」
「なんで今?」
「タイミング悪かった?」
「悪かった。まじで悪かった」
「ごめん。もう一回出勤して来る」
「うそうそうそ!」

本当に玄関を出て行きそうな同居人を後ろから引き止める。

「間に受けんなよ。……困る」
「要らないと言われた気がした」
「気のせい。おかえり。ごはんは?」
「まだ。でも空いてない。要らない」
「ビールは?」
「要らない」
「ピーナッツ?」
「ハレが欲しい」

口に含んでいたビールを盛大に吹き出したおれはジウを叱りつける。

「あのな、いきなりはやめろって言うだろ。いっつも。こうなるから!」

こう、と繰り返してアルコールでびしょ濡れになってしまったフリースを指す。とりあえず洗濯かごに入れて戻ってきたおれをジウは途方にくれた目で見つめた。

「なに。おれぜったいわるくないのに、みたいなその顔なに?」
「ハレは俺に言った。おまえは顔に出づらいんだからもし言いたいことがあったらちゃんと口に出せと。人に伝えるにはそれしか無いんだと」
「うん、言った」
「だから、言った」

おれはベッドの上に戻るとうーんと唸って頭を抱えた。

「それともハレは嫌だった?」
「いや、べつに嫌とかじゃなくて、ただそういう気分じゃないっていうか」
「どうしたらそういう気分になる?」
「さあ。今日はずっとならないかも」

割とはっきりめの口調で告げるとジウは食い下がらない。それを知ってる。おれがそれを知ってるってこともジウは知ってる。

「……とりあえずお風呂入ってくる」という一言に「おうよ」と答えたおれはミックスナッツをぽりぽりかじりながら「今のは焦らしか?」と自問していた。

「いや本音だ」「期待している?」「いやいや期待って何?言葉どおりだから」「嬉しいくせに」「勘違いすんじゃねえぞ」など自問自答した。

そうこうしているうちにスウェットパンツだけ身につけ上半身裸のジウが戻ってくる。なんという腹筋。首にかけたタオルで髪をふきながら冷蔵庫の扉を開けると、ビールでも牛乳でもなくミネラルウォーターを取り出してごきゅごきゅ飲み干した。空っぽのペットボトルを握りつぶしてダストボックスへ。ようやくおれの視線に気づいて「ん?」と首をかしげるところまで完璧ださすがおれの恋人である。

「ごめん悪いんだけど前言撤回して良い?」

一拍置いた後、微笑んだように見える風呂上がりのジウは「髪乾かしてくる」と言いかけ、「……やっぱ後で」と呟いた。

思い知ったか、ハレよ。
何だよそのキャラ似合わないから。

なんて交わしながら顔を上げるとカーテンの隙間から満月が目に飛び込んでくる。まぶしっ。とっさに顔を背けようとしたおれの顔を力づくで固定してジウが近づく。

「すごいな。月がきれい」
「何言ってんだ。眩しいから離せ」
「ハレの目に月が映り込んでて、ほんときれいだ」
「いやいや眩し過ぎて軽く拷問なんですけど?」

振り払うように頭を振るとようやく解放してくれた。

「ハレはいつも俺を人間にしてくれるね」
「どゆこと。もとから人間じゃねーのかよ」
「人間だよ。でも忘れる。ハレは俺に人間を好きにさせてくれる。何度も何度もだ」
「……どゆことだよ」

二度目は意味がわかった上での質問だったので、答えは無かった。もちろん期待もしていなかった。

星が視界に入らないよう、左手でカーテンの裾を掴む。すぐにすり抜けてしまった。だけど大丈夫、厚い背中が光をちゃんと遮ってくれるから。おれを人間にしてくれるこいつを感じたくて、あとしばらく目を開けたりはしないから。だいじょうぶ。瞼の裏で残像の月がどんどん膨らんで、ジウが何度目かで吐く息に押されて破裂した。そして月の無い夜が来る。目を開けても閉じてもおんなじの、深くてあまい夜がくる。

3+

小説『共存実験』

ふたりで向かい合って食事をしている。ぼくは野菜を、あなたは肉を食べている。使う食器だけ同じで、食べ方や立てる音はまるで違う。だけどぼくたちは会話をしている。たまに笑い合う。

実験なのだろうとある人は言う。共存できるかどうかの実験をしているのだろうと。ぼくは感じる。どうだっていい。この生活を実験と言う人のことも、その人に反論する自称代弁者たちのことも、実際これが実験であるのかどうかも。

あなたは皿を空にするとぼくが食べているものを見る。そんなに美味いのか。美味いというより、ただ食べてる。と答える。あなたは一枚つまみ上げると下から食らいついた。ふん、悪くない。言葉では言うが、顔はそうは言ってない。まったく、正直なんだから。

ところでおまえは美味いのか。

あなたは問う。それほど知りたがっていない顔で。あなたの、空だと思った皿には薄っすらと血の色が残っている。どうだろうそれは。どうだろうね。ぼくはぼくを食べたことがないから分からないや。あなたは笑う。それはそうだ。おれにもおれが美味いかどうかは分からない。確かめることはできるが何の得にもならん。

ぼくはだいぶ遅れて皿のものを完食すると、それぞれ別のものをのせていた二枚の皿を重ね合わせる。真上から見るとひとつの円になっており、ぼくはこれを見るためにあなたと食事をするんだった。

日暮れに狩りへ行く。いってらっしゃい。おまえはどうする?寝てる。そうか、狩りから帰った時に間違えておまえを食べても?間違いではないよ、べつに仕方がないけど、痛くしないで。だったら深く眠るこった。夢を見ないほど深く。

体力の温存だと断って、あなたはぼくの膝で眠る。狩りが成功するといいと囁きながら、ぼくは、幼く見えるその無防備な寝顔を見下ろしている。

3+

小説『カリソメランプ』

空っぽの花瓶はランプになった。ぼくはそれを持って歩いた。それだけを持って暗い森の中を。秋の夜だ。深くさみしい。梟と魔女が品定めしている、人間の子どもを。ランプに灯した火のあるおかげで誰もぼくを食べることはできないのだ。

洞窟の前に来て空を見上げる。ぽっかりと月があって、どうしたって向こう側へ落ちたくないぼくは、何が息づいているとも知れない穴の中へ身をすべらせる。微かな痛みに次いで湿った鼻が手にふれ、間近にあるのは獣だと知る。これは森の王に違いない。間違いなく四肢の生き物は、しかしぼくに伝じる言語を使った。

死にたい死にたいという思いで張り裂けそうになってるやつの差し出す肉ほど不味いものはない。おまえに何があったか知らんが、吾輩は卑しい人間どもの処理役ではないのだ。夜明けが来る前に帰るといい。おまえのその仮初めのランプがまだランプであるうちに。

知らなかった。ぼくは知らなかった。黒い森のいちばん奥で暮らしているという森の王は、そんなポリシーを持っていたのか。

これは困った。何故ってぼくは帰らないつもりで出てきたのだ。それがおかげで弟たちや妹たちはほうぼうで預かってもらえるのだから。かと言ってぼくはべつに死にたい死にたいというわけでもない。もう一度考え直して欲しい、そしてわかって欲しい、あなたの心配するような役割をあなたに押し付けるつもりでは、決して無いってことを。

わからぬ。
そこをなんとか。
ぷい。
お慈悲を。

こんなやりとりが夜通し続き、ぼくは、朝の陽の光に照らされた王の姿を目の当たりにすることとなる。

荘厳なたてがみだった。見たことも、聞いたことも、想像したことさえもない。さわると存外ふんわりしている。たまらなく好きだと思って、なるほど今のこの気持ちに比べれば、たしかに昨夜のぼくは死にたかったかも知れないと思う。そう取られても仕方なかったかも知れないと。

今ぼくは生きてみたい。間違いなくそうだ。堂々たる王と、新緑のまばゆい双眸を持つ生き物と、もうしばらく生きてみたいと思い、そう伝えてみる。

ぼくが自分の心に浮かんだまぎれもない希望を、愚直なまでに淡々と伝えてみたところ、王もまんざらではないようだった。

おまえのように怖気付かない人間は初めてである。したがって吾輩はおまえの願いを叶えてやることに対してやぶさかではない。

ぼくたちはいくつも夜を越えられないだろう。永遠を知ることはないだろう。約束を破り、互いを傷つけ合うだろう。いつか後悔するだろう。だけど見知らぬ未来のために、安易な予感のしているがために、今を蔑ろにするつもりもなかった。

黒い森のさびしい最奥は、花瓶には収まりきらないほどおおくの花の咲く野であった。いつぼくを食うとも知れない生き物は、自覚のあるためつねに優しくぼくにふれた。

3+

小説『風のいたずら』

頬杖をついたままうたた寝していると、誰かがやってきて肩にカーディガンを掛けていった。誰かなんてわかってる。だけどもしかしたら違うかもしれない。目を開けて確かめれば済むことを、ぼくはいつまでも済ませたくない。

カーディガンをかけたその人は代わりに膝掛けを奪っていった。分かるような分からないような不思議な気持ちになって、そうか夢かもしれないぞと思い直す。夢なら何もおかしくない。ならば。覚悟を決めたぼくが目を開けようとしたその時、まぶたに触れるか触れないかの距離が手のひらに覆われる。

知ってる、知ってるこの平熱。
「一般的ではないかもしれないけど、正しくないってこともないよ」。
知ってる、知ってるこの声。
「夕方」。「また」。「会いに来るね」。「もしもの話」。「コツがいるんだ」。「こっちへ来るのには」。
知ってる、こんなにきみを知ってるのに。

目を開けると誰もいなくて、あるべきところに膝掛けがある。窓の外ではちょうど太陽が建物の隙間に滑り落ちていくところで、ああ、教えてくれたんだと思う。一瞬だけど。

失望とともに読みかけの本に視線を落としたぼくは、ついさっきはさんだ栞がずいぶん前進していることに気づく。もとのページへ戻ろうとして、ふいに視界に入ってしまった真犯人の名前に、ぼくは仕方なく苦笑いした。

わかった、でも許す、退屈になった時間は、いたずら好きだったきみのために使おう。

分厚い本の、表紙をとじて。

4+

小説『バジルの告解』

ドアを開けた。開けても開けてもどこにもたどり着かず、ドアは消えなかった。一枚だけ色の違うドアがあってこれを最後と開放したら、その先にあったものは。

やけにすっきりとした気持ちで目覚めるとぼくは泣いていた。洗濯物と雲のない空、色を変えた樹々、窓辺のバジル。パスタを作った時に使おうと言っていたのに、いつも忘れてしまう。

見慣れた風景をぐるりと見渡して最後に傍らに目をやった。ぼくを見下ろして泣いている。つまりこの部屋には泣いてる人が二人いるということ。二人しか、いないということ。

おまえ、なに泣いてんの。
きみが泣いてるところを見て感動した。なぜ。
悪夢だよ。起こしてくれると助かったんだけど。
きみの感情があふれ出すことを邪魔する権利なんか俺に無いから。

ぼくは寝返りを打った後もう数分間目をつむったものの二度寝はできないと確信して起き上がった。

もう起きて良いの。
泣いたら治ったみたい。

ぼくが回復したというのにおまえはなぜか不満そうだ。気にしても仕方ない。廊下の向こうに玄関のドアが見えて、夢のなかの出来事に引きずり込まれそうになる。開けても開けても終わらないドア。存在しない出口。入り口は果たしてどこだったろう。

玄関から顔をそむけ、キッチンに目をやる。

パスタつくってやろっか。
きみが?
うん。
俺に?
うん。
死んでも良い。
バジルを使う。
ちぎって待機する。
軽く洗っといて。
うん、わかった。

たった2分で茹で上がる麺に味気なさを感じつつ、空腹だったのは確かでいそいそと皿に盛り付ける。パスタドレッシングをかけて少し混ぜ、仕上げにバジルをのせた。

完璧。
違いない。

フォークに巻きつけた麺を口に運びながら、ああ、と気づく。ぼくが作れば良かった。料理当番を、はやく変わっとけば良かった。そうしたらこいつも変な気を起こさなかっただろうに。

少量の毒を混ぜなくて済んだろうに。

ぼくを殺したかった?
まさか。生きて欲しかった。耐性をつけて欲しかった。
殺人未遂だからほんと。
怒ってる?
いいよ、もう。

適当にはぐらかすぼくもぼくだと思う。廊下の先に玄関があって、そこにぼくの靴はない。この部屋に連れて来られた時から一度も出ていないので、ドアの向こうの世界がどう変わったかも知らない。ベランダで育てていた朝顔や、キケンと書かれた用水路や、隣の家で飼われていた三毛猫や、ぼくが欲しかった一人部屋や、喧嘩の絶えなかった夫婦は、今どうなっているだろう。彼らもリセットできたかな。それぞれの道がちゃんと続いているといいな。ぼくは変わりないから。

美味しい。
まあまあ。

他愛もない会話。悲劇も喜劇も見当たらない。似たようで違う日々が淡々と流れるのだった。開けたことのないドアに鍵のかかっていないことを、ぼくはずっと前から知っていた。

4+

小説『フォークを捨てたぼくらを待つもの』

影響を受けていると悟られたくなくて別のメニューを頼む。見透かされている気がして落ち着かない。思えば一緒にご飯を食べる義理なんか無かった。だって、こいつが。でも、こいつが。

ほら、きいろ。みどり。あお。あか。しろ。くろ。ひとつひとつ丁寧に教えられたくなくて色とりどりの食べ物から視線をそらせば、テーブルの上に手の甲があった。当たり前のこととして、おおきい。骨が見えるようだよ。

何もかもをしてきたこいつと、何もしてこなかったぼく。正反対だから一緒にいるのだと言い聞かされれば三度目にはもう疑わないだろう。「食べて」。消えていた音がそこから再開し、はっとした。食べる?何を?「料理。きみが何かを食べているところが見たい。つまり、きみの生きているところが」。

相変わらず意味不明だと思いながらフォークでサラダを口に運んだ。これでどうだ、と無言で問いかけると「助かった。ありがとう」と微笑んで見せる。やはり意味がわからないが、意味がわからないと思えるだけぼくは意味をわかっているのかも知れなかった。もう。

何かするだけでありがとうと感謝されたり、ぼうっと空を眺めているだけで大丈夫かと心配をされる。今ふと考えたんだがこいつはぼくを好きでは?ありえそうだ。そして、ぼくもこいつを好きでは?考えたこともなかったがありえないことでもなさそう。

お互いを好きかもしれない二人が同じ場所にいるとなると、もしかしたら彼らは幸せになれるのかもしれない。

咄嗟にフォークを皿の上に放ったぼくをこいつは不思議そうに見た。驚かないの。何を。ぼくが、今、がしゃんと大きな音を立てたこと。驚かないよ。見てたからわかる。見てたんだから。ただ、不思議だなって思って。わからないんだ。

きみ、いま、何に気づいたの。

色という色が配置を変えて世界が目前に迫っていた。こいつは、ぼくを。ぼくは、こいつを。フォークは、緑を。風は、鳥を。季節は、肌を。予感は、熱を。たずさえてぼくにまだ見ておけと語りかける。今に平気になる。今に慣れてしまう。そうしたらまたべつの絶望がぼくを襲うんだ。それでもいいかなんて思ってしまうから、妨げるものは何もなかった。掃いて捨てたいほどありふれた日常は、ぼくの知らないうちに愛に満ちてた。口にできない希望が待ってた。

6+

小説『九月のタイトロープ』

心のこもらない「死にたい」が野ざらしになっており、そのことできみは深く傷つき、本当に死んでやろうかと思う。お気に入りもしてくれない冷たさの中で生きていくには心許ないので。しかしそれを誰にも打ち明けられないので。通販サイトでロープを探していたきみはオススメ商品に好きな作家の新刊予約を見つけ死期を遅らせる。そうして一日一日を過ごすうちに九月は終わり十月に入る。鮮やかだった死にたいがペットボトルの炭酸とともに薄れる。気づかないきみはきみの大好きな渋皮栗のタッパーを冷蔵庫から引っ張り出し、フォークで上品に口へ運びながら、海外の俳優がおかっぱ頭の少女にするキスを見ている。ばたばたばたと強い風に洗濯物が吹かれるような音がして、しかしそれは涙なのだった。涙がこんなに大きな音を立てるとは知らずにきみは狼狽える。グラニュー糖を吸い込んだ茶色がほろほろほどけてきみは呟く。知らない。まだ何も知らない。誰にも平等に流れる音楽の訴えるままに元気づけられてしまう自分が嫌だった。フィクションの中で語られる言葉に軽率に救いを見出す自分が嫌だった。そうだろう、でも、生きて。何も考えなくても生きてみたら分かる。欲しかったものがあったこと。自分が名前をつけて呼んだこと。自分以外のすべての人が何事もなく無事の心で生きているなんて思ってはいけない。かけ合う言葉もなくなってしまう。もしも上手く喋れなければ、ただ泣いて見せると良かった。満月の下では許されよう。運命がどれほどか。奇跡がどれほどか。昔きみがたったひとりで泣きながら頬張っていた食べ物だというだけで今ではぼくの好物だよ。

5+

小説『深海のイレイサー』

なんとなく目を覚まして
なんとなく朝食はパンにした
なんとなく選んだ本を読んで
なんとなく散歩に出かける

なんとなく目についた靴を
なんとなく試し履きして
なんとなく気に入ったので購入し
なんとなくいい気分になった

なんとなく凝った料理をつくり
なんとなく合わせたラジオを聴きながら
なんとなく来るかなと思っていたら、

玄関のチャィムが鳴った。

ドアを開ければきみがケーキ屋の紙袋を掲げて立ってる。

「新作だって。店員さんにオススメされたから、なんとなく買ってみた。あがっても?」

こっくり頷く。
外に広がる深い夜から、ぼくはきみだけを選んで招き入れる。
きみの連れてきたにおいや、ざわめき、きみがすれ違ったであろうひとびとの感情が、少しずつ薄まって消えていく。

深海のようなアパートの一室できみとケーキを食べる。
罪悪感をともなわない食卓。
豪華ではないけど特別で贅沢な食卓。
ぼくはこのために生まれたと言って過言ではない。
きみはこのために生まれたんじゃないかもしれないけど。

「ケーキおいしいねえ」

こっくり頷く。

「明日はボートに乗ろうか」

こっくり頷く。

「青いボート、空いてるといいね」

こっくり。

「殺せと言えば殺してくれそうだね」

はっとして固まったぼくを、きみが笑う「冗談だよ。ごめんごめん。何言っても頷いてくれるから」。

今からでも頷きそうになる。もしきみが朗らかに笑いながら生きていくことを阻むものがあるなら、ぼくはぜんぜん頷くのに。なんとなくじゃない、確固たる決意で。きみはぼくからなんとなくを取り除くたったひとりの存在なのに。

ケーキの上に視線を落としたぼくは、言えなかったセリフを桃と一緒に飲み込んだ。

3+