あの線から先に入ってはいけない。
僕はそれを知っている。
教えた人は意図的だったろうか。
僕に、あの線から向こうがあると教えてしまった。
本を読みたいこともあれば、散歩したいだけの日もある。
猫を撫でたい日もあれば、たった一人になりたい時もある。
雨に打たれたい日もあれば、日光浴を存分にしたい日も。
満腹になるまで飽食したい日と、極限まで空腹を感じたい日と。
砕いていくと感性に個人差はないのでは。
粒度の違いしかないのではないか。
だから本当には分かり合えるんじゃないか。
窓の外に季節があって、今は夏だと言う。
誰だ?知ってるような知らないような顔だ。
僕は誰のこともちゃんと覚えない。
自分を一番覚えていないんだから、不思議ではない。
(あっ。原稿を、書かなけりゃあ。)
こちらを見下ろしている男を見て頭に浮かんだ言葉はそれだった。
「おまえ、原稿を取りに来たんだろう」
「え?ああ、それは分かっていたんですね。いつまで寝ているのかと思いました」
「寝顔を見ていたのか?気持ち悪いな。どうやって入った?」
「あの線を超えて」
夏なのでセミが鳴いて沈黙は匿われる。
セミが鳴くから夏なのか?それとも?
「お土産を持ってきました。頼まれていた琥珀糖」
「頼んだか?覚えていない」
「どちらにせよ好きでしょう?」
「それも覚えていない」
「食べたら思い出します」
男は僕の口に鉱石を押し込む。
顎と頬に添えられた指先から薬品の匂い。
「これは本当に食べられるものか?飲み込んで大丈夫なのか?」
「みな最初はそう言います」
「みな?」
僕以外にここには他に誰かいるんだろうか。
考えようとすると頭が痛んだ。
こんなんで原稿なんか書けやしない。
「それでも書くんです」
「頭の中を読んだ?」
「ご自分で口に出してましたよ」
「感覚が無い。困った」
「傷は、良くなりましたか?」
「傷?」
「この前見せてくれたでしょ?」
「この傷?」
「おや、新しい」
「前回と違う?」
「こちらは治ったほう」
「記憶に無いんだ」
「琥珀糖をもう一つ?」
「不味い。美味しくない」
「置いて行きます。必ず食べて」
「それ、ほんとは薬なのか?」
男の瞬きは見事なほど乱れなかった。
予知していたんだと知った。
想定パターンは他にもあるんだろう。
分かったけど試すのが面倒だしどうでも良い。
男の利益になることが僕に害を成すとも思えない。
「外の話をして」
「興味を?」
「逃げたりしないから」
男は僕を見つめた後に、ふいと視線を逸らせて笑う。
ああ、懐かしい。
胸の奥が、そこには血肉だけあるはずなのに。
飲み込んだ琥珀糖が灯ったような違和感。
男の、もっと違う表情を思い出しそう。
(思い出す、って、なんだ?)
「隔離しているわけじゃありません。逃げたって良いんですよ」
「外の話を」
「この部屋は高い塔の上にあります」
「うん」
唐突に切り出した。
まさか話してくれるとは思わず、はっと息を呑む。
男は気づいたか知らないが淡々と話し続けた。
螺旋階段を降りていく途中の踊り場にコンビニがありまして。琥珀糖はそこで買いました。そこからさらに螺旋階段を降りるとやっと地上に出ます。今の時刻、太陽が眩しいから扉はゆっくり開けて。視界が慣れるまで待って。慌てないで。転ばないよう。トラップを避け、湖を舟で渡ったら、森の入り口です。森は深く見えますが寄り道しなければ実はそうでもない。ただし森のものは何一つ食べてはいけない。出てこられなくなる。そうして行方不明になった人は数えきれません。森を抜けるとまた湖があるので舟で渡って、しばらく道を歩くとやっと人家が見えてくる。この時に振り返ると塔はちいさく、六角柱の形をしていたことが分かるでしょう。誰かが話しかけてきても、答えてはいけないんです。やつらの正体は魔物であるから。答えたが最後、あなたはまるごと飲み込まれてしまって二度と出てこられませんよ。きちんと消化もされず、ただ暗く狭い肉の狭間で生かされ続ける。死ぬこともできず。永遠に。あなたの生気を少しずつ摂取し、効率よく奴らは生きるんです。魔物の街を抜けたら今度は高い壁がある。ここは、乗り越えるよりも門番に交渉した方が早い。なんせあなたが暮らしていた塔の倍ほどの高さがあるのだから。乗り越えようとしていたら何年かかるやら。ちなみに交渉というのは穏便でなくて構いませんよ。ま、どうせ穏便には進まないでしょう…。さあ、門番をどうにかして中へ入ると王国だ。
「王国?」
「ゲームクリア!」
「ゲーム?クリア??」
「…ま、たとえばの話です。最初から最後まで、たとえ話」
「つまり本当の話」
「それは…ご想像にお任せしますよ」
「答え合わせのできない想像は得意ではない」
「もう一つ差し上げる」
次の琥珀糖を僕は拒まない。
なるほど失敗だったんだ。
男はそこまで喋ってはいけなかったんだ。
本当について話しすぎたことを後悔している。
うとうとしていると男がぼくを覗き込み、仰向けに寝かされていると分かる。
開けていようと思うのに、目蓋がゆっくり下がってくる。
男の表情が歪んで見える。
『なあ、いつになったら思い出す?約束を守れよ。俺が医師のふりなんて今にボロが出るぜ、さっさと覚醒しろ、バカ』。
ふいに男の口調が切り替わった。
こっちが素なんだろう。
僕は大切なことを忘れたんだろう。
懐かしいんだ。
心細いんだ。
それで男は泣きそうになるのだ。
正気の時には伝えられないことなのだ。
男が扉を開けて外に出る。
僕の聴覚は眠りに落ちる前、最大限に研ぎ澄まされ、線の向こうの会話を拾う。
「今朝は何か思い出しましたか?」
男と違う声が訊ねる。
他にも人がいたのか。
監視役か。
「いいや。辻褄の合わない出たら目ばかりだ。今朝は自分を作家だと名乗っていた。外の様子を教えろと問われたから、適当にでっち上げだ。創作のネタにでもなるかもな」
抑えた笑い。
「回復までもう少し時間がかかるのかも知れない」
「そうですか。先生の担当からはずしましょうか?」
「いや、」
食い気味に否定してしまったことを男は冷静に取り繕っただろう。
なぜだか分かる。
なぜか。
「……いや、これはあくまで俺が診る」
「ええ、ええ。負担になっていなければ良いのです」
「負担どころか、良い気晴らしになっているよ。助けが必要なときは声をかけるから心配するな」
「承知しました」
外の会話を盗み聞きしながら、僕は吹き出しそうになった。
何が面白いのかはっきりと分からない。
男が、周囲に気取られないよう巧妙にやっているのがツボなのだ。
ほんと、おっかしいなあ。
ほんといつかボロが出るぜ。
僕はもう少しで覚醒しそう。
次目覚めたらあいつと螺旋階段を駆け下りるから、森を抜けて魔物をやり過ごして門番と戦わないとだから、それまでもう一眠りしておくとしよう。
あ、バカと言ってたこと忘れないからな。
無事に二人でゲームクリアできたら、とりあえず一発殴らせろ。
おやすみ、親友。
あともう少し。
もうすこし。