小説

0

【小説】ヒーローのいない世界

この話は、ヒーローがいない世界のアナザーストーリー的な続編的な何か。

小学生が鬱だよ。
早めの思春期だよ。
そして作者は力技で煙に巻きますよ。

地獄のような。そう表現できる世界が羨ましかった。だって、もしここが地獄なら、次は何に喩えればいい?

ヒ ー ロ ー の い な い 世 界

ある朝目覚めてリビングへ行くと、例によって晩餐会みたいに豪華な食事があって、そこにはスーツ姿のキラさんが着席していた。その姿はまさに「できる男」。思わず出てきた言葉に反応したのはマオだった。

「ヒロさあ。いま我以外の男を褒めたでしょ」。
「あ、マオ。いたんだ。キラさんの輝きに圧倒されて見えなかった」。
「ほら、安易にそういうこと言う」。

キラさんが本気を出したことは一目瞭然だった。それから数日後にはいくつかのモデル事務所と話し合いの席を設けて、マオにも一通り社会的な振る舞いを身につけさせた。もともとスペックが高いんだよな。よっぽどキラさんのほうが魔王っぽかったや。ぼくが王手をさした時もマオよりキラさんのほうがおっかない顔をしていたもんな。あれって何だろう。生まれ持ったオーラとでも言うんだろうか。

(キラさんなら、ぼくの攻撃くらい簡単に防御できたんじゃないのかな)。

そうすればマオは魔王のままだったしあんなに多くの失業者を出すこともなかったし次のヒーローが出てくるまでしばらく安泰だったはずなんだ。どうしてこんな状況になってるんだろ。ぼくだってとりわけ正義感が強いわけじゃないし、あとになって「あなたはヒーローだったんです」と言われても「あ、そうなんだ」と思ったり「だから親がいなかったんだ」と合点が行くくらいで、それ以上のことはない。

(ぼくはキラさんに訊きたいことがあるんだ)。

小学校からの帰り道、草むらに落ちていたゲーム機を拾った。どうせ壊れてるんだろうと思いながらも珍しい形をしていたので拾い上げたら勝手に画面が表示された。ボタンを適当にかちかちやっていると、黒い画面の中央に紫色の文字が浮かび上がる。

「ヒーローがいないせかい…?きいたことないタイトルだな」。

続けて文字があらわれる。

「このせかいは10年後に魔王によってほろぼされる。食い止めることができるのは、選ばれしヒーローのみ。きみの名前をここにいれよう…。か。えっと、アキヒロ、と」。

名前を入力しながら歩き出す。走ってきた車がクラクションを鳴らしてきたので公園に立ち寄る。砂場におもちゃの剣が突き立てられていた。誰かの忘れ物かな。ゲーム機の画面を見ると、砂場にささっているのと似たような剣が表示されている。

「きみがヒーローである証拠を見せてください…。これ、抜けば良いのかな」。

ぼくはゲーム機を一旦足元に置いて、砂場にささっている剣をひっぱる。誰かが砂の奥から引っ張り返すような感触があった。負けじ。えいや、と力を込めると、いともあっさり抜けたので尻餅をついてしまった。そのままゲーム機を拾い上げて画面を見る。

「おめでとう。きみに闘う権利が与えられました」。

ふーん。おめでたいことなのかな?どうだろう。

偶然にしては凝っているな。ぼくは周囲を見回す。誰かが見ている気配はない。持ち主が探しているかも知れない。とりあえず、一日だけ。明日の朝になったら、公園のベンチに置いておこう。盗むわけじゃないさ。あずかっておくだけ。ぼくはランドセルにそそくさとゲーム機をしまうと、誰もいない一軒家に向かって駆け出した。

その夜、人生で初めて徹夜をした。

一日だけ借りる、と決めておいたから集中できたんだと思う。いくつかステージを進んでレベルを上げていって、迷ったらネットサーフィンして攻略法を見つけ出した。人気のないゲームなんだろうってことは分かったんだけど、さすがGoogle。探してみるとわずかながらも有益な情報があって、なんとか最後まで辿り着くことができた。魔王を倒した後、もう一度ネットでそのゲームに関しての情報を検索したら、今度はあんまり見つからなかった。へんだな。

翌日の登校時に公園のベンチに立てかけたゲーム機は、帰る時にはなくなっていた。持ち主が探し当てたか、また別の誰かが持ち去ったか。「あ、でもゲームクリアしちゃったや」。まあ、いいか。もう一度始めたかったら、リセットすれば良いんだ。

数日後、ぼくしか住んでいない一軒家のチャイムが鳴らされた。

「だれですか」。
「魔王です」。

どうせ夢だろう。ぼくは家の鍵を開けた。

あの時も。マオの斜め後ろに立っていたキラさんは、黒いフードをかぶっていたんだけれど、やっぱりいちばんおっかない感じがしたな。マオは魔王というより、捨てられた犬みたいな感じ。

(キラさん。ぼく、いつまで騙されたふりをしていたらいいかな?)。

「ヒロ。今度、スーツのテスト撮影あるぞ」。
「え、あ、うん。頑張って」。
「がんばって、か!いい言葉だな!我、うれしくてがんばる!」。

オムレツとサラダを小皿に取り分けながら、キラさんを盗み見る。

「マオさあ、自分のこと我じゃなくておれって言おう」。
キラさんが提案する。
「おれ?」。
「私、とか、ぼく、と同じように使うんだよ」。
「なぜだ?なんだか慣れないから我の方が出てしまう」。
「聞いていると違和感があるんだよ。この世界じゃ」。
「じゃあ、キラも同じようにしないと我も言わない」。
「わかった。おれと言う。マオも、いいな?」。
「ああ。キラが言うなら、おれもおれのことおれと言うぞ。偉いか?」。
「うん、えらいえらい」。

扱いやすすぎでしょう。問題になるレベル。これで本当に魔王とかやってたのかなあ。倒しておきながらなんだけど、だんだん現実味がなくなってくる。

ゲーム機を拾いました。
一夜で魔王を討伐しました。
ニートになった魔王が家を訪ねてきました。
そして今ではいっしょに暮らしています。

無理があるや。
誰にも話せない。

もしも秘密を守りたいなら。

荒唐無稽に仕立てることだ。

我慢できなくなって誰かにしゃべったとしても。もう誰からも信用されなくなるように。

あの子、可哀想ね。アキヒロくん。寂しくて幻覚を見てるのよ。ご家族が☓☓☓☓しちゃって、無理もないよ。創造性豊かなのよ。将来は小説家かしら。つらい体験をバネにして有名になるかしらね。きっと、そう。うん、きっと、そうだ。

ぼくの考えを見透かしたようにキラさんが笑う。

(分かって、いるんだからな、本当の魔王があなただってこと)。

ぼくはキラさんの不敵な笑みから視線をそらさずにオムレツにフォークを突き立てる。ゲームの中で、マオの体に剣を突き立てた時みたいに。キラさんは美味しい獲物を見つけたオオカミみたいに舌なめずりをする。

ぼくはいずれこの人と対峙しなきゃなんないのか。

正直、だるいなあ。

だったら、こんな小説書くの、もうやめちゃえ。

ぼくはパソコンのキーボードから浮かせた手を、グーンと後ろに反らせた。
目の端に平成最後の夏が始まる空が入っていたけど、気づいていないふりをした。

みんなみたいに、夏がくるねわくわくするねって、言えない。

ぼくにとって地獄みたい。

0

【小説】ヒーローがいない世界

ぼくの朝は夜ごはんから始まる。
とは、八年もの人生経験上、こんなボリュームのあるごはんを朝食に出してくる家庭は、あまりないのじゃないかと、少しずつだけど分かってきたからだ。
「おはよう、ヒロ。今日の寝起きもかわいいな」。
キッチンから出てきた男の右手にはステーキ皿、左手にはグラタンプレート。テーブルの上には、鳥の丸焼き、ハヤシライス(鍋ごと)、オムレツ、サラダ、お刺身盛り合わせとあって、きわめつけにスイーツビュッフェだ。
「ねえ、マオ。ぼく言ったよね、朝はこんなにつくらなくていいって。見ただけで胃がもたれそうなんだけど」
「ヒロのことを考えていたら完成してしまったものばかりだ」
マオはうれしそうだ。悪意があるよりたちが悪い。うん。とりあえず椅子について、さあどれから手をつけよう?現実的にいってここはサラダとオムレツかな。食べられるぶんだけ取り分けて小皿にのせた。
「だいたい、こんな作って、ぼくは食べられないのに。食材をむだづかいするのも大概にしろとあれほど、んむ」。
口に入れたオムレツが、とろっとろのフワッフワだったので一瞬黙ってしまう。
「残飯処理については問題ない。我が臣下に少食はいないのだから」。
口の中でオムレツがほろほろほどけていく。
やばい、腕を磨きやがった。
いつにも増して、おいしい。
という表情を、しないようにしなければ。
表情にばかり気を取られていたのがいけなかった。
2口目に進むタイミングが早過ぎたのだ。
「うれしいぞ」。
向かい合わせに座ったマオは頬杖をついてぼくを見ている。褐色の肌にサファイアの瞳がまぶしい。威厳?あるんだかないんだか。ぼくには感じられないけど、見た目だけで言えば風格は、ある。さすが腐っても魔王なだけあるな。元、だけど。

ヒーローのぼくが魔王を倒してしまったのは一年前。空気を読めない小学二年生のことだ。本当は十年後に倒す予定だったんだけど最近は攻略法があっさり手に入る世の中になってしまって、ゲームだと解釈したぼくはうっかり倒してしまった。もちろん魔界は大混乱だ。段階的にぼくに襲いかかる予定だった魔物たちは無用となり、大量の失職者が出てしまった。魔王だって例外ではない。ニート魔王だ。他に生きられる道もないのでとりあえずぼくは同居することにした。ヒーローへの復讐を誓い身近に潜伏する魔王、というていで。そうすれば、まあ、いちばん丸くおさまるのかなって。ぼくなりに考えたんだ。ぼくはちっとも悪くないけど少しは責任を感じていて、ヒーローの掟として親は消されていたから、保護者的な立場の人がいてくれると助かるし。十八になるまでは親権者の同意が必要なことって多いよね。じゃ、マオでいいかって。

だけど、マオは違ったらしい。

なんていうか、全力で楽しみ始めちゃったのだ。この人ほんとに魔王の器だったのかな。臣下と呼ばれる方々の方がよほど強面で威圧感が漂っていて無理なんだけど。でもマオの言うことは絶対だからぼくにちょっかいを出したりしないし、見せしめで消された方もいたっけ。あの時のマオは、うん、そうだな、たしかに魔王らしかった。だけどぼくがそれを見て「わー、魔王すごーい、強い魔王だいすきー」って言うような八歳児でなかったから、マオはすこししょんぼりしていた。

「思い出し笑いか?」。
いけない、食事中だった。
「ヒロは、いいな。学校は楽しいのか?」。
「連れて行かないからね」。
「なっ、連れて行けとは、まだ言ってないだろう!」。
「顔に書いてある」。
「なんだと?!」。
「ごちそうさま」。
「ごちそうって言ったか?いま、我のつくった朝ごはん、ごちそうって言ったよな?」。
「いってきます」。
「ヒロ、もう一度言うのだ!」。
「洗濯物は室内に干しといてね。午後から雨が降るみたい」。
「ヒロ!」。

とりあえず家を出る。歯磨きは学校に着いてからするようにしている。そのほうが落ち着くから。ふう。なんとかマオに楽しく過ごしてもらわねば。ぼくはマオより先に寿命がくるんだから。かと言って学校に連れて行っても先生が困るだろうし、友達と遊ぶ時にマオみたいなやつがついてきたら防犯上は良いのかもしれないけど、マオは力量の差を考慮できないからおにごっことか始めたら公園が焼け野原になっちゃいそうだしな。どうせならあの見た目も活かしたい。ようは、人前に出していきたいんだ。かつ、あくまでイメージとして。マオは過去や素性を語るわけにいかないし、だけど普通に外に出れば目立ち過ぎるし。

教室に入ると女子が集まってきゃあきゃあ高い声を上げていた。
「何してるの?」。
「あ、ヒロくん、おはよう」。
「雑誌?」。
「知ってる?ドラマやってたオニツカくん。今度、映画出演決定だって」。
「オニツカ?」。
「知らないの?隣のクラスだよ」。
「そんなやつ、いたっけ?」。
「もう、ヒロくん、世界知らなさ過ぎ」。
「ゲームばっかりしてるんでしょ」。
女子が口々に語るところを要約すると、オニツカは天才子役だということらしい。それはそうとして、なるほど。芸能界という道もあるのか。たとえばマオが「我は齢数百年の魔王で」とか言い出しちゃっても「そういうコンセプトなのかな」でやり過ごすことかできる虚構の世界だ。あり、かも。

「モデル?マオが?」。
まあ、いきなり本人に言っても混乱しそうなので腹心の部下であるキラさんに相談する。
「うん。マオに演技とか無理かなって」。
「それは同感だ。しかし、あいつは営業力も交渉術も皆無だぞ」。
キラさんはマオの幼馴染でもあるので、他の臣下の方々より砕けた言い方をする。マオのこと、あいつ、って呼べるのはキラさんくらいだろう。マオとは対照的に青白い肌に、アメシストの瞳。よっぽどキラさんのほうが魔王っぽいや。とは言わないけど。マオって、拗ねたら面倒だから。
「はい。なので、キラさんがマネージャーすれば良いのかなって」。
こんのクソガキが。
って顔を一瞬された気がしたけど、キラさんも根は悪い人ではない。特にマオ絡みでは、出来るだけ協力する姿勢を見せてくれるのがキラさんだ。
「わかった。なんとかする。それがマオのためになると、ヒロが本気で思うのなら」。
「うん、思うよ」。
「わかった」。
「マオ、ばかだから。キラさんがマネージャーしてくれると、心強いと思う」。
「こんのクソガキが」。
あ、口に出してきた。
「キラさんのほうがスカウトされちゃうかもね」。
「お世辞言ってんじゃねえぞ。その首もいで血抜きするからな」。
「ぼくがそんなふうに死んだらマオが悲しむと思う」。
「異議なし。契約成立だな」。
ぼくはキラさんと握手する。さすが(元)魔王の右腕。すっごく、痛い。

(つづく?)

1+

【小説】人魚の楽園

ぼくと暮らす人魚は仲矢という。

高校二年の一学期に人魚になった。上半身はそれまでの仲矢だけど下半身が違っていたから、まあ付き合いづらそうな人も中にはいて(そっちが大多数だったんだけど)、それからぼくと一緒に暮らすようになった。

自転車で片道十五分かけて行ったとこにあるホームセンターから大きな盥を買ってきて縁側に置いている。仲矢は大抵そこにいてぼくが勉強したりゲームしたりぼんやりしているのを見ている。

仲矢、へいき?
ん、少し暑い。

一日の会話がそれきりということもある。

人魚ってもう少しロマンチックなものを想像するんじゃないかと思うがそのへんは割と普通。特別じゃないかわりに呆れるほど普通ってわけでもない。どこにだっていそうな感じ。

おまえはさ、ちょっと狂ってるよね。一見そうとは分かりづらいんだけど。
どうだろ。
絶対そうだって。今だってへんだよ。
へんって?
もっとおれを気持ち悪がるべき。
その期待には応えない。だって。

(「だって」、そのつづき、なんだろ?)。

同級生が人魚になったこと以外に変哲はなかったんだけど、毎夕来ていた三毛猫が寄り付かなくなったのはさみしかったな。それを仲矢に打ち明けてから、三日くらい経った頃か。

月のない夜に仲矢が言った。

「なんか、もう、かえろっかな」。

呟いただけなのに、その声がいつもより響いて聞こえてぼくは思わず顔を見た。

「どこにだよ。そんな場所ねえじゃん」。

自分の声が、怒ってるようにきこえなかったか、少しだけ気になった。

「仲矢。おまえの帰るとこなんかねえじゃん」。

繰り返さなくてもいいのに繰り返した。

「そうだよな。おれの帰るとこなんかないよな」。

そう言って仲矢は、ふはは、と笑った。

その夜はなかなか寝つけなかった。ぼくは自転車の荷台にくくりつけた盥に金平糖をいっぱい積んで走る夢を見た。進めば進むほど盥から金平糖が散らばって、追いかけてくる何かにぼくの居場所を教えてしまう。慎重になる余裕もなくてただ振り返らないことだけを意識した。ペダルが錆びついたように重いんだ。気づけば田んぼに仰向けになっていた。向かい合った太陽が、黒い影に隠れる。手を伸ばしてその影を視界から退けようとする。うまくいかない。影は何かを隠している。それが太陽に重なる。まんまるい。ボール。ああ、バスケットボール。息が苦しくなる。喉の奥から金平糖が湧いて出てとまらない。甘くないとげとげが痛いのに声が出ない。ごめんな、ってその一言が、出てこない。影が笑う。ふはは。

「青春って、こういうこと?」。

はしゃぐ仲矢を荷台に乗せて自転車をこぐ。
夜が明けていく坂道を海に向かって走る。
世界がまだ始まっていないような、ぜんぶ終わってしまったような。
問題だらけなのに、一周回って、もう何の心配もいらないって思えた。

「海、怖いとこだよ。へんな生き物いっぱいいるし。そいつら毒とか持ってるし」。
「かもな」。
「食べるもんわかんなくなっても堤防付近来ないようにね。ほら、釣り上げられたら話になんないじゃん」
「ふはは」。
「だけど、お腹空いてどうしようもなくなったら、あの岩場に来るといい」。
「犬の鼻?」。
「仲矢の好物なんでも置いといてやるよ。なんだっけ?たこ焼き?あ、うまい棒とかのが良いかな。湿気って食べれないか」。
「おまえさあ」。
「うん?」。
「おれのせいでさ、自分のこと責めんなよ」。
「え?」。
「言うほど好きじゃなかったんだわ。バスケットボール」。

仲矢の声はあまりにあっけらかんとして、無責任だ、とすら感じる。

「みんながすごいねって言うからやめなかっただけ。もっとすごいやつなんていっぱいいるし。だけど後戻りできないんじゃないかな、って」。

自転車が小石を踏んづけて、タイヤがみるみる張りを失ってく。
それでもぼくは、ペダルをこぐのをやめない。
決定的に。

「むしろ、誰もきずつけずにやめるきっかけができて、それはそれでよかったなって思ってる」。

決定的に、許されたいだけ。

車椅子に乗って現れた仲矢には誰も声のかけ方が分からなくて、みんなで見えなくなったふりをした。

「てか、食いもんのこととかで気い遣ってもらわなくても結構ですから」。
「仲矢、ちょっと天狗なとこあるから仲間はずれにされないか心配」。
「大丈夫でしょ。海はひろいし。どっかにはおれの楽園くらいあるって」。

人魚の楽園。

か。

その日ぼくは仲矢が潜っていった海を何時間も見ていた。たぶん、なんだけど、タイミングがちょっとずれちゃっただけなんじゃないかな。生まれ変わりって信じる人もいるでしょう?普通は一旦死んだあとに別の命になるんだけど、仲矢はそのタイミングがずれて、生きている間に「生き変わった」んじゃないかな。ぼくは思う。波音はいつまでも耳に残って、受験勉強中も就職面接の最中でも消えなかった。大学入学を機にぼくは島を出てビルの多い街ですっかり暗くなるまで働いている。港まで見送ってくれた友人たちには「おまえなんか三日で帰って来るから」なんて散々言われたけど、かれこれ三年が経つ。島に帰る気は、当分起こりそうにない。

無いものが何も無い街でぼくはふと思い出す。
波の反射や、盥で金平糖を運ぶ夢のこと。
太陽に重なったバスケットボール。
ぼくと違って日に焼けた肌の仲矢が息を吸う。
景色が屋上に巻き戻される。
風。温度。におい。全部ただしく。

「ねえ、一生の思い出つくってやろっか」。
「え?」。
「おまえいっつもつまんねえ顔してっからさ」。
「…なに」。
「うっとうしいんだわ」。
思い出した、仲矢だ。こいつの名前。
「生きてておもしろい?」。
こいつの存在感。
「その顔じゃ無理でしょ」。
こいつの笑顔。
はい、無理です。
足早に立ち去ろうとしたおれに仲矢は言う。

「一生の思い出。おれのこと後ろから押してくんない?失敗しても、絶対誰にも言わないから」。

吊革につかまって車窓から外を見ると、つくりものみたいなピンク色がもうすぐ夜を散りばめようとしていた。家々の窓はすこし光って、すこし暗い。誰かがいる。傷つけながら、愛しながら、許しながら、約束をしている。海の中って、案外こんなかんじかな。ぼくは考えて空を見る。そこに誰かの目があってこっちを向いている気がして、「あっ」、やっぱり目が合う。

あの日屋上で仲矢の背を押したおれが、やっと見つけてもらえたって、安心したようにこっちを見ていた。

2+

【小説】ハミングのないピクニック

「それほどお腹が空いていなかったのがいけなかった」?

いや、違う。

それほどお腹が空いていなかった時に出歩いたのがいけなかった。

月のない夜に。

ふと、こわいような気がしたんだ。ずっと平気だったことが。どうして平気でいられるのかって。

おれは、なんとなく、それまで食べたもののためにもう一度生まれ直したいような心持ちで草むらを歩いていた。

「痛いです」
みっともなく飛び上がったのは、足元からとつぜん声が聞こえたからじゃない。
月のない夜にもそれがすこし輝いて見えたからだ。
「あなた、今、あたしのこと踏んづけましたよね」
「あん?」
「だったら、拾ってください」
「なんだと?」
「もう一度言います。運命なので、拾ってくださいな」
「あ、はい」

あの時は内心「あさごはん、みっけ!」くらいのノリだった。とりあえずその時は満腹で、だけど朝ごはんはあるに越したことはなくて、都合のいいことにそいつはおれを怖がらないから仕留める必要もなかった。

それがまあ、毛づくろいなんて、されてしまって。孤高の遺伝子が泣くぞ。

崖から落ちる時にすべてを忘れてしまったんだそうだ。矛盾だらけだとしてもおれはそいつが最初に語ったことを信じて、まあそれでいいかって思ってる。嘘でも本当でも。そいつがそういうことにしたかった。じゃあそれが事実だったってことでいい。

おばあさんが死んでしまった次の日、銃をかついだ猟師がやってきて、あの時の恩を返せと言うんだそうだ。いやだと突っぱねるとあっさり諦めて帰るんだが、次の日もまた次の日も来るんだそうだ。

それでね、猟銃を奪って撃ってしまったのよ。なかなかやるじゃないか、心臓か?まさか、左腕一本よ、べつに殺したいわけじゃないもの。まあ、そうだ。そうでしょ?そうだ、おれはその気持ちをとてもよく分かるぞ。殺したいわけじゃないんだ。うん。食べないといけないんだ。食べる?いいや、こっちの話さ。

誰も連れて行ったことのない花畑をなんとなく秘密にしておいたのは、分かっていたから。彼らはおれをこういう目で見る。

(そこへ連れて行ってどうしようと言うの?)

白い花がたくさん咲いたんだ。それを、見せたいだけ。

(嘘をおっしゃい)

ほんとうだよ。

(いいえ、それも嘘。いきなり食べる、つもりでしょう?花だって咲いてなんかいないのよ。あなたが育てた花が咲いたりするもんですか)。

がぶり。

夕焼けから夜になる時がいちばん安心する。
わかるわ。
自分が隠されていく感じがする。
そうね。
もう思い出しているんだろう?
気づいていて?
きみは忘れたりするもんか。
もういいの。
スカートの中に何を隠している?
何も。捨ててきたの。
おれは逃げたりしないさ。
あたしもよ。
追いかけたり食べることには疲れた。
そんなこともあるのね。
いつもだよ。
あなたオオカミには向いていなかったのよ。
そうかもな。
次はきっと平気よ。

おれたちは森で暮らしていた。特別なことじゃない。月のない夜にだけふたりでハミングのないピクニックをした。今までずっと、誰に自慢したこともなかったけれど。

3+

【小説】はじめましてとぼくはいう

その家のドアはいつも少しだけあいていた。こどもの目がひとつ、のぞけるくらい。レモングラスが香って、ぼくは迷わないでいられる。かごに文鳥が二羽いて、まんまるい目でぼくを見ている。呼び鈴を鳴らすと男が迎え入れてくれる。はじめましてとぼくはいう。

お手紙をあずかってきたんです、その、あなたの、たいせつなひとから、それで、ぼく、ここの場所を知って。ぼくがどもりながら経緯を説明する。男は「座っていいよ」と言った。床に座ろうとするぼくへ「椅子へ、どうぞ?」。そのとおりにした。男はハーブティーをいれてくれた。ぼくの向かいに腰を下ろす。そしてようやくぼくを見てくれる。よくきてくれたね。話し出す。ぼくたちは会話をする。未来でもない、過去でもないこと。やがて時はすぎる。男は「もう時間だね」と笑う。その頃には、おたがい自然に笑えるようになっていたので。また会いに来てくれるかな。はい。こんなモーロクに付き合わせて悪いね。いいえ、とても楽しかったです。あと、この香り、好きなので。男は少しだけ寂しそうな顔を見せた。だけどそれは笑顔には変わりなかった。

その家のドアはいつも少しだけあいていた。こどもの目がひとつ、のぞけるくらい。レモングラスが香って、ぼくは迷わないでいられる。かごに文鳥が二羽いて、まんまるい目でぼくを見ている。呼び鈴を鳴らすと男が迎え入れてくれる。はじめましてとぼくはいう。

部屋に通されると、そこには文鳥のように白くて小さな双子がいた。ぼくはいう。はじめまして。女の子はいう。ちがう、あなた、昨日も会った。前も、その前も、そのまた前も。なぜ毎回はじめましてというの?あなたまるで、

そこへ男がやってきてハーブティーを差し出してくれる。悪いね、私の文鳥が、何かきみに言ったのだろう?いいえ、ぼくは首を横に振る。女の子たちは姿が見えなくて、かごの中の文鳥が背中の羽毛にそのくちばしを隠していた。いいえ、ちっとも。だって、そうだろ。おかしな小鳥たち。ぼくがここへ来たのは初めてなのに。それからは優しい時間が流れた。ぼくは男の話にときどき相槌を打った。話は淀みなく続いた。子守唄みたいに。そしてぼくは本当に眠ってしまった。

薄く目を開ける。明け方なのか夕方なのか判別できなかった。時計はないけれど、なんとなく夕暮れ時なんだろうと思った。あたたかかったから。これは、太陽がまだのぼっていない一日の気配ではない。ぼくは唐突に懐かしさに襲われる。蓋をしていたものが、一気にあふれたような懐かしさだ。部屋のドアを少し開いて、向こうから聞こえてくる声を聞き取ろうとする。

おじいさま、ねえ、あの子はなぜ毎回はじめましてというのかしら?あたし、不思議よ。
小鳥の声。
おじいさま、ねえ、そしておじいさまはなぜそのことを指摘なさらないの?あたし、とっても不思議。
これも、小鳥の声。
彼の時間がそのように流れているからだよ。あの子はね、一日終わるごとに命が終わるんだ。そしてつぎ目覚めたときにまた新しく生まれるんだよ。
と、男。
お病気なの。
これは、小鳥。
どちらが?
と、もう一羽の小鳥。
いいや、ちっとも。
男。
お病気なんかではないさ。
ぼくの、男。

ぼくはベッドに戻る。ガーゼにもぐって、今聞いた言葉を忘れるためにもう一度眠ろうと思う。

知っていたのに。

この家のドアがいつも少しだけあいているのも、そしてそれがこどもの目がひとつのぞるくらいの幅であることも、迷わないようレモングラスが香ってきて、かごには文鳥が二羽いて、まんまるい目でぼくを見るんだろう?呼び鈴を鳴らすと迎え入れてくれるのは、女ではなくて男だろう?

ぼくは、知って、いたのに。

男はどれだけ待ちわびただろう。これから先あと何度ぼくのはじめましてを聞かされるんだろうか。そうだ、メモ。メモしておけばいいんだ。この家であったこと、男の話の内容など。それをポケットに忍ばせておけば、見るたびに思い出せるだろう。男に、同じ話をさせずにすむのだろう。

ぼくはふと思い、ポケットに手を入れてみた。指先に折りたたまれた紙の感触があった。取り出してひろげてみる。

てっぺいさん
しゅみはりょこう
とくいなことガーデニング
学生時代もてた
笑うと目がほそくなる
エプロンがにあう
文鳥をかっている
なまえはキラとジジ
どちらも女の子
おしゃべり
話し相手
てっぺいさんは革靴がきらい
汚しちゃっても洗えないから
白いシャツがすき
汚れたことが、わかるから
おくさんは交通事故でなくなった
そのおなかにはおとこのこがいた

そこには、ぼくのものと思われる筆跡で、男に関するたくさんのことが書かれていた。

小さく折りたたんで、ベッドの下へ隠した。それを本当はポケットに入れておくべきなんだろうけど。だけど、ぼくは、好きだったので。男に会うために長い坂をのぼってくるのも。たまにほどけるスニーカーの紐を結び直すことだって。用心しながら電柱を避けたり、塀の上の猫に声をかけて一瞥されるのも。目的の家をみつけて呼び鈴を鳴らす。ドアはいつも少しだけ開いている。ぼくが訪れる頃を見計らって用意された飲み物のにおい。あれは、おかあさんのにおい。男がドアを開ける。はじめましてとぼくはいう。

これ以上の幸福が、あるだろうか。ぼくは知らない。もう一度眠る。また生まれるために。もう少し待っていてね。必ず会いに行くから。たったひとりのあなたに。

2+

【小説】春の呼吸

桜が咲いたんだって。

どこの。あの坂。ふうん。興味ないんだろ。いや、そうでも。どの坂って訊かない?あるんだったら。わかるよ。まあ、いいや。なに?え?何か言いたかったんだろ?べつに。

ていうか、人生とか冷蔵庫だから。

その切り替えに対しては、ぴくりと反応した。
二人で会話しているだけなのにおまえは聞き耳を立てるようにする。

新しく食材を買うんじゃなくて、あり合わせで生きていかない?

三秒。
十秒。
七十秒が経過。

指先で回すペンが落ちて転がったけどおまえはそれを拾わないでおれのことを見ている。

正気?

余裕なんかない。確信はある。落ち着いてなんかない。だけど迷いは見せたくない。うん、と頷く。心配になって二度頷く。

ふはっ、嘘だな。

そう言う顔が少しにやけたのを見逃さない。代わりにペンを拾い上げて耳たぶを摘んだ。ほっぺたを包んでムニムニをする。べつに、可愛くはないんだよな。おれが好きになったものなのに。顔立ちも平凡だし性格だってどちらかと言うとつっけんどん。ツンデレって言われればまあそうかなって思うけど好意的解釈に過ぎると感じることはある。でも。

ずっと見てたいんだよなあ。

気持ち悪い。好き過ぎんだろ。とか。自惚れるんじゃねえよ。口悪い。味覚が変わったのかな。何だよ。なんでもない。桜。え?桜が咲いたんだろう。え、あ、はい。見に行く。え?見に行くって言ったんだ!二回言わせんじゃねえよ!聞きたいんだろ!聞きたいだけだろ!え、あ、はい。お、おま、おまえもどうかと思ってるんだ。え、あ、あ、お誘い、なの、かな?ふざけた口調になるんじゃねえよ。え、うそ、これ真実。は、おまえ、そうなの?キャラ違うじゃん。変貌が気持ちわりいんだけど。あり、ありがとう。感謝するな。違う、桜のこと。え、あ、ま、まあな。行かせていただきます。超絶に。

なにこれ。超絶あれなんだけど。プロポーズした方がデートのお誘いで照れるとかなんなの?春なの?幸せかよ。

っていう。

シミュレーション終了。

おれは息を吸う。

意を決して切り出す。

あのさ。

「桜が咲いたんだって」。

0

【小説】はじまりのあいさつ

あなた、言葉の通じる生き物がきらいなんだってね。言葉が通じない瞬間がわかるから。最初からなければいいんだよね。あるものが壊れることは誰だってかなしいしさみしい。おんなじだよ。ダメになる人間を何人も見てきたよ。世間的には恵まれていてうらやましがられるんだ。時にはあなたになりたいと告げる人さえあらわれる。そうするとだんだんからっぽになって、幸せでなくてもじゅうぶん笑えてしまうんだ。帰り道を忘れてしまうんだ。自分がいつから迷っているのかも。ぼくの素敵なところはあなたなんかこれっぽっちも好きじゃないところ。ただ都合はいいかな。ぼくは雨風を凌ぐ屋根が欲しい。あなたは言葉の通じない生き物をそばにおきたい。不都合はないよね。あたらしいミルクはもういらないよ。何を差し出されなくてもぼくはここにいる。むずかしくない。ただの契約だ。しいて条件を提示するなら、寝ぼけて噛み跡をつけちゃうくらいのことは我慢して欲しいんだ。それから、名前をつけてくれ。あなたの好きなやつでいいから。

2+

【小説】ゆきのこども

夜を一針ずつ縫っていく
これがぼくの仕事
朝になるとぐうぐう眠る
右手の指は藍色に染まってる

次に目覚めたら探そう
これはきみが生まれた夜

お母さんはたっぷり泣いたあと
きみのことをじっと見下ろし
その一度に一生分の愛を込め
雪の中に置き去りにした

きみがこの世で最初に見たものは
自分に向かって降りかかる雪だった
それは誕生してすぐに
ばらばらになったきみの兄弟姉妹

この世界はね
かなしいの
みんなが私たちを見て
きれいだねって言い合うくらい

だからすぐ溶けてしまう
ようにしているの
そんなわけないじゃない
そんなわけないじゃない

きみは雪の声を聴くことができた
それはまだ誰も獲得していない能力で
もしそのまま少年になることができて
望むのならばどんな人の子にだってなれた

数日後きみは歩き出した
野犬がきみを襲おうとしたので
雪の言葉で文句を言った
雪は神さまのものだから野犬は消えた

きみは五歳ではじめて人間に会った
それは知らない言葉で喜びを表現した
男は有名な学者で
きみを街へ持ち帰った

きみにはあたたかな
ベッドとスープがあった
ミルクとフォークがあった
本とソファーがあった

きみの前歯がぐらぐらし始めた頃
きみのお父さんが逮捕された
ある場所からこどもの死体が
いくつもいくつも発見されて

きみは被害者として
保護されそうになった
だからきみは逃げた
逃げる場所はあの森しかない

ベッドを知ったきみに洞穴で眠ることはできない
ミルクを知ったきみに川の水をすくって飲むことはできない
フォークを知ったきみに獣を仕留めることはできない
本を知ったきみに雪の声は聞こえない

そんなわけないじゃない
そんなわけないじゃない

雪はきみを覚えていた
冬のある日ある地域では雪がおかしな動きをした
天から地ではなくて地から天へ降ったのだ
それはきみを軽々と持ち上げて空高く連れてった

きみはもう見えない
木苺が見ていたのに
きみはもうここにいない
冬眠のくまだって春を待つのに

ニュースが流れ
きみは忘れるための儀式にかけられる
独房の男だけがきみを少し思い出した
長い拷問の果てに夢を見ながら

こんな夜でも一針
あんな夜でも一針
ひとりの夜は一針に過ぎない

それ以上になることがない
それ以下になることもない

きみがここへ来てぼくを手伝うのなら
かわりにぼくが行って見てこよう

きみが会えなかったお母さん
きみを守れなかったお父さん
きみに巡り合わなかった初恋の人
きみを知るよしもない未来の伴侶

そうだ、
なんならお気に入りの本をお土産にしよう
あの学者の本棚にあるものにはすべて
何度か目を通しているんだろう?
なあ、何がいい?


……
………

困ったな
無視しながら泣くなよ
いや、泣いていい
泣いていいんだ
今夜は地上で雪を見られる
ぼくにとって生まれて初めてのことだ

6+

【小説】かつて星屑だったもの

汽車はずっと走っているのに、夜ってこんなに長いんだ。
「まるで誰かさんの言い訳みたいだな」。
そう呟いたら狸寝入りから飛び起きて「いえいえ、そんなことありませんよ」ってむきになる。
でも昨日のおまえは?
という質問には咄嗟に言い返せず詰まったあとで改まり「あれはですね、仕事」「ふーん?」「仕事の一環。そう、演技なの」「へーえ?」「そう、だってそれが仕事だから!つくりもの。まがいもの。ね、私情は一切はさんでません。ね、分かりますよね?分かってて言ってんですよね?」、こっちが黙ってるとおまえはどんどん早口になってしまいには泣きそうになるから大の男がやめとけよって慰めてやる。
おまえを選ぶ奴なんていくらでもいるだろうにどうしてこんな意地悪な年上なんかに惚れるかなあ、我が恋人ながら残念だ。もったいない。
「もったいないなんて言わないでください、おれのほうが、おれのほうが、ありきたりの人間なんですから」。
そう言っておまえは座席のリクライニングシートがきしむぐらい全身でのしかかってくるから一発殴ってやった。
小さく息をついてもう一度窓の外を見れば、さっきまでふたりがいた街が光の数珠になって、ぼくたちが捨ててきたものの多さを考えさせる。考えられないからしばらく目を閉じた。だけど光は追いかけてきて、顔ごと背けた。そしたらたぶん良いように解釈したおまえがへにゃへにゃとだらしなく笑った。
(こいつ、ほんと、ばかなんだなあ。)
ある程度の距離まで走ったらおまえを駅に置いて別れるつもりだったけど突如としてぼくの心理を読み取る能力を身につけたおまえに感づかれて阻止された。
今は手首に冷たい手錠。
もう片方はおまえの手首。
鍵はおまえの内ポケットの中。
用意周到にもほどがある。
本当はもっと別の使い方を予定してたんですけどねえ、って悔しがる変態。そんなのおまえ次第だろうが。囁けば耳朶まで真っ赤になって大声で返事をする。
なあ、終わりの気配を感じているのはぼくだけなんだろうか。さんざん馬鹿をやって眠った男に質問を浴びせていると涙が出てきて、またも狸寝入りのおまえに気づかれる。ただし今度は目を開けないまま、ぼくの頬の濡れた部分を正確になぞるから、もう何も怖くなくなってしまう、本当、だめな大人。ほんと、だめな、逃避行。
ぼくたちは光の鎖を断ち切って、無名になれる居場所を求めている。
だけど思うんだ、居場所なんか他所では見つからない、今いる場所がそうなんだから。思うんだ。おまえがいれば、そこが居場所なんだ。少なくともぼくにとってはそうだ。
光の尾を引く願いにも似た祈りにも似た思いが気づかれないよう息をひそめる。
いつだって大げさな男はこんな時だけは何も言ってくれない。
ぼくはこうして人間になっていく。

1+

【小説】もう旅になんか出ない

生まれ変わっても、いい?

ソフトウォーカスの世界に生きている君は言った。まるで、なんだか、そうだな、料理や新しい髪型について感想を求められるような軽さだった。それでつい頷いてしまったのだ。ああいいよって。

次の日、君がいなくなった。
死亡ではなく消失。跡形もなかった。誰に説明することもできなかった。あまり詳細に語れば僕のほうが頭のおかしなやつになってしまうから。この不可解な状況よりも。これから一人で君を探さなくてはならない。

生まれ変わるのだと君は言っていたな。
ベランダでさえずる鳥を見る。こいつだろうか。水槽の魚。植木鉢の花。どれも怪しい。いや、何も僕の部屋にいることはないかもしれない。遠くに出かけてみる。僕はリュックに歯ブラシと数日分の着替えを詰めた。

すれ違う人みな怪しかった。
君が意地悪で僕を無視しているようにも思った。肌の色が異なる人。聞き取れない言語でしゃべる人。向かい合えば瞳の色だってさまざまだ。しかし、待てよ。君が僕を覚えたまま生まれ変わったとは限らない。だとしたら、僕はみんなに優しくしなければ。

それから僕は何をしたか?
懐かしい部屋に戻って、旅に出る前と変わらぬ日常を過ごしたんだ。君とはもう出会うことはないだろう。それを認めることがおそろしかった日々は今や遠い。君がいつも寝そべっていたソファはそのままだけど。

そして僕にもその時が来た。
誰も知らない物語を抱えた僕、さぞかし秘密めいた老人だったろう。いつも幸せそうで。いつも遠い目をして。かぼちゃのポタージュ。あれは、うまかった。今度君がつくってくれたら、喧嘩なんかやめてたいらげよう。

別れを惜しむ人はいないと思っていた。
かすむ視界の中に、こちらへ駆け寄ってくる子どもの姿があった。何をしていたの。どこにいたの。どうしてこんなに悲しいの。子どもは矢継ぎ早に質問を浴びせてくる。
答えることは、もうできない。

問われ、答えること。
それが一番の愛だった。
求め、求められることに似て。
君はやがて誰かを好きになる。
その時に言うんだ。
もう生まれ変わるなんてこりごりだと。
今が一番幸せなのだと。
そうしたら悪い魔法は見逃してくれるだろう。
どうやらみんなそうやって生きているようなんだよ。
百年生きた僕が言うんだ。
試してみる価値はあるだろう。

4+