No.771

ここから先へは行きたくない。黒い霧が流れている。ぼくを見つめる瞳の気配、手も足も出せなくなる感覚。きみが手を握ったり離したりするせいで、本当のお別れなんだと分かってしまう。気づくのはぼくが先でも、準備するのはきみが早かったね。いつも。いまも。太陽があるのに降り注ぐ雨を、奇跡のように見ていた。初めてきみを見た時きっと、同じ顔をしたんだろうな。顔を上げる。誰が教えずとも、空に描かれる虹に気づけるように。きみの決断を待たずにぼくは手を離す。黒い霧が晴れたら新しいきみを見つけられる。予感だけで一歩を踏み出す。運命に出会うために糸を切った。さよならを言わなかった気がして振り返ると、陽だまりしかそこにはもう残っていなかった。

3+

No.770

絵の具を混ぜて唯一無二をつくりだそうとした神さまの試みは、既視感の連続で不発に終わった。欠けたのは新鮮、初心、慈愛と無垢。目をつけたら花を見て、口をつけたら喋り出す。彼ら彼女らへの憧憬は止まなかった。いつも。ちいさな鳥が卵を産んで、孵る前に獣に食べられても、雨は大地を潤して、虹は七色を描く。ぼくは自分になにが足りないか自覚している。それをどうやって補ったらいいのかも知っている。自分がどれほどそれを望んでいるかを。誰も望まないことを。人を傷つけない夕日や星空はない。朝は、思い出は、食卓の卵は、選ばれなかった野良猫、ぼろぼろの夢。描かなければ見なくて済んだのに。見慣れたものに飽きてしまっても、時間は巻き戻せないまま世界はリセットされる。きみの産声が正解も不正解も打ち破る、朝、美しい一日を迎えるためにそこらじゅうで絵の具を潰す。

2+

No.769

忘れていいよなんて言わない
思ってもないことを伝えたりしない
覚えておいて、覚えておいて
忘れようとしてもいいけど(無理だから)

体育館の扉が半分ひらいていて
後輩たちが駆け足で横切ったあと
輝く菜の花より鮮烈だった
非常ベルが鳴って合唱が悲鳴になった

飼い慣らされた野性が日常の
中で死んでしまおうとしていた
僕はすがったりひれ伏したりした
ここにいて、また元に戻すから

覚えておいて、覚えておいて
出会う前だと思っていた頃を
もうすでに出会っていた頃のことを
あなたの視界に入ることだけ考えていた
人差し指が非常ベルを押すのを見ていた

菜の花が燃えているのを
水族館の水槽みたく磨かれた空を
その瞳に刻まれる一瞬を
無実のあなたと逃避行とかしたかったな
だけど何にも言えなかった臆病者を忘れないで

3+

No.768

雨雲の切れ間からバター色の光がさしている
映画ならあの光は兆しかもしれない
群像劇ならあの光はフラグかもしれない
ぼくは今日運命の相手と出会うのかも

日常に点を散りばめて線にするのをもったいぶった
時間は砂のように流れて光景をつくりかえてった
登場人物は変えないまま少しずつ少しずつ
ドラマチックはぼくの上を素通りした

どんな思いで気持ちを伝えてくれたんだろう
卒業式が終わった後のワンシーンを繰り返す
本当に桜が舞っていたのか、身長差は違わないか
もう分からないしそもそも捏造込みの回想だとしても

光はさしていた
今ぼくが何気なく見上げた空にあるような
光が確かにさしていた
特別じゃないもののような顔をして
今さら気づいたのとでも言いたげに

線は後から結ぶものなんだろう
点を散りばめたことはないんだろう
その証拠に振り返れば道だけがある
つないだ手からは光のように血が流れる
人が変わっても名前が変わっても

2+

No.767

一枚の絵に、知る限りの青をのせた。

永い夢から醒めた青。
色彩から隔たった青。
夜と夜明けをつなぐ青。
境界線に生まれ出づる青。

ぼくはぼくの名前をつけるけど、きみはきみの呼びかたでいい。どの青がどんなふうに映るかは、きみの瞳によるところだから。それぞれの瞳が感じることだから。

過ぎ去った時間を取り戻せないと分かるのは、同じぶんの時間で形を成した人に出会ったとき。彼らは前触れもなく現れて言った。
「なにも特別なことではないよ」。
賞賛したい、諦めたくない、何も無くてただ自由でいたことを、認めたくない。ほとんどの当たり前が、ぼくにはできない。

誰かを愛すること、自分の弱さを受け入れること。どちらが欠けても後悔が生じる。どちらを満たしてもまたべつの後悔が生じる。

見下した世界がたちまち無数の青に染まってく。ぼくが描き出す青など飲み込まれてしまう。唯一無二なんて幻だ。幻だと知るところから、また始まっていくんだ。

風が吹いてキャンバスの埃をさらっていく。
きみが笑った。
ひるがえった屋上のシーツの裏側で。
いつかのぼくがそうしたように。

3+

No.766

いつでも会えると思っていると
いつまでも会わないまま終わりそう
終わりそうな命であることに例外はなく
つないだ手を離す理由を天気のせいにした

僕を見るあなたの目が優しくて
求められてもないいいわけを披露する
聞き苦しい話を遮らず聞いてくれた
こんな人が僕といてくれたのか

世界には完璧なものが多くて
少なくとも多いように僕には見えて
あなたもそのうちの一つだと
思ってたんだ、誤解を解いて

色とりどりの魚が泳ぎ
水槽越しに見つめあったふたりは
たまに隠されながら
文字や思いを泡にして遊ぶ

やがてあなたは謎を一つ明らかにする
僕が誤解を解いたお返しだと言う
何を拠り所にして凪いでいられたのか
壊れそうだから壊されたかったと告白される

5+

No.765

夜は怖くないのに
朝がきて光に包まれると
ぼくにも輪郭ができ怯えてしまう
今日もまた影を引きずって歩くんだ

満員電車に揺られながら
何が怖いんだろうと問いかける
質問者も回答者も自分なので答えは無い
車両が大きく傾いて窓の外が夏だけになった

やりたいことも望みもないけど
それを隠して生きているだけじゃないか
これは一つの仮説
だから輪郭や影が怖いんだ嘘が見破られる

誰にも届かない言葉を
吐き続けていられるほど強くなくても
誰にも届かないとわかっている言葉を
吐かずにいられるほど我慢強くもない

結局吐き出すしかない
喉を通さない文字という文字を
誰の心臓も撃ち抜かない思いという思いを
今日もまた透明のまま目覚める

窓の外に流れる青色に別の仮説を描く
ぼくが生きることをやめられないのと同様
ぼくが言葉や文字をやめられないのは
ちゃんと誰かに届いているからではないか

寄り添っていても抵抗がなく
姿がないからあるがままの姿でいられて
時にはこころを垂直に貫く光のような
ぼくが知らずにそうされたように

車両の傾きがゼロに戻り
窓の外に人工物が戻ってくる
ぼくが見ていた夢と現のさらに先
この星で会いたい人に出会えそうな気がした

3+

No.764

夕陽がすごく綺麗だよ
隣の部屋からメッセージがとどいて
音を立てないようベランダへ出る
遮光カーテンに守られた世界の外で
もうひと回り大きな世界が輝いていた

かがやく闇は家電量販店の看板を飲み込む
不用品が集められるあの場所を
親切なオーナーのいるコンビニを
一度も入ったことのない五番街を
嫌悪にすり替わる他なかった好意を

同じものを見ているだろうに
だって教えてくれたのはきみなのに
本当だねと写真付きで返信する
きみからも同じく写真が届く
僕の方がセンスいいな、
そう主張したくて部屋のドアを開けた。

『なかなおりの詩』

3+

No.763

盗まれたから持っていたことを知った
失ったから大切だったことを思い出した
漏らして知る自分の本音
嫌いだと言い好きだと否定した
胸が痛んで耐えられない
本音を嘘で証明しようとして仕損じて
きみはずっと私を好きだったよと
あなたから教えられるという失態
ぼくから伝えられなかったという不覚

『不覚の詩』

2+

No.762

決まった朝に目が覚めて
いつもと変わらない私を知る
机の上に増えてく花が
減っていく言葉を表していた

日付が追い越していく
異変のない庭の手入れと
たやすくなびいてしまう髪

あなたに言ったことはない
不安が消えたことはなかった
愛を歌えたら
幸せを歌えたら

欲しい終わりをあげられたら
塗りたい青で塗りつぶせたら
きっとなにかが変わると思っていた
ずっとなにも変わらないと分かっていた

あなたは光りやすい素材の人ね
私と違って私でなくても
手をかざすだけで見つけられるの

2+