No.786

季節が過ぎ、つなぎのための風が吹く。防波堤にたたずむ人影を見て、私があれだったら良いのにと思った。あの男だったら。今にも踏み出そうとしている。打ち砕かれる波に自分を投影している。そんな光景に焦がれなくても同じようにいつかなるのに。貝殻をひとつ拾った時にぜんぶ見えるんだ。何がってぜんぶだよ。貝殻が誕生してから漂流してきた海中の景色。砂浜にやってきてはしゃいでいた幸福な子ども。その中に男がいる。数十年前に子どもだった男だ。曇りのない瞳を、無防備に世界へ晒している。はらはらするような、無垢の笑顔で。私がなりたかった。あなたになりたかった。だけどなれなかったから、あなたに、あなたは間違えていると伝えに行こう。あなたは正しくないと。取り違えていると。捨てるのは貝殻のほう。死ななくていいと伝え、固く握り締めた拳をひらいてやる。ひらくと分かる。何も握っていなかったこと、だから何でも握れることを。

2+

No.785

星が線で結ばれる前に
ぼくたちひとつだったことがある
あなたは忘れたろうね
ぼくには短い時間なんだ

模倣された幸福が
向かいのアパートの窓に映り
まだそれを欲しがらないのかと
博愛主義に糾弾される

愛を欲しがらない
ただそれだけで
人はこんなにも異質に扱う
かつておんなじ土だったのに

茎が伸びて蕾をつけて
花が実となり種を落とす
過程で、その過程で
誰もが忘れてしまったんだ

見なければ良かった
あなたの涙なんかを
オレンジが溶けた
つかめない永遠ばかりの

もし涙がこぼれなければそれは
ぼくたちの暮らす灯になったのにね
死を前にときどきはにかむ
ぼくたちまるで人間のようだね

3+

No.784

盲信することは時たま必要だよ
命をたしかに救うので
そういうことがあるので
正確に言えばぼくは見たので

小説家はみんな嘘つき
でもね相手によるんだ
自分を絶対に信じないひと
そのひとへは本当を言うんだ

分からない
わからなくしてる
信じられない
しんじられないよう振舞ってる

いつか消えるんだってね
親も子どももぼくもきみもさ
欲しかったおもちゃや掴めなかった夢も
星空を映す海にかかった橋を渡ろう

人間は強いね
ぼくが思ったより
人間は脆いね
きみの語ったより

ささやく声が流れ星
誰もが分からないと背いた時も
嫌いじゃないと言ってくれた
それだけで盲信に値する
きみの幸福をねがってる

3+

No.783

橋の上から葉っぱを落とす
顔や世界を消したくて
見えないことで消した気になる
まるで子どもの遊びだね

鳥かごを持って歩くぼくを
森の生き物が笑っている
帰るはずはないよ
帰るはずはないのに

見慣れた青をここで見たんだ
割れた卵の殻だった
捕食者の仕業もしくは
きみが生き永らえた証としたい

落っこちそうな満月を
誰がそこで支えているの
きみにも消したい世界があるのか
ぼくが森を彷徨っていてもか

旅を終えて家路につく
おかえりと見知らぬ誰かが言い
月を溶かしたスープで眠る
名前を持たないぼくらふたりは

3+

No.782

ひとつのモチーフを繰り返して良い。あなたはたくさんを抱えることができない。別の星では無数の腕があったが、それではなにが大切か分からないというので今の形になったのだ。ずっと前から人間であったようで、この先も人間であるように思っているだろう。空が昼と夜で切り替わるとき、まれに赤く輝く。そういうふうに、あなた気づくんだ。人間でないこともある、と。鍵のかかった窓辺に透明のグラスを置き、水を注ぐ。景色や通行人を歪めて笑った。歪んでなおあなたを惹きつけるものがあった。ぼくは宿っていたのだよ。色を変える樹々に、歩行者の影の中に、往来を眺めている、だけど決して出て行こうとしない、あなたの瞳にだって。伝わってこないものはなかった。証明のためぼくがあなたへそう告白しても、馬鹿なことをと、毎分毎秒生まれ変わっているあなたは言うかも知れない。なぜそんな眼差しを向けるのかと問われて、ぼくは答える。あなたが自分の儚さに気づかないからだ。車輪に轢かれそうになりながら道端に咲くちいさな花や、母親に抱えられて病院へ向かう子どもを見るときも同じ目をしている。同じなのだ。短いのだ。儚いのだ。聞いたあなたは腑に落ちたと言い、しばらく黙っている。どうしたの。儚いものたちにとって沈黙ほど贅沢なものはないので。ぼくはあなたのそういうところが好きなんだ。百年前にもこうやって、グラスの中から眺めていたよ。

4+

No.781

どうか腐らせないでください
誰の名前も呼べないで神様に祈った
これはぼくの大切なひと
神様どうか腐らせないで

祈りが通じたのかあなたは腐らない
雪の夜も花の朝も変わらず
眠っているかに見えた
ぼくは真実を忘れたがった

覚えておいで
覚えておいで
同情もまた加害であることを
手当という攻撃のあることを

ぼくはあなたを運び出すことにする
なかなか動かせなくて困っていると
あなたがこともなく起き上がり笑ったので
なんだ歩けるのかとぼくも笑った

青い鳥のうまれる島を歩いた
言葉を捨てて平和を取り戻した種族の村
隔離された部屋でつぶやく人
野菜と水だけで育った獣の国

どこへ行ってもいい
わたしたちどこへ行っても良いんだ
あなたは優しかった
まるでぼくを説得するように

心配しないで
心配しないで
あなたをちゃんと送り出すから
それからぼくも旅に出るよ

どこかで出会おうね(そうしよう)
あのひ出会ったように(なつかしいな)
どこかで話そうね(そうしよう)
離れていたあいだの出来事を(たくさん)

4+

No.780

置いてきたものがある
犬を飼っていると嘘をつき、盗んだチョコレートを頬張っていたトタン屋根の上に

置いてきたものがある
水たまりに泳ぐおたまじゃくしの、まだ生えそろわない足を見ていた頃に

置いてきたものがある
誰もいない礼拝堂で、ステンドグラスが落とす色彩の影の中で、優しい人は煙草を吸っていた

うまく泣けず煙を吐いていた

置いてきたものがある
置いてきたものがある
置いてきたものがある人ばかりが生きているから

ふと拾い上げたものが捨てられないで、ずっと前からそれだけを探していたような気持ちになるんだ。間違えてたったひとり半袖で登校したあの日、ぼくはひどく惨めだった。打ち明ける相手もなく石像のもとへ歩いて行って、落ちていた吸い殻をどこまでも細かく分解しようとした。置いてきたものを取り戻すことはもうできないと、だけどルールは足掻くことによって壊せるんだと、あなたに、知らせたかった。泣けたのに泣かなかった、あなたは弱い。もし強くありたければ神をもはばからず泣くとよかった。人以前のぼくが人になる口実になったのに。捨てられたものに哀愁を感じなかった。弱いあなたを好きだった。誰もあなたを見出さない世界で、ぼくだけが、本当に美しいものは矛盾に宿ると知っていた。あなたは今日こそ、空を仰ぐ。色彩の影を振り払って、聖域から一歩踏み出す、煙草の匂いはみじんもさせず、ぼくにきみの詩を朗読せよと言う。

4+

No.779

煙草の匂いが薄くなるのを待ち外に出る。あたりが明るくていま朝なのか夕なのかわからない。まっくらなら答えは一つなのに。(教えてくれないんだ)。海水がテトラポットを宥めている。伸ばした前髪が腫れた瞼を覆ってくれる。連絡先を消そうとして、そう、何度も消そうとして消せなかった。だけど消えるんだ。記憶から消さなくても、あなたきっと消えるんだ。一日のうちに何度も奇跡は起こるけど、矛盾がいくつも起こるんだ。それでもバランスは崩れず、朝が来て、夜が来て、人を疑い、疑うことに飽きてまた出会って、初めてのように恋に落ちるよ。消えゆく二人は最愛のように同じ夢を見るよ。どこにも溶け切らず、肌に宿った光の匂いと。果たされなかった祝福と。

5+

No.778

きみはきれいとあなたが言う。祈るように言い聞かせる。それを言われているのがぼくで、それを言っているのがあなただ。そんなことってあるだろうか?噴水の水は落ちたあとどこへ流れるの。鳥はなぜ飛ぶことをやめて車になんか轢かれたの。どんな絶滅が線路を輝かせて見せるの。何一つ分からないけれど、あなたが不憫ということはよく分かっている。あなたよりもだ、きっと。視野が狭く陶酔しやすく一途が取り柄のかわいいひと。新月で花束はつくれないから、正直になるというご褒美をあげる。目を閉じて開けたらたまに微笑むという夢をみせる。

5+

No.777

道の上に羽毛の塊が落ちている。かつて生き物だったもの。潰されもせず、食べられもせず。食滅連鎖の鎖から除外されて。赤い血が見えた気がする。臓器が足りないんだ。一番に大切なものが。耳元で鳩がささやいた。ぼくは歩みをゆるめてそれを目に焼き付けようとし、そうしようとした理由がわからなくなったためペースを戻す。人ではない。人ではないと言えるだろうか。見慣れた背景、いつもの朝。ミルクとバターが迎えてくれるだろう。ゆで卵の殻をむく鮮やかな手つきを見ながら、その手が額を撫でるためにこちらへ伸ばされるのを待っている。羽はアスファルトのささくれに引っかかり、往来が賑わえば亡骸はさらに得体の知れないものになるだろう。何ができるか、何もしない。何でもできるけど、たとえば鎖につなぎ直してあげることとか、でも何もしない。ぼくは前を向き、進みたい方向へ進んだ。家に帰ると住人は起き上がったばかりで、ぼくがいないことに気づいていなかったみたいだ。なんということか。朝の散歩かい?おかえりと全身が言っている。喉を鳴らして手の窪みに頬を擦り付ける。街は変わりなかったかい?ぼくは羽毛の生き物が死んでいたことを伝える。そうかい。あなたは寝ぼけたような目のままで頷いた。お前はそうならないからね。お前はそうならない。ぼくはべつにああなっても平気だと答える。めずらしいことではないよ、そんな目をしないで。あなたはキッチンに立ち水を張ったちいさな鍋に卵を二つ並べて火にかける。卵が二つ並べばいっぱいになってしまうちいささだ。あの子が好きだったんだよ。存在は知っている。姿を見たことはない。あなたはぼくの知らない話をする。それは今朝の羽毛のように空っぽになってしまったものかも知れない。何も無い、マクベス、自分には何も無いよ。あなたは呟く。コンロの火にくべてしまうように。安心安全装置があなたを守るから、ちょっと拗ねたくらいで大惨事は起こせない。ぼくは知っている。あなたの目の中にたくさんの悲しみや愛情が宿ることがあることを。何も無いどころではないことを。だけどぼくはそれを伝えられないので、出されたごはんをおいしく食べる。いつもと似ていて、いつもと違う、新しく始まった朝に。ひとりのあなたと。

4+