69個の詩を書いたようです。読んでくれてありがとう。良いお年を!
カテゴリー: 雑記
【雑記】どうでもいいや
冬の朝からハーゲンダッツもしくはサーティーワンを食べる生活を送っている私である。贅沢のレベルは人それぞれなので心からこれで良いと思っています。
当たり前なのに忘れがちなこととして「人っていつか死ぬなあ」と最近思う。自分も、自分の周りの人も、そのへんの見知らぬ人も、苦手な人も、善人も悪人も、みんな平等にいつか死ぬなー。と思って一日を始めるけどお昼くらいには普通に忘れてて眠気を感じたりするなど。
でも死んだことがなくてあまり想像つかないし、想像したって仕方のないことだから忘れるようになっている。仕方はないけど意味はあるかも知れない。「いつか死ぬなー」と心の片隅で思っておけば、この選択でいいのか?と考え直したり熟慮したりするきっかけになる。
しかし考える時間や深さが長いほど、深いほどいいのかって言うとそうでもなく、むしろ「よし!」で決めた方が後に幸福な選択になったりもする。
死ぬのは死ぬんだがそれを持ち出してあれこれ考えているほどに私は今ふつうに平和なんだろうなとポッピングシャワーを食べながら思った。食べてる時って結構ひまだな?食べる以外してないもんな。
食べてる時に成分表を見たりカロリー計算するのは愚者だわ。素直においしく食べよう。あした死ぬかも知れないので。死なずに生きたとしても好きなもの食べた方が良いって絶対。
ずーっと正当化しながら味わってる。
【雑記】白紙に映す
A4ノートを買ってきて日記をつけ始めた。誰にも見せない、自分だけが書きたいことを書く用に。思えば人は(もちろん自分も)人に読ませる文章ばかり書いているな。作文もSNSもブログも。文章が伝える手段だから当然だが、ここだってそう。自己満足で、自分の好きなように書いている風でありながら、まったくそんなことはないんだ。例外的にバイアスがかかっていないということはない。なのでノートを買ってきた。毎朝、思ったことだけを書く。支離滅裂でいいし最低の人間のままでいい。何の狙いも衒いも不要である。私が死んだら誰かには読まれるかもしれないがそういうのも気にすることはない。これを書いているうちは、私が生きている間は、これが私の支えになるだろう。大袈裟なのかな。小学生の頃ずっと日記帳を書いていた。宿題とかではなく自分で勝手に毎晩。それは今でも残っている。いつから書かなくなったかというとそれがインターネットを使い始めてからの時期に重なるように思う。たぶんそう。手書きがタイピングになり、他の人の発信が目に入るようになった。ちょっとは比較するようになった。こんなに素晴らしいツールがあると知る反面、内面は逆に窮屈になったようにも思う。いいだけインターネットの世話になっておいてなんだが、こういうことも日記を再開して気づいたことだ。無駄にセルフツッコミしなくてもいい、セルフツッコミもそもそも読者を意識した上でのツッコミである、言われそうなことや思われそうなことを先回りにして潰す意味がある。それで文章が面白くまとまることもあるがなんだが矯正具のようにも思えてやはり実際に窮屈である。私は日記帳を書いていたそのまま詩を書くようになった。なんか現実をそのまま書き取ることが面倒になったのかもしれない。違うんだものな。言葉にするとなんか違うなという感じが拭えないし、言葉になってる時点でそれはもう大丈夫である気もするから。詩なんかもろ言葉じゃんって感じもあるが(セルフツッコミきた)、なんだろうなまだホヤホヤなんだよ。生。ナマの感じがする。あるものないもの、そのギリギリの境目にあって、いやまだ確定じゃないんだよって感じがあって、このまま差し出そう。ふう。と言った感じに終われるのが良い。文章や言葉は人に伝える手段としてだけでなく、書いた本人が考えや思いを捨てたり拾ったりするためにも使われるし、その機会を増やすことは大切と思う。ここはここで書く。それはそれで大切である。
【写真】そらのせい
ベランダから見上げた空がこんななので空の詩ばかり3つほど書いた。
【雑記】やさしさと柔らかさ
人の変化に寛容では無いかも知れんと気づく。今かというタイミングで気づく。新しい一面を見せられると人によって裏切られたと感じるらしいな。それに近いのかも知れんが、分かったところでどうですかね(?)分かってるから分からないフリをしていたのもあるよ、だって自分は変えられないのだものな。開き直りと思うだろうしなんとか改造してやれ!という気にならんでもないがなるべく自分を改造することなく私は私のままで生きていきたいというかそういう崇高めいたことではなくて、だって無理でないか。変えるとか改造するとか生まれ変わるとか、怪しいし遠回りっぽいし無理だよ。少なくともそれを書きつけてる人間には無理だよつまり私には無理ということで寛容になれない、自分だけが守られたいこの不健全な精神を抱えながら何食わぬ顔をして生きていくのだろうか?みんな上手いよ、よくできてるよ、心配要らない。優しい人が豹変して見えても、あなたも私もそうかも知れず、どうせいなくなるのだ、死ぬより遠いところへ行くんだ。そう思うと夏がさーっと過ぎ去ってもう秋の気がする。気がするじゃなくて秋なんだろうな。風が違うし虫が鳴いてるし外へ出かけようと思う。規則正しい食事を時に崩して毒を仕入れに行く、浄化のために。浄化されない自分を思い知って本当に好きなものへ戻るために。だってそうだろう。
というようなとりとめもない思考を数分の間にずっと巡らせてるからもはや好きなんだろうな好きでやってんだろうな。いや違う嫌いだという声を聞きたいだけだろうな。何も異常ではないや。
【雑記】そう言って私は
はあ〜?これいつ書いたものですか。良い詩ではないか。しめつけられる。めちゃすこ。
っていうかけがえのない自己満が無ければ個人ブログなど続かないのである。自己満様々・万々歳である。
予約投稿してるので、数日とか数週間前のが目に触れて、もう、まったく別物なのである。書いた時は書き手で、読む時は読み手で、両者の間に隔たりがあるのでそれはまるで別人の書き物なのだ。
そう思うと、これまでいったいいくつの別人を失ってるのだろうかと思うね。
頭の中に浮かんだこと、心の中に浮かんだこと、いちいち気にしてたら生きていけない発狂する。たまに気が向いたら拾って磨いて棚に飾ったりまた磨いたり叩き割ってさらに中から小さな宝石を取り出して「ほらね」と笑う。
そういうことを人は繰り返す。
でも、そういうことせずとも生きていけるからしないこともある。
残さなかったものや残せなかったものはどこに消えるんだろう。誰の目に触れなくても落ちた雨粒が巡り巡って花を咲かせるみたいに、海に流れ着いてビーチパラソルが集まるように、そういうことなのかなって思う。
どんな日常や幸せも、死骸の上に成り立ってるのかな、って。ダークな意味ではなくて、足元の砂とか埃とか、そういう小さいものをさ、どうでもいい、という時、それを聞いてる何かがあるような気もしてる。
ということも書かなければ残らなかったし伝わらなかった。
一瞬一瞬の出来事なんだ、ほんとうに。
そう言ってなつさんは窓に養生テープを貼り始めた。
【雑記】真夜中にかかる虹のように
ひさびさに人間(店員)と話すと「サン…ウさん…」の時のウジンくらい挙動不審になるのやめたい。けど大人だからたぶんもう変わらない。死ななければたぶん大丈夫。
高低差な。ふあ…世界うつくし…すべてに感謝…といったふうに気持ちが穏やかにまるく凪いでる時と、あーもーすべてがギザギザだよもー多角形すぎー生きるの無理だしもう死にカタログ…みたいな時の交差点つらいな。
無心で仏教動画見てるのもなんか違う感はんぱないし、なんか違うって思いながら他によりどころのない自分を受け止めざるを得ない。
みんないつ大人になるんだ?
大人だなって思わせるのやめてほしい。
ただどっちの時でも詩は出てくるの偽りない感じがして救いである。どっちかの時にしか出てこなかったら「おまえーこないだいなかっただろーどこいってたんだよーばかー」って思うけど、どっちでも出てくるのは優しいよ。
おまえには所詮同じ一個人にうつってるんだろうね。誰だってそうだね。
冒頭のウジンって「キリング・ストーキング」というBL漫画のキャラなんですが、これほど読む前と読み始めてからの印象違う漫画そうそう無いんだが…。
普通に?内向的な青年が陽キャにどハマりして紆余曲折ありながらもちょっとサイコ描写はさんでめでたしめでたしーいちゃいちゃ!みたいなの勝手に想像してたらブルブル震える。夜中に大島てるで検索してるのよりはるかにガクガクしてる。
もうBL要素忘れてるというかもはや期待してない。ただただ「えっ」「こわっ」「どうなる!?」ってなってる、そんな自分が新鮮ではある。
レジンコミックスきになるのありすぎて夏が終わる。秋か。
【雑記】骨の白さは見てないけれど
先日、田舎の河原で転倒した。
ごつごつした場所だったのでなんかこう、自分でびっくりするくらい色んな箇所をぶつけ、特に右手の指3本やっちまったかな…と思った。
毒に犯される善逸の体くらい紫色に変色し、ていうか絶対ありえないほうへ一瞬逸れた…と思った。幸いなことにこれまで骨折を経験したことのない私は「だが、こんなものではないはずだ…精神を鍛え抜いたアスリート達でさえのたうち回るではないか…もし本当の骨折なら私などひとたまりもないはずだ…つまり折れてない」だの「いやいや待てよとりわけ私が痛みに鈍感なだけで実際には折れてるのでは…」だのハラハラしくしくしていたが、結論、骨に全く異常は無かった。
翌日、整骨院の先生とまったくもって綺麗に健康な骨のレントゲン写真を眺めたのである。
「骨は大丈夫です」
「よかったです」
笑顔。
しかし紫色の腫れ上がりっぷりがあたかも骨折したかのような有様で、ではむしろすごいこけ方をしたんですねという話になり、えへ…はあ、まあ…みたいな本当にひさびさに人と話すような気持ちで会計を済ませたらペイペイ!!!!!が予想以上に待合室に大きく響き本当に外へ出るのは嫌だと思った。だが医療従事者の方は優しいので好きだ(仕事)。
病院の、全体に対するいたわるような雰囲気が満ちている場所は優しいと思う。だが病院によっては受付のレディがいけすかないので「誰も好んでおまえに会いに来てるわけではない。ひとえに医師の診察を所望してるだけだ。おまえはおまえの役目を果たせ。それには愛想の良さも含まれるんだぞ」と腹の中で思う。
いや、まあ、いろんな方が来られるんだろうけどさ。
話を戻そう。
たとえば今回のような不慮の怪我や病を患ったような時、ふっと頭に浮かぶことが本当にしたいことや続けたいことなのだとしたら今回の指反り事故においては「あー、これでパソコン打てなくなるな…」だったのである。仕事も趣味もすべてパソコンありきなので、私はキーボードが打てなくなったら私を少し失うかも知れない。まじでどうなるのか。手と目は大事だ。お金は惜しんでいない。
他にも数年前、倒れた本棚が後頭部に激突した時も脳裏をよぎったのは「あ、これで持病なおったかな…」というものだった。(当時ちょっと病があった)。
そういう一瞬によぎる物事が本当にその人が叶えたかったり大事にしたりしていることなんだ。そうでもないと認識できてなかったりするのでたまには必要なんじゃないか?と思うが痛いのも命を危険にさらすのも御免だ。ほどほど平和に痛くない暮らしをしたい。
人がよく死ぬ。事故物件サイトを見ていたら隣のアパートでも数年前に自死がある。心霊的な意味でぶるっとしたが、よく考えればこんだけ人間が存在してこんだけ歴史があるんだからどこもかしこも事故現場だよと思う。逆に事故現場じゃない場所を探すほうが困難なのではないか。新聞のおくやみ欄、わたしは赤ちゃんのコーナー、メメントモリ、ハッピーバースデー。祝辞と弔辞。ハレとケ。特別なことではない。
だが「特別なことではない」と言い聞かせる自分にまた動揺するのである。怖いんだぜ、こいつ怖いんだぜ幽霊が!だが冷静になれば私に霊感といったものは微塵も無かった。それより虫が怖い。嫌い。あんなの無理である。だが見様によっては人間も随分と無理な感じだ。二足で立ち、体の脇に腕をぶらぶらさせ、ある者は着飾り、ある者はよたよた歩く。よく喋りよく考えよく罵り笑い怒り絶望し立ち上がり歌い道具を使い乗り物を運転し酒を飲み静かに考え事をしていると思いきや突如スマホに向かって決めポーズする。怖い。
怖い、と言ったが正確ではないぞ。本当は分解できるのだがもうめんどいのである。「怖い」で結ぶとわりかし便利なのである。意味が広いし使い慣れているので、意味を言葉に委ねるのだ。はい適当に解釈しちゃってくれと委ねるのだ。そしてこれは委ねなかった場合と正確性であまり大差はないと思っている。人と人との間のあまりある「伝わらなさ」は、表現を放棄した場合も、表現に真摯に向き合った場合も、たいして変わらない。のであればどんなに気楽に放棄できるだろう。
おいしいものを食べたいと思う。だがべつに空腹でないことがある。おいしいものを食べたいんじゃなくて幸せになりたいんだ。そういう錯覚は少なくないと思っている。そういう錯覚になら共感できると思う。というのも幻想なんだろう。
【雑記】寝落ち数分前(推定)
人と接する機会が減って思うのは(てかもともとそんな接する暮らしはしていないのだが…)、1日に会う人間の数が減ってくると、1人あたりの印象が強く残るというか、今まで以上に過敏になる。感覚が研ぎ澄まされ?とも違うか、うん、1人あたりの印象がとても強くなる。そうすると「あ、このひと今の職場合ってるわ」とか「このひとはほんとに接客向きだ…」などと感動する。大半の人からは(めんどくさいなー)(はやく帰ってゲームとかしたいなー)(転職してー)(次の休みいつだっけー?)みたいなオーラが多少なりとも出ていたりするがそれをまったく感じさせない、ああおめでとうあなた天性の接客員だよ…またここ来る…みたいなほっこりを味わうのである。実際その人が内心どう思ってるかは知らんが少なくとも私にそれを感じさせない、擬態だとしても見事な擬態である!店のレベルを上げるとみんないい接客だよ?知ってる。そうじゃないからほっこりするのである。お金ではないんだ…しかし私はお金に対してそこまで悪のイメージを抱いてもいないのである。
何が言いたいのか?べつに何も言いたくない。世の中の文章すべてに結びがあると考えるのは思考停止である。私はべつに何も言いたくない。つまり、ようは、ちゃんと人に親切にできてえらいなと思った…すごいなと…たとえそれがお金のためであったとしても…いっときの擬態だとしても…よく行くコンビニのおばちゃんに幸あれだ!ばか!(???)
私はこの文章をフローリングに寝転がってスマホに打ち込んでいる。クーラーと扇風機だ。すごい贅沢だ。クーラーと!扇風機!ふたつ!ふたつも!すごい!
眠い…
【雑記】レターセットの思い出
手紙を書くのが好きだった。文房具屋さんでレターセットを買ってきて、伝えたいことをそのまま書くのだ。お元気ですか?私は元気です。それから先の順序は適当。思いついたままを連ねていく。手紙を書いているとき、相手の顔を思い浮かべることもあったかも知れないけど、けっきょく自分を見つめていた。内側のことばを「これだ」と取り出して外に出してまた眺めた。そうだよね、こういう形だよね、と。そして私は一瞬だけ満足(おそらく)したものの、また次の言葉探しを始めた。取り出して形にして、うん、そうだよね。また取り出してまた形にして、うん、こうだよね。どこまでも書き手は私で、読み手は私だった。手紙というのはけっきょく半分創作の、自己満足だ。宛先の人には、付き合わせているようなものだ。レターセットというものは、便箋を二つに折るときれいに封筒に収まるものだ。それが気持ちいい。封をするためのシールがいくつかついていて、好きなものを使う。レターセットというのは大抵使い切ることがない。また別のものが欲しくなるからだ。だからなるべくいちばん良いシールから使う。最後のほうは使われない可能性があるから。赤いポストにコトリと手紙が落ちる音を聞き、手放した気持ちと言葉の分だけ私は少し軽くなる。思いが溜まってきたら、また手紙を書くだろう。こんなにも相手のことを考えないものなんだろうか。誰かへ手紙を書くときは、こんなにも自分の内面とだけ向き合うものなんだろうか。液晶画面に向かって詩を打ち込むことと何が違うんだろう。宛先を書いて届けてもらって。数日、数週間経って返事が届く。私がもう何を書いたかさえ忘れた内容への反応だったり、近況だったりする。送り主は書き手の私のように自分と向き合っただけかも知れない。(そうでないかも知れない)。何も私だけが、と引目や罪悪感を感じることもなく。たしかなことはそれを書いている間、あなたの時間は少しだけ私のために削れていたということだ。私も同じだ。何年もレターセットを買ってない。手紙を送っていない。郵便ポストを開けると、カラフルな、シンプルな、一通の重みを迎えることはそうそうない。手紙を書かなくなったから、切手は種類が出たね。使う人がいなくなってから、それはどんどん魅力的になる。振り向いて欲しいから。また使って欲しいから。なので私もつい釣られて、使う予定のない切手を買ってしまったりする。使いたくて官製葉書を買うこともある。文通していたあの子はもう、私の出した手紙を持っていないだろうか。懐かしく眺めることがあるだろうか。どっちだとしても、ときどき幸せでときどき悲しい日々を過ごしている気がする。どんなふうに思い出されるだろう。あの頃とは切手一枚の値段もなにもかも変わったね。もし出会ったとしても思い出せる話題は少ない。同年代の初対面のように、頭の片隅で別のことを考えながら、当たり障りのないよう曖昧にはにかむだろう。