【雑記】よんだりみたりきいたり

文学YouTuberベルさんの動画を見るようになり本屋へ行くようになる。

また紙の本を買うようになる。いろいろ買う。やはり国内小説が好きである。綿矢りさ『意識のリボン』を読む。綿矢りさは綿矢りさだ、いいな…。と思う。伊坂幸太郎を読む。シーンが切り替わって「ん?ん?」ってわからなくなる。伊坂幸太郎わりとわからなくなる…。でも評判なるので読む。わかるようになりたい。相沢沙呼『medium』を読む。これはね…!さんざん絶賛されてるし「すべてが、伏線」って挑発してくるので、ふーん、へーえ、ほーらやっぱりそうだ。って思ったらオッフ!ってなった。油断してましたね。装画キレイですね。遠田志帆さんですね。calamaioのDiteさんと活動されるなどしていた…。書店だと「はっ!このイラストはあのサイトの絵師さん…!」って出会いがありますね。あたかも絵師の親族のように本の傾きを直したり整えるなどする。アマプラで『祈りの幕が下りる時』を観る。守りたい人のために嘘を吐く系は刺さる…。『ハドソン川の奇跡』を観る。42年間のキャリアが最後の208秒で裁かれるの恐ろしすぎる。これはハッピーエンドだったけど(実話だから厳密にはエンドじゃなく人生は続いてるんだろうけど)、でもこれこんなにシミュレーションとかしてまで精査されるのつらい…。こっちだって人間なんだいちいち重箱の隅つついてくるような真似すんなようわあああ!って発狂もしくはいろんなものを衝動的に破壊しそうだが、そうならないからパイロットとかなれるんだろうな…。空の上という密室空間で多数の人命を預かる立場だもんな…。映画の最後にあったけど、その人命の後ろには彼らの家族とか友人とかそういうぶわーっと大樹のように人間関係など拡がってて、想像するだけで恐ろしくてパイロットはすごい…。

いま窓の外で蝉がみんみんじゃわじゃわ鳴いて、黒い犬がわんわん吠えている。

4+

【雑記】いつかこぼれおちるものの話

アカウントを作っちゃ消し作っちゃ消しで続いているのはここくらいなもので、むしろここがあるから消すのかな?と思います。

そしてふとある日つまりさっき、作ったことを忘れていたブログを見つける。

んー?
あー。
あー……。

となって、好きな気持ちは出し惜しみしていてはいけないんだと本当に思う。

ずっと好きだと思うじゃん。

ちがうんだな。

本当に変わるんだよ。

ずっとあると思うんじゃん。

ちがうんだな。ちがうんだ。ちがうんだなー。

そりゃたしかにずっとあるものもあるけど、全部がずっとあるわけじゃないし、むしろずっとあるものって珍しいよな。

なのでずっとあるものはずっと大切にしないといけないし、一瞬でも好きかもと思ったものは明日にはもう忘れているという可能性を感じつつ、でもここへ降りてきてくれてありがとうという気持ちで慈しまないといけない。

それを好きな人にはかなわないので、好きなものができたら「いまの私にかなう人はいない」というつよつよな気持ちで愛するとよい。

3+

【雑記】エンジンかけるためのエンジン作文

「虫だって生きてるのに殺すなんてかわいそう」

これには強く反対である。まったく相入れない。その思考の方向性まじ無理である。

生きてたら人の家に土足で入ってきて賃借人の心の臓を止めるくらい驚かせても良いとでもいうのか?違うだろう?じゃあなんだ、貴様の部屋にさ、見知らぬ、そして言葉の通じない見た目ギトギトのおじさん(なぜかおじさん設定)が部屋にいたらどうするか?

即殺害以外に道は無いだろう。

話し合う。共存する。逃がす。

ちっ、ばかが!どいつもこいつも生温い理想論ばかり言いやがって種単体で見たらこっちが圧倒的に弱いのだから本気でレジスタンスしろよ生きてるからかわいそうじゃなくて生きてるから怖いんだろうがクソが。

などと何に対しての台詞が分からない言葉をぼやきつつチキンを極めた私はお掃除に余念が無い。キュッキュッ。

今年は素晴らしいことにまだ1匹も出ていないのだ。笑顔である。喜ばしいことであるが当然である。知識と行動で圧倒してるからな。笑顔である!

だが、一抹の不安もある。それは「ここまでやってそれでももし出くわしたとしたらそいつは新種のハイブリッドタイプかも知れず我は恐怖で卒倒するかもしれぬ」というものである。

「ここまで」!「したのに」!「それでも」!

三重苦。

無念。自責。そして恐怖。

あまりの恐怖に怯えた私はついに彼らの情報を調べ始めた。なんでも祖先は3億年以上前から存在したらしく、しかもほとんど今の形と変わらないそうだつまり!ほぼ完成形として誕生したということだ無理、こいつかてない!

勝てないほど強い相手に「かわいそう」は無いから、強い相手には全力で立ち向かえそれしか生きる道はない。しかしこの感覚ではあまりにも無力あまりにも非力。慣れねばなるまい。なるほどそうとも言え、私は彼らの画像を目にすることで適応を試み…おえっ…ものの数秒で断念した。

なんせ私は幼少期から液晶画面ばかりと交流していた割に視力がいい!眼科医が「ほぅ」となる系!どゆこと!ただ無力!見えるだけ・気づくだけ!それなのに戦闘能力は極めて低いというあれ!

…はっ、そうだ。擬人化してBLものにしたら克服とまではいかないにしても、えー、なんだ、メンタル的にラクになれるのでは?はは、まさかそんなもの存在するわけが…したのである。

そしてこの流れ数年前にもやったんだなーというのを、見覚えのある表紙への既視感から感じ取る。

わたしはずっと同じ人間であるのだ。

んー、んー?かわいいかなー…?

かわいいはず…

いけるか…?

いや、無理である。

擬人化によっても拭いされない。

つまり人類には身の回りを清潔に保ち、万一のための手榴弾を握りながら生活する以外に打つ手がないということである。

そして悲しいお知らせがあり、ここまで意識してしまった以上、実物を見たときにわたしの驚嘆と恐怖は最高潮に達することが予見される。

デッドオアライブ…人事を尽くして天命を待つ。なすすべはないのでコーヒーを飲み仕事するとする。

4+

【雑記】ざっきにっき

吃音症の男の子がラップを披露する動画をYouTubeで見た。おれをコンビニで笑った奴より幸せになってやる、みたいなの。とても良くて誰かに伝えたいかもしれないと思った。でも「とてもいい」と思った自分は何様だよと思うと、それを無邪気に「いいね!」していいものかどうかも分からなくなった。十代から変わってないのである、なんにも。「いいね」を言ってる自分、いいね!みたいな傲慢(自意識過剰)が耐えられなくなり、もしそれを「いいよ」と伝えた相手にも悟られたらどうしようと思う。しかし実質誰かが傷つくものでも無くそもそもすべて思い過ごし、おめでとう。一人でうろうろしているだけなんだ。いいと思ったらいいと言えばいいんだろう?知ってるそれくらい本に書いてあるからさ!でも立ち止まってしまうんだ私はそういうところがずっとあって、めんどくさいと思うこともあるがこれがない自分もあまりイメージできなくて、そもそもなぜ関連動画にラップが?ヒプマイはいいね。少し目を離したすきに増えてた。私はいつも何かを好きで、好きなものが無くならないよう繋いで生きていないとフッと「あれ、もういっか」みたいに!なりそう。「もういっか」は強い。とても強いワードである。何を言われても何を感じても「もういっか」は打ち消してしまう。私はふと恐ろしくなり5,000円分の本を買った。紀伊国屋書店で。そしたらビニール袋が有料になったもので「紙袋にお入れしましょうか?」ときた。本を、取手のない紙袋に入れる。これはなにげに人生初である。取手、持ち手というのか?持ち手のある紙袋ならあるけども!カサカサする紙袋をレジ前でバックに詰めながら、客と店員との対面時間、全国的に長くなっただろうなと思う。サッカー台がもとからあるようなスーパーならいいよ?でもそうじゃない店って少なくないだろう?袋いりますか?いりません。で、会計が終わった後のレジ前つめつめタイムな。あれは!あせあせ(ここでつめつめしてすいません)みたいな微妙な空気!これはキャッシュレス決済時代に抵抗する対面時間の創出か?神の?と思うなど。知らん。しかしなぜあの店員氏は紙袋を申し出たのか?それは「少しでもお客さんのためになりたい」という思いからである。「ビニール袋、有料になったんで。ちーっす」では素っ気なさすぎる。素っ気なさからは何も生まれない。だが彼は「紙袋なら…紙袋で良ければ、まだ…あなたのお役に立てます!」と伝えたかったのだろうか?いやたぶん何も考えてない。もしくは店長の差し金。いかん、騙されるところであった。そして私の買った4冊の本のテーマが、生物・お金・お金・伊坂幸太郎というもので、なんなんだよと。それから美味しいパンを買って帰った。めでたしめでたし。

3+

【雑記】うまいものをよこせ。

欲しい欲しいと思って手に入らなかったものはいくつになっても尊く見える。自分にとってそれはキラキラした輝くおもちゃや文具であったりした。いいな、あれいいな、と思いながら「手に入れる」「親に欲しいとねだってみる」という発想が無かった。「欲しい」という気持ちがあまり無かったように思う。いいな、あれいいな、ずっと眺めていたいな、触っていたいな。そういう感触欲?みたいなのは強かった気がする。なんで「欲しい」に至らなかったか少し謎であると書きながら自分のことなので分かる気もする。

特にいいなと思っていたのが折り紙や包装紙、シールなどである。キラキラした素材の、角度を変えると色が変わって見えるものや小さな絵がたくさん、敷き詰めるように書いてあるもの。ひとつひとつに見入って、角度を変えて光を反射させる。とてもよい。これがいつも手元にあったらどんなに心置きなく眺めて触るだろう。そう思っていたが「欲しい」「買って」には至らなかった。手に入るとつまらなくなるかも知れないみたいな気持ちがあったかも知れないがそれはもう分からない。

DAISOやseriaなど百均に行くとそれは目に入る。折り紙も多種多様になった。ラッピングコーナーに行くとそれはとても種類が豊富である。私はそれを見て「いいな。いいな」と思う。いまだに思うし立ち止まる。百円なら買いたまえよという声があるかも知れないが、買うとは何か違う。所有したいわけではない気がする、何かもっとこう、ただ、いいなと思っている。手に入れたら使い道のないことも知っている。

つまり「いいなと思うものがどこかにある」という感覚だけ楽しみだったんじゃなかろうか。「どこか」というのが大切でそれは「ここ」であってはいけなかった。遠すぎず近すぎない場所に好きなものがある予感が続いて欲しかったのかも知れない。ちょっとよくわからないな。

「いいな」と思うものを手に入れずに存在させておくこと、存在してくれるだろうと期待すること、望むこと、望み続けることを望むこと。いつまでも私はキラキラしたものの前で足を止めるしそれは高価なものには感じられない、安っぽい、幼稚な、生きる理由かも知れない。

しかし、だ。

大人になってお金を稼ぐようになってもお金をかけないものがある一方、これにはお金をかけてOKだと制限を解除したものがある。ひとつは、自分が心地よく過ごすためのお金。逃亡費や引きこもり費も含まれるし、もっと前向きな、暮らしをよくするものも含まれる。もうひとつは、食べ物である。私は美味しいものを食べることがとても好きである。美味しいものを美味しそうに食べると言われるが内心「いま美味しいものを食べているのだから話しかけるな」とも感じている。最低である。

逆にお腹が空くと、もう、だめである。あきらかに口数が減り表情が失せる。はやく美味しいものを食わせてくれと思っているしそのためになら相手の自分に対する心証が多少悪化しようとも構わないとさえ思っている。私はそのことで何度か険悪な雰囲気に持ち込んでしまったことがある。最低である。なので私は私なりに対策を打った。それは常に小腹を満たすものを持ち歩くというものである。まあ、そうであろう?他に何があろうか。しかしここでもまた軋轢が生まれることがあるのである。「おなかすいた」と思ったら立ち止まってその場で食べ始めることがあるのでそれを不快に思われることがあるということだ。もちろんそんな丼みたいにガッツのあるものをガシャガシャ食べ始めるわけではなく、パンをかじる、バーをかじるなど慎ましい間食である。意味不明に口数が減るより相手への負担も減らせるだろうとの考慮である。にもかかわらず険悪になるのはそもそも良くないのだ。いろんなことがさいしょから。私は私が食べたいときに食べたいそしていつお腹が減るかはわからんのである!(開き直り)ということで私はこれからもお腹が空いたらもう食べる。どのお店に行くかとか美味しいところがいいとか二の次である。こいつとはもう出かけないと思った。

どこからどう空腹時に自分が最低の人間に成り下がる話に移り変わったか定かではないが雨の日にはいろんな思い出があるのだ。

4+

【雑記】雑記過ぎる雑記

わからないことが多い。わからないと思いたいことが多い。わからないと思いたいことが多いと書きたい日が多い。つまり書きたい自分が多いということだ。とてもうまく見える。みんなとてもちゃんと生きて見える。だから迷っているひとは魅力的に見える。とても強く見える。かと言って強ければいいというのでもなさそうだ。8月10日に投稿される詩を投稿する。誰かの誕生日だった気がするけど思い過ごしであった。しかしその日に生まれた人はたくさんいる。生まれてくるひとも。朝は新しい。古いものも新しい。繰り返されても新しい。集団で幻想を見ている。しかし青を好きなひとがいい人だとは限らない。

4+

【雑記】いいわけを読まされます

うまくいけば何事もそれが一番だ、失敗は成功の母なのかもしれないが失敗しないならそれに越したことはないので、格言とか名言とかぜんぶ言い訳だと思っている。それを最初に発した人は言い訳と思ってないかもしれないが後続はみな乗っかる時点で半分くらい言い訳である。たくさん考えて考えて考えまくった結果スタンプいっこ送ったら適当と言われる。いや逆に何周もしてるから逆に。それゆえ逆にスタンプだから。などと思うが言い訳するのも面倒だしかえって胡散臭くなりそうなので無理やり消化して黙る。見据えたつもりの行い全て、裏目に出るとまではいかなくても軽い誤解を積み重ねて、とりあえずなんか適当な人みたいな認識になるだろうことをB型は止められないんだ。そう汎用して締め括りたい。こういうと「いや血液型で人間わけられないっしょ。ざっくりすぎるでしょ」とかいう意見も出てくるかと思うが誰が本気で区分けしてると思うんだお前は本当にめんどくさいな!と思うがその発言もまた優しさからくる、こちらを気づかったがうえのフリだと考える(たぶん違う)とそのフリに乗っかれずますます申し訳ないことも思い、つくづく自分は融通の効かない野郎だと思い、自分以外がすべて素晴らしく世界が輝いて見えるのであって場違い感からどこへも出かけたくなく何もしたくなくなるという言い訳。人は優しく世界は美しいと感じることと自己卑下がイコールになるのは随分とよろしくない。

3+

【雑記】だから好きだと言ってくれ

すごいものやすごく好きなものにでくわすと、言葉を尽くすことを放棄してしまいたくなること、たまにある。「えもいわれぬ」「筆舌に尽くしたがたい」「言葉にできない」などなど。だけどなるべくは、言葉にするようしてきた。言葉にできない(したくない)ものをするところに言葉は集まると思うし、ああでもないこうでもないとかき集めては捨てた跡は人に伝わるし、そうやって言葉に残しておけば自分の気持ちや感受性を大切にできるから。私はそう思うから。好きなものは好きでいい。好きと言っていい。言ったほうがいい。まったく意図しないところで誰かを救ったり動かしたりするので。その「誰か」は自分をも含むので。好きだと言ってくれ。

6+

2020年4月6日

望んでいたはずのものが手に入った。でもこれってなんか違うな、と眺めている。これって望んでいたものだっけ?望んでいた自分が過去の自分ならもう、それは必要なものでも欲しいものでもないんじゃないだろうか。望んだ時と手に入る時、どうしたってタイムラグがあるから一生追いつけないし満たされないのでは。みんなどうやってるんだろう。とか疑問を抱いても、聞いたってちゃんと参考にできないでしょう。望むものを望んでいた時が1番心地いいかも知れない。だから努力とか手を伸ばすことをやめて、はやく終わらないかなって思ってる。読みたくもない本から顔を上げたら満開の桜が風に花びらを飛ばしていて、なんでいつまでも枯れ木にならないんだろう、こんなに花びら取れてるんですけどって思いながら髪にそれを付けている。心から笑える。そんな自信、ずっとないや。

4+