欲しい欲しいと思って手に入らなかったものはいくつになっても尊く見える。自分にとってそれはキラキラした輝くおもちゃや文具であったりした。いいな、あれいいな、と思いながら「手に入れる」「親に欲しいとねだってみる」という発想が無かった。「欲しい」という気持ちがあまり無かったように思う。いいな、あれいいな、ずっと眺めていたいな、触っていたいな。そういう感触欲?みたいなのは強かった気がする。なんで「欲しい」に至らなかったか少し謎であると書きながら自分のことなので分かる気もする。
特にいいなと思っていたのが折り紙や包装紙、シールなどである。キラキラした素材の、角度を変えると色が変わって見えるものや小さな絵がたくさん、敷き詰めるように書いてあるもの。ひとつひとつに見入って、角度を変えて光を反射させる。とてもよい。これがいつも手元にあったらどんなに心置きなく眺めて触るだろう。そう思っていたが「欲しい」「買って」には至らなかった。手に入るとつまらなくなるかも知れないみたいな気持ちがあったかも知れないがそれはもう分からない。
DAISOやseriaなど百均に行くとそれは目に入る。折り紙も多種多様になった。ラッピングコーナーに行くとそれはとても種類が豊富である。私はそれを見て「いいな。いいな」と思う。いまだに思うし立ち止まる。百円なら買いたまえよという声があるかも知れないが、買うとは何か違う。所有したいわけではない気がする、何かもっとこう、ただ、いいなと思っている。手に入れたら使い道のないことも知っている。
つまり「いいなと思うものがどこかにある」という感覚だけ楽しみだったんじゃなかろうか。「どこか」というのが大切でそれは「ここ」であってはいけなかった。遠すぎず近すぎない場所に好きなものがある予感が続いて欲しかったのかも知れない。ちょっとよくわからないな。
「いいな」と思うものを手に入れずに存在させておくこと、存在してくれるだろうと期待すること、望むこと、望み続けることを望むこと。いつまでも私はキラキラしたものの前で足を止めるしそれは高価なものには感じられない、安っぽい、幼稚な、生きる理由かも知れない。
しかし、だ。
大人になってお金を稼ぐようになってもお金をかけないものがある一方、これにはお金をかけてOKだと制限を解除したものがある。ひとつは、自分が心地よく過ごすためのお金。逃亡費や引きこもり費も含まれるし、もっと前向きな、暮らしをよくするものも含まれる。もうひとつは、食べ物である。私は美味しいものを食べることがとても好きである。美味しいものを美味しそうに食べると言われるが内心「いま美味しいものを食べているのだから話しかけるな」とも感じている。最低である。
逆にお腹が空くと、もう、だめである。あきらかに口数が減り表情が失せる。はやく美味しいものを食わせてくれと思っているしそのためになら相手の自分に対する心証が多少悪化しようとも構わないとさえ思っている。私はそのことで何度か険悪な雰囲気に持ち込んでしまったことがある。最低である。なので私は私なりに対策を打った。それは常に小腹を満たすものを持ち歩くというものである。まあ、そうであろう?他に何があろうか。しかしここでもまた軋轢が生まれることがあるのである。「おなかすいた」と思ったら立ち止まってその場で食べ始めることがあるのでそれを不快に思われることがあるということだ。もちろんそんな丼みたいにガッツのあるものをガシャガシャ食べ始めるわけではなく、パンをかじる、バーをかじるなど慎ましい間食である。意味不明に口数が減るより相手への負担も減らせるだろうとの考慮である。にもかかわらず険悪になるのはそもそも良くないのだ。いろんなことがさいしょから。私は私が食べたいときに食べたいそしていつお腹が減るかはわからんのである!(開き直り)ということで私はこれからもお腹が空いたらもう食べる。どのお店に行くかとか美味しいところがいいとか二の次である。こいつとはもう出かけないと思った。
どこからどう空腹時に自分が最低の人間に成り下がる話に移り変わったか定かではないが雨の日にはいろんな思い出があるのだ。