【雑記】白紙に映す

A4ノートを買ってきて日記をつけ始めた。誰にも見せない、自分だけが書きたいことを書く用に。思えば人は(もちろん自分も)人に読ませる文章ばかり書いているな。作文もSNSもブログも。文章が伝える手段だから当然だが、ここだってそう。自己満足で、自分の好きなように書いている風でありながら、まったくそんなことはないんだ。例外的にバイアスがかかっていないということはない。なのでノートを買ってきた。毎朝、思ったことだけを書く。支離滅裂でいいし最低の人間のままでいい。何の狙いも衒いも不要である。私が死んだら誰かには読まれるかもしれないがそういうのも気にすることはない。これを書いているうちは、私が生きている間は、これが私の支えになるだろう。大袈裟なのかな。小学生の頃ずっと日記帳を書いていた。宿題とかではなく自分で勝手に毎晩。それは今でも残っている。いつから書かなくなったかというとそれがインターネットを使い始めてからの時期に重なるように思う。たぶんそう。手書きがタイピングになり、他の人の発信が目に入るようになった。ちょっとは比較するようになった。こんなに素晴らしいツールがあると知る反面、内面は逆に窮屈になったようにも思う。いいだけインターネットの世話になっておいてなんだが、こういうことも日記を再開して気づいたことだ。無駄にセルフツッコミしなくてもいい、セルフツッコミもそもそも読者を意識した上でのツッコミである、言われそうなことや思われそうなことを先回りにして潰す意味がある。それで文章が面白くまとまることもあるがなんだが矯正具のようにも思えてやはり実際に窮屈である。私は日記帳を書いていたそのまま詩を書くようになった。なんか現実をそのまま書き取ることが面倒になったのかもしれない。違うんだものな。言葉にするとなんか違うなという感じが拭えないし、言葉になってる時点でそれはもう大丈夫である気もするから。詩なんかもろ言葉じゃんって感じもあるが(セルフツッコミきた)、なんだろうなまだホヤホヤなんだよ。生。ナマの感じがする。あるものないもの、そのギリギリの境目にあって、いやまだ確定じゃないんだよって感じがあって、このまま差し出そう。ふう。と言った感じに終われるのが良い。文章や言葉は人に伝える手段としてだけでなく、書いた本人が考えや思いを捨てたり拾ったりするためにも使われるし、その機会を増やすことは大切と思う。ここはここで書く。それはそれで大切である。