【雑記】骨の白さは見てないけれど

先日、田舎の河原で転倒した。

ごつごつした場所だったのでなんかこう、自分でびっくりするくらい色んな箇所をぶつけ、特に右手の指3本やっちまったかな…と思った。

毒に犯される善逸の体くらい紫色に変色し、ていうか絶対ありえないほうへ一瞬逸れた…と思った。幸いなことにこれまで骨折を経験したことのない私は「だが、こんなものではないはずだ…精神を鍛え抜いたアスリート達でさえのたうち回るではないか…もし本当の骨折なら私などひとたまりもないはずだ…つまり折れてない」だの「いやいや待てよとりわけ私が痛みに鈍感なだけで実際には折れてるのでは…」だのハラハラしくしくしていたが、結論、骨に全く異常は無かった。

翌日、整骨院の先生とまったくもって綺麗に健康な骨のレントゲン写真を眺めたのである。

「骨は大丈夫です」
「よかったです」

笑顔。

しかし紫色の腫れ上がりっぷりがあたかも骨折したかのような有様で、ではむしろすごいこけ方をしたんですねという話になり、えへ…はあ、まあ…みたいな本当にひさびさに人と話すような気持ちで会計を済ませたらペイペイ!!!!!が予想以上に待合室に大きく響き本当に外へ出るのは嫌だと思った。だが医療従事者の方は優しいので好きだ(仕事)。

病院の、全体に対するいたわるような雰囲気が満ちている場所は優しいと思う。だが病院によっては受付のレディがいけすかないので「誰も好んでおまえに会いに来てるわけではない。ひとえに医師の診察を所望してるだけだ。おまえはおまえの役目を果たせ。それには愛想の良さも含まれるんだぞ」と腹の中で思う。

いや、まあ、いろんな方が来られるんだろうけどさ。

話を戻そう。

たとえば今回のような不慮の怪我や病を患ったような時、ふっと頭に浮かぶことが本当にしたいことや続けたいことなのだとしたら今回の指反り事故においては「あー、これでパソコン打てなくなるな…」だったのである。仕事も趣味もすべてパソコンありきなので、私はキーボードが打てなくなったら私を少し失うかも知れない。まじでどうなるのか。手と目は大事だ。お金は惜しんでいない。

他にも数年前、倒れた本棚が後頭部に激突した時も脳裏をよぎったのは「あ、これで持病なおったかな…」というものだった。(当時ちょっと病があった)。

そういう一瞬によぎる物事が本当にその人が叶えたかったり大事にしたりしていることなんだ。そうでもないと認識できてなかったりするのでたまには必要なんじゃないか?と思うが痛いのも命を危険にさらすのも御免だ。ほどほど平和に痛くない暮らしをしたい。

人がよく死ぬ。事故物件サイトを見ていたら隣のアパートでも数年前に自死がある。心霊的な意味でぶるっとしたが、よく考えればこんだけ人間が存在してこんだけ歴史があるんだからどこもかしこも事故現場だよと思う。逆に事故現場じゃない場所を探すほうが困難なのではないか。新聞のおくやみ欄、わたしは赤ちゃんのコーナー、メメントモリ、ハッピーバースデー。祝辞と弔辞。ハレとケ。特別なことではない。

だが「特別なことではない」と言い聞かせる自分にまた動揺するのである。怖いんだぜ、こいつ怖いんだぜ幽霊が!だが冷静になれば私に霊感といったものは微塵も無かった。それより虫が怖い。嫌い。あんなの無理である。だが見様によっては人間も随分と無理な感じだ。二足で立ち、体の脇に腕をぶらぶらさせ、ある者は着飾り、ある者はよたよた歩く。よく喋りよく考えよく罵り笑い怒り絶望し立ち上がり歌い道具を使い乗り物を運転し酒を飲み静かに考え事をしていると思いきや突如スマホに向かって決めポーズする。怖い。

怖い、と言ったが正確ではないぞ。本当は分解できるのだがもうめんどいのである。「怖い」で結ぶとわりかし便利なのである。意味が広いし使い慣れているので、意味を言葉に委ねるのだ。はい適当に解釈しちゃってくれと委ねるのだ。そしてこれは委ねなかった場合と正確性であまり大差はないと思っている。人と人との間のあまりある「伝わらなさ」は、表現を放棄した場合も、表現に真摯に向き合った場合も、たいして変わらない。のであればどんなに気楽に放棄できるだろう。

おいしいものを食べたいと思う。だがべつに空腹でないことがある。おいしいものを食べたいんじゃなくて幸せになりたいんだ。そういう錯覚は少なくないと思っている。そういう錯覚になら共感できると思う。というのも幻想なんだろう。