【雑記】レターセットの思い出

手紙を書くのが好きだった。文房具屋さんでレターセットを買ってきて、伝えたいことをそのまま書くのだ。お元気ですか?私は元気です。それから先の順序は適当。思いついたままを連ねていく。手紙を書いているとき、相手の顔を思い浮かべることもあったかも知れないけど、けっきょく自分を見つめていた。内側のことばを「これだ」と取り出して外に出してまた眺めた。そうだよね、こういう形だよね、と。そして私は一瞬だけ満足(おそらく)したものの、また次の言葉探しを始めた。取り出して形にして、うん、そうだよね。また取り出してまた形にして、うん、こうだよね。どこまでも書き手は私で、読み手は私だった。手紙というのはけっきょく半分創作の、自己満足だ。宛先の人には、付き合わせているようなものだ。レターセットというものは、便箋を二つに折るときれいに封筒に収まるものだ。それが気持ちいい。封をするためのシールがいくつかついていて、好きなものを使う。レターセットというのは大抵使い切ることがない。また別のものが欲しくなるからだ。だからなるべくいちばん良いシールから使う。最後のほうは使われない可能性があるから。赤いポストにコトリと手紙が落ちる音を聞き、手放した気持ちと言葉の分だけ私は少し軽くなる。思いが溜まってきたら、また手紙を書くだろう。こんなにも相手のことを考えないものなんだろうか。誰かへ手紙を書くときは、こんなにも自分の内面とだけ向き合うものなんだろうか。液晶画面に向かって詩を打ち込むことと何が違うんだろう。宛先を書いて届けてもらって。数日、数週間経って返事が届く。私がもう何を書いたかさえ忘れた内容への反応だったり、近況だったりする。送り主は書き手の私のように自分と向き合っただけかも知れない。(そうでないかも知れない)。何も私だけが、と引目や罪悪感を感じることもなく。たしかなことはそれを書いている間、あなたの時間は少しだけ私のために削れていたということだ。私も同じだ。何年もレターセットを買ってない。手紙を送っていない。郵便ポストを開けると、カラフルな、シンプルな、一通の重みを迎えることはそうそうない。手紙を書かなくなったから、切手は種類が出たね。使う人がいなくなってから、それはどんどん魅力的になる。振り向いて欲しいから。また使って欲しいから。なので私もつい釣られて、使う予定のない切手を買ってしまったりする。使いたくて官製葉書を買うこともある。文通していたあの子はもう、私の出した手紙を持っていないだろうか。懐かしく眺めることがあるだろうか。どっちだとしても、ときどき幸せでときどき悲しい日々を過ごしている気がする。どんなふうに思い出されるだろう。あの頃とは切手一枚の値段もなにもかも変わったね。もし出会ったとしても思い出せる話題は少ない。同年代の初対面のように、頭の片隅で別のことを考えながら、当たり障りのないよう曖昧にはにかむだろう。