小説

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【小説】マイ・ヒーロー・イズ

大事だったものを失う気持ち良さに魅了されたら底なし沼だ。

僕はこんな大人になる予定じゃなかった。

そう言うと、計画通りの大人になった奴なんて数える程もいないさとお前は笑う。それがちっとも嫌味じゃなくって少し救われる。

家に帰ったってあいつがいるからもう少し遅らせようかな。

それ家って言えるの?
お前はどこに住んでんの?
いろんなところ。
いろんなって。
いろんなって言ったらいろんなだよ。カレーが好きでもさ同じ味付けばっかは飽きるでしょ。たまにはキーマにしたいし、グリーンにしたいし、バーモントにしたい。
バーモント。
そう、バーモント。あんたは強いて言うならハヤシライスだな。
ハヤシライスってカレーなの。
まあ、親戚。
親戚。
あんたと親戚になりたいな。もっと近づいて家族になりたい。そうだ、なろう!
寄るな気持ち悪い酔っ払い。ならねえから。じゃ。
待て待て、もう少し話そう。
嫌だね。
話してんじゃん。たとえばあの店の前に立ってる男いるじゃん。
帽子の。
違う、その隣。
ホームレス。
あれね、半年前までとある会社の役員だった男だよ。
嘘だよ。他人じゃねーか。
今はね。俺が全部奪っちゃった。
は?
だからね、あんたも俺を頼ればいいよ。たすけてヒーローって言えばいつだって参上するから。
嘘くせ。
信じる信じないはあんた次第だけど、頭の片隅にでも置いといてよ。あんたにはヒーローがついてるってこと。
どうして会ったばかりの奴にそこまでしてくれんの。
あんた俺に似てるんだ、だから、ほんとに俺かもなって思って。
何それ、頭悪いの。
あ、それ俺の口癖。
本当かよ。
本当。だから覚えていてね。本当にどうしようもなくなったら俺を呼んでね。
はいはい。
分かってんのかなあ。
分かってるって。

そして僕たちは別れた。
あれ以来、ヒーローには会っていない。
一度も呼ばなかったから。
そいつはただ平凡になって鏡の中にいるだけ。

だから今度は僕が見つけに行こう。
いつかの新しい僕に会いに行こう。

何考えてんだ、頭悪いの。

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【小説】キーマについて

月光だけを照明にしているのは相棒の体がそれ以外の光を拒否するからだ。とは言え孤島の研究所で暮らすにはそれで構わない。俺は、慣れている。

向かい合ったキーマがフォークで生ハムを食べている。
俺から目をそらさずに。
「何故そんなに私ばかりを見るのだ?」
これには驚いた。
見られているのはこっちだとばかり思っていたが、キーマからすれば俺がいつまでも見ているのだ。言われてみれば、それはそうかも知れなかった。
血のようなワインをあおっていても、それが喉を鳴らしている間にも。
唯一無二。
そんなことが、ありえるんだろうか?

数年前に、最愛の助手を事故で喪った。
それからというもの、助手を再現することに情熱を注いできた。歳月をかけ、ようやく完成したのがこのキーマというわけだ。仕草はぎこちないながらも助手としての役割を立派に果たしてくれる。おかげで俺はキーマをつくりあげた後からでも本来の研究に戻ることができた。
キーマをつくりあげるためには十年ほどを費やしてしまった。キーマはまるで助手がその期間生きていたように、俺の記憶にある助手よりも若干年を経ているように見えた。
それでも、美しいことに変わりはない。
俺はキーマを最愛の助手そのもののように、愛し、扱った。
記憶や人格までは乗り移らせることはできなかったが、俺は程よく異常を保っていた。
発狂を防止する有効な手立ては適度に異常をきたすことだ。そうして狂気を逃がすのだ。まともでいられるように。
「なあ、博士」
「うん?」
「今日は見事な満月だな」
「ああ」
「雲もなくて部屋が明るいな」
「そうだな」
「きれい」
「ああ、綺麗だ」
「博士が私を殺そうとした夜みたいに」
手からフォークが落ちた。
キーマ、それは、誰の記憶だ?
「誰の?もちろん、私だ。博士、あなたは私を殺せていなかったんだよ。あの岸壁から、突き落としたよな。だけど私は死ななかった。なんとか岸に泳ぎ着いて、こっそり博士の研究所へ戻った」
「キーマ、」
「窓から覗くと博士は私そっくりの人形を作っていた。ああ後悔しているんだなと思った。嬉しかった。だって、博士の中でワタシはもう二度と取り戻せない存在になったわけだろう?」
キーマが次の生ハムをつまみ上げて下から食べる。
これまでにしたことのない食べ方だ。
それは最愛の助手の食べ方だった。
「だめだぜ、博士。まぼろしばかり追い求めてちゃあ」。
鋭利な刃物で臓器を一突きするとこんなふうに中身がこぼれてくる。
俺は両目から泪をぼたぼた落としながら、キーマではなくなったものを見ていた。
「ありゃ、壊れちまった」
そいつの手が俺を拾い上げる。
異常を飼い慣らすことなんて到底出来ていなかった。飼い慣らされていたんだ。その証拠に、こちらが主導権を持っているという錯覚に陥っていた。疑いもしなかった。
その事実こそ、キーマが俺よりはるかに才能あることの証明だった。
最愛の助手にして最大のライバルだった男はいつだって強かで賢い。
すぐそばで見ているのはさぞかし退屈凌ぎになっただろう、俺の駄作を、駄作の俺を。
「ショートしちまったんだな、可哀想に」
まあ、いいや。
何度だって直してやるよ。
だからおやすみ、そいつの唇がそう動く。
それで額に触れられると母親に出会えた迷子の子どもみたいになって、俺は急な眠気に襲われる。
「最高だったよ。僕を喪ったおまえを見ているの。自分勝手ですごくかわいかった。愛してるぜ、どうもありがとう」。
月光。
生ハム。
迷宮入り事件。
未完成のキーマ。
殺せなかった男。
おまえは誰だ?
俺は、誰だ?

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【小説】その店のメロンクリームソーダに関するうわさ

その店のメロンクリームソーダは飲むと◯◯、◯◯◯◯。

「都市伝説にされてら」
店内はいつも通り閑散としている。ふと気になって覗いた口コミサイトで見かけた自分の店には、都市伝説の類が書き込まれていた。
「暇なやつもいるんだなあ…。って、この店ほどじゃないか」
と、入口の鈴が鳴った。
来客を知ったタイチは、スマートフォンの画面を閉じた。
久しぶりの客だ。
訪れたのは、小学校低学年くらいの少年と、はたち前後に見える男。彼が帽子を脱ぐと、まとめていた長髪がほどける。
タイチは凝視した。
男の髪の白さに、整った顔立ちに、紅茶が抽出できそうな赤い瞳に。
ぼけっと突っ立ったままの店主に構わず、今しがたやって来た二人は迷うことなく窓際から一番離れたテーブル席へと着く。
「オレンジジュース」
少年が先に注文する。
「俺はメロンクリームソーダを」
赤い瞳がやけにキリッとした声で注文する。
「かしこまりました」
タイチは平然を装いつつカウンターの中からその二人の様子をうかがってみる。
兄弟。
親子。
師弟。
友人。
恋人。
ペットと飼い主。
どれもしっくりこない。
「マヒロは金魚すくいと射的をする。その時、俺はメロンクリームソーダを注文する」
来週開催される夏まつりの計画でも立てているのだろうか。
「メロンクリームソーダ出してるお店はないと思うけどな」
「探してみないとわからない」
「わかるよ。だいたい夜店で出す飲食ってのは食べ歩きに適したものでないと売れないだろ。かと言って紙コップやビニールのコップにメロンクリームソーダ入れてると魅力が半減するっていうか」
「俺にとっては半減などしない。この世のメロンクリームソーダはすべて等しい」
「この分からず屋」
少年の吐き捨てた言葉に傷つく様子もなく、赤い瞳はもう一度髪を結わえた。完成したそれはタイチの大好きなポニーテールだった。

「お待たせしました」
少年の前に100%オレンジジュースを。
赤い瞳の前にメロンクリームソーダを。表情を盗み見ると、その目はメロンクリームソーダに釘付けになっている。
「いや、だから。タカナシの電話にはもう出なくていいって言ってんの」
「だが、マヒロのお母さんは出ろと言う」
「ぼくとお母さんとどっちの言うこと聞くわけ?」
あいかわらず関係性はわからないが、遠慮し合うような仲ではないようだ。タイチにはそういう間柄の他人はほとんどいない。
カウンターの内側へ戻るとグラスを磨くふりをしながら赤い瞳の横顔をながめた。すっきりとした顎のライン、頬の膨らみ、後頭部の輪郭まで含めてパーフェクトだ。
暑い中やって来たと言うのに汗ひとつかいてない様子だった。
触ったら、ひんやり冷たいんだろうか。
向かいに座る少年がじっとり汗ばんでいるのとは対照的だった。
バンパイアという生き物のことを思う。
生き物という表現が正しいのか定かではないがどこで見かけたのだったか。ネットだったようにも、雑誌の片隅であったようにも思う。
多数の人間にとって有益と思われる体質や性能を保有しつつあるが、いまだ解明されていないことがたくさんあるとか。ただし、数年前と比較して彼らの権利も認識されつつあり、非人道な実験や衆目にさらされるシーンも減って来たとか。初期のブームが落ち着いて来たのだと書かれていたのを読んだ気がするがそれはそれで侵害的表現である気もした。
それにしても、そのような存在を初めて目の当たりにした。
ましてその連れが脆弱そうなちびっこ一人だとは。
まさかどこからか屈強な護衛係が見張っていたりするだろうか。しかし店内には他に客の姿はなく、彼らのついた席は窓の外からは死角になっている。それに、盗み聞きした会話の内容にどうも危機感がないし、店内に入るやすぐさま帽子を脱いだところなどから、お忍びというわけでもないようだ。
ただただ凸凹デートしてます。って感じなのだ。

結わえ損ねた髪の束が耳から落ちるのを押さえつけながら、唇のあいだにストローを挟む。吸い上げられた緑の液体は、血の気のない体に染み渡った。

「とてもおいしい。生き返る心地がするぞ」
「生き返る?それ冗談。ねえ、ぼくにも飲ませてよ」
赤い瞳が少し迷った素振りをし、もう一度吸い上げた液体は口移しで注がれたので、タイチは危うく磨いているコップを落としてしまうところだった。
「ほんとだ、おいしいね。さくらんぼ、もらっていい?」
「いいぞ。俺が好きなのはソーダの部分だからな。マヒロにやる」
「やった」
譲られたさくらんぼはマヒロの口から喉へ、食道を通って胃の中へ。
ああ、ああ。
あの実があんな小さな子どもの口に入ってしまうとは。

マヒロの体格がみるみる変化する。
少年から青年へと。
金ちゃんが三回まばたきを終える頃には、十七歳のマヒロが仕上がっていた。
スプーンが床に落ちる音がする。
金ちゃんは呆然とその変化を見守っていたが、ようやくハッとして首を左右に振る。
「あれ?大きくなっちゃった」
二人は顔を見合わせた後、どうしたかと言うと。
その状況に、慣れた。
そうする他ないと知っているかのようにスムーズに。
「あ、惚れる感じ?」
「ば、ばかを言うなっ」
自信たっぷりににやりと笑うマヒロを前に、金ちゃんはそわそわと落ち着かない。
あらぬ方向へ視線を飛ばしたかと思うと吸い寄せられるように何度もマヒロを確かめた。
タイチは何度も目を瞬かせたり擦ったり、頬をつねったりもしてみたが視界に映る光景は変わらない。実際に頬をつねることなんて人生であるとは思わなかった。次にタイチは怯えた。あの少年が元に戻れないのなら。奇天烈なさくらんぼを提供した店側に損害賠償請求されたら。おれは犯罪者だ、前科持ちだ、行きつけのコンビニのあの子にもまだ気持ちを伝えていないのに、両親にもなんと言ったら、親戚一同にどう説明をすれば、恩師に、数少ない友人に、Twitterのアカウントは放置か、そうだペットのペロはどうする、俺がいなくなったら誰に世話を頼もうか、ペロ、ああ、かわいいペロ、おれが拾って育った大切なペロ、ごめんな、最期まで面倒を見てやることのできなかったふがいない飼い主をどうか許してくれ、ペロ。

タイチが我に帰った頃、青年になってしまった少年の姿も、美貌のバンパイヤの姿もどこにも見当たらなかった。

しかし夢ではなかったことの証には、飲み干したグラスとお金がテーブルにのっていた。

次の喫茶店へと向かいながらマヒロの体はだんだん元に戻っていった。
その様子を金ちゃんが恨めしそうに眺めている。
「なんだ、もう効果が切れたのか。十七歳のマヒロ、悪くなかった」
「まだ試作品だからね。てか、やっぱ惚れてんじゃん。信じらんない。嫉妬の相手が自分ってのもなんだけど」
「どんなマヒロも好きだぞ」
「かっるいなあ、金ちゃん」
「完成したら商品化するのか?」
「まさか。しょうもない」
「需要はあると思うぞ?」
「たとえば」
「自分の十年後が分かる。たとえば病気を予防できる」
「これはあくまで現時点の自分を基礎としている。その後の出来事や食生活なんかを予期して反映させているわけじゃない。本人の頭の中は元のまんまだし、まあ、誰かをちょっと驚かすくらいなら楽しめるかも」
「さっきの喫茶店の店主みたいに」
二人は顔を見合わせると笑みを交わした。
「きつねにつままれた気分だろうな」
「金ちゃんに見惚れていただけかも」
欅の下を歩けば、うるさいくらいに蝉が鳴いている。
金ちゃんのわがままで始まった真夏のメロンクリームソーダめぐりはまだ一店舗目。

その店のメロンクリームソーダは飲むと十年、歳をとる。

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【小説】猫の乞食と仇の王

どうして僕を好きなんだろう。じゃ、ない。どうして僕を好きなふりをしているんだろう。おまえは本当は自分のことが大事で優しいんだ。僕が貶められると自分のことが貶められる。僕が笑われると自分が恥ずかしい。僕が足りないと自分が満たされない。僕が泣くと自分が辛い。おまえは僕と自分を勝手に結びつける。「そこまで分かってるんならもういいよ」ってゆっくりと笑う。僕は絶対におまえに懐くことはしない。僕がほだされて甘えるようにでもなれば(考えただけで虫酸の走ることだ)、おまえは幸せであたたかい気持ちになるんだろう。そうして無条件に敵でもなんでも受け入れて博愛の権化みたいになるんだろう。僕はいつでもおまえが失脚すればいいと思っているし、支持者その他大勢から見放される日をひそかに待っている。僕の足は顔の見えないやつに切り落とされたけれどそうでなくても行きたいところなんかなかった。僕の顔の半分は悪戯によって焼け落ちたけどそうでなくても向き合いたい相手なんかなかった。僕はこの時代のこの世界に生まれてきたけれど別にそうじゃなくても良かった。おまえは否定も肯定もしないでただ一言「でもそれじゃあ俺がさみしいよ」と呟く。噛み付いても怒られない。歯を立てても逃げ出さない。僕のほうが先に疲れてしまって顎を緩める。おまえの手からは食べないと何度も言ったのにおまえは同じことを繰り返す。僕の知ってる犯人はおまえとは似ても似つかないやつだったよ。満腹になるとどうしても眠くて意識を遠ざけてしまう。おまえは僕が眠るまで身動きをしない。だから僕はするすると糸をつたうように安全に、あの日捨てられたと思っていたぬいぐるみの上にたどり着ける。うむ、このふかふかは健在だ。取り上げられる前のすべてが揃っている。僕の好きなものがまだ何一つ欠けていなかった世界だ。(おまえを殺す)。僕の復讐心には気づいているくせに。(そのうち、殺す)。唱えていないと忘れてしまいそうになる。(癪だ)。おまえの腕の中で眠りに落ちる、その瞬間だけは、今じゃないいつかに戻りたいと願うことをやめられるということ。教えたくない。悟られたくない。

おまえの知ってる僕は無口だ。

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【小説】カラフル

人の好きなものをとやかく言う筋合いはない、誰にだって。
そんなことくらい分かっていた。つもり、だった。
年の差も性別も関係ないことは百も承知で実体験としてあったから、条件によって阻止されるという感覚が分からなかった。
たくさん揃っていると思っていた。だけどそれを求めていない奴もいるんだって、俺が持っているものに心底興味がない奴もいるんだって、思いもよらなかった。
どんな集団だって俺が少しでも不機嫌を気取って鼻を鳴らせば密かに、でも確実に、気にかけるのに。
あれは、俺に、なびかない。

教室の隅の席で短い鉛筆を懸命に動かして何かを書いている。通りすがりに盗み見ようとしたことがあったが、あれが顔を近づけすぎているせいでかなわなかった。恐ろしく視力が悪いのだろう。
また別の日には取り巻きを使ってこちらに気を向かせようとあれの興味を引きそうな物を散らつかせてみたがちっとも好反応を示さない。それどころか迷惑そうな表情さえ浮かべて見せるじゃないか。てめえは何様だ?と詰め寄りたいのをぐっとこらえ、地道に観察していると、あれにも友人のあることが分かった。隣のクラスの深山と小沼田。昼休みになると三人でひそひそ笑い交わしている。ったく、何があんなに楽しいのだか。俺が近くにあった椅子を蹴ると傍の一人が耳打ちをしてくる。
「あいつらちょっとからかってみる?」。
すかさず睨みあげるとそいつは目に見えてたじろいだ。
「お、お前だっていっつも殺しそうな目で見てんだろ」。
殺しそうな、目?

その晩、俺は風呂場の鏡で自分の顔と向き合っていた。
行き交う他人から横目で見つめられていることは珍しくない。
整っているだとか美形だとかは小さな頃からよく言われていたから大衆的にそうなんだろう。だけど、殺しそうな、と形容されたのは初めてだ。
全部、あれのせいだ。
あれが、俺を眼中に入れないから。

翌朝、教室に入った俺はいつもと違う空気に気づいた。
こちらから尋ねるまでもなく数名の男女が報告のために駆け寄ってくる。
「篠原くんの席」。
「登校した時から」。
「白い絵の具が」。
「夜中に侵入したのか」。
断片的な情報が頭の中で結びつく。
まあ、そうなるな。
当の篠原は淡々とした様子で、雑巾を持って椅子を拭いている。
俺は「ふうん」と興味なさげな返事だけして自分の席に着いた。周囲がそれに倣い、ざわめきが鎮まるのが分かる。ほどなく担任が教室に入ってきて、いつもの一日が始まる。

篠原への嫌がらせは終業式までの約一ヶ月間、休みなく続いた。そのうち篠原が椅子を拭く光景は当たり前になっていき、誰もいちいち騒ぎ立てなくなった。そのことで篠原が精神的なダメージを受けている様子はなかった。少なくとも外から見ていて分からなかった。始業前には絵の具で汚れた椅子を拭き、昼休みになると深山たちと笑い合う。絵の具の色は日によって違った。二色、三色と混ざっていることもあった。前衛芸術みてえ、と誰かが囃し立てた。意味も分かっていないくせに。
退屈な悪戯の犯人さがしは行われないまま、夏休みに入ろうとしていた。

篠原に小学生の妹がいることを俺が知ったのは、終業式の日の夕方だった。
篠原兄妹が一緒にいるところに、スーパーの惣菜コーナーでばったり出くわしたのだ。
「あ?それ、妹?」と、俺。
「うん」と、篠原。
思えばこれが俺たちにとって初めての会話だった。
「はじめまして。お兄ちゃんがお世話になってます」。
「こら、黙れ」。
「えー、だってお兄ちゃんと同じクラスの人でしょ?名札にクラス名が書いてるもん」。
「そうだけど、おまえが言うセリフじゃないの」。
「なんで?」。
「なんででも」。
「ねえ、この人、かっこいい」。
「そうだろ。お兄ちゃんの中学で一番モテてるんだからな」。
「お兄ちゃん、ずるーい」。
ずるずる話し込むとこちらに悪いと配慮したのだろうか、篠原がやや強引に切り上げたから、会話はそれきりだった。
(そうだろ。お兄ちゃんの中学で一番モテてるんだからな)。
その言葉だけを神様のお告げみたいに何度も何度も何度も再生する。
この世に存在するものでもっとも美味しいものを頬張ったみたいに頬が急に痛くなってきて、鮮魚コーナーの壁面に貼ってある鏡で確認してみたところ、なんと赤面しているのだ。この俺が。この、俺が。赤面。嘘だろ。

半額シールが付いたチキン南蛮弁当を買い、ふわふわした足取りでスーパーの外に出る。
一気に重力がかかってきたように暑い。
ポケットの違和感に気づき、取り出してみる。
赤が、俺の手の中にあった。
回り道になるが橋の上に行き、川へ向かって放り投げた。それが着水するのを見届けずに踵を返した。
何が、「百も承知」だ。
何が、「揃っている」だ。
意味がない。
そんなこと、何の意味もない。
俺はまだ釣り合わない。
何が、舌打ちだ。
何が、「ふうん」だ。
何が、何が、何が。
「なびかない」だ。
あんなにまっすぐな笑顔初めて見た。
この思い、届くな。
今はまだ、届いてくれるな。
妹、おまえによく似てるな。
今度会った時になんて言えば良い。
今度いつ会える。
待ち遠しい。
分かってた。絵の具なんかじゃ満たされなかった。
分かってる。俺は空っぽだってこと。
短い鉛筆を不便に感じないほど書きたいことなんかない。
脇目もふらないほど夢中なものなんかない。
何時間でも笑い合えるほど話をしたい友達なんていない。
篠原が欲しい。
篠原になりたい。
なんだ、おまえ、たいしたことないな。
そう言ってくれ。
そこから始めたい。
残りの絵の具はもう捨てるから。
生きてきた中で一番、これから来る夏が憎い。

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【小説】続・野良猫の詩

拍手ボタンからコメントをくださったハルさんへ。コメント、ありがとうございます。読んでいたらむくむく湧いてきたので7/28投稿分『野良猫の詩』の後日談みたいな続きを書きました。想定外に怒涛の愛情に押され気味な元野良ちゃん。このままいくとヤンデレ路線かな…。

いつも記事への拍手ボタンぽちぽち、押してくれている方、押さなくても見てくれている方、ありがとうございます。

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存外だな。
もっと戸惑いながら落ちてくるんだと思ったら急転直下かよ。よほど色々溜まってたんだろう。これまでの生活でできなかったことや満たされなかったところを一気になんとかしようとしてがっついてくるからペースを乱される。せわしない。落ち着けったら。毎朝ベッドの中で寝ぼけながら「かわいい」なんて言ってこなくていいから、ごはん少々とミルク適量はこっちより早起きして準備しとくべき。本日の毛並みがどうとか体調が変わりないかとか心配してくれるのは当たり前だとしても、そう頻繁でなくていい。気が滅入るくらいにしつこいぜ。いちいち目線を合わせてからする抱擁も、文字通り猫なで声で優しくされるのも求めていない。でも、まあ、顎の下をちょいちょい撫でられるのは悪くないかな。と言っても、おおいに修行不足だけど?不満のはけ口として新しい革靴に粗相をしてみたり、イタリアのなんとかってブランドのスーツに爪を立ててみたりもしたけどちっとも応えちゃいない。ばかでかいソファはふわふわ足元がおぼつかなくって気味が悪いし毛足の長いカーペットは爪に悪い。家に仕事を持ち帰って来ようものなら八つ裂きにする所存。バカか?ぼくが構って欲しい時におまえの手が空いていなかったらこっちが我慢しなくちゃいけないとでも言うのか?ふざけるのも大概にしろ。待てるわけないだろ。これだから甘ちゃんは。

「待ってて。もう少しで終わるから」。
おまえはそう言ってキーボードをタタタン、タタタンしている。
待ってて、だと。それじゃまるでほくが待ち焦がれているようではないか。
もう少しで終わるから、だと。それじゃまるでぼくがあと数分も我慢のできないワガママ放題の元野良みたいじゃないか。
デスクに飛び上がって画面の前に立ちはだかり、しっぽの一振りでコップを倒してやった。
「ああ、もう、仕方がないな。分かった、こんなことはすぐ止めるよ」。
仕方がない、だと。
当然だ。
「お腹が空いてイライラしてるのかな?」。
ハズレだ、バーカ。
「ミルク飲み足りない?」。
ざけんな、当てずっぽうに言いやがって。
そんなに毎時間飲食してたらどっかの金持ちの家の肥満猫みたいになっちまうだろーが。
発想の貧相なやつめ。
「なでなでして欲しいの?」。
なでなで?
ふざっけんなよ。
そんな言葉で表現するんじゃねー!
ぼくがまるでまだ一人前じゃないみたいじゃないか!
「いてっ、いてて、噛むなって。そうだ、写真、写真撮ろう」。
写真。
おまえは最近よくぼくの写真を撮るよな。
そしてそれをどこかに投稿している様子。
たくさんの反応があって、返信するのに忙しい時がある。
不思議だ。
おまえが画面を見てニタニタしていると、お腹の中がモヤっとする。毛玉を飲み込んじまったみたいに。おまえのニタニタ顔が害悪なんだ。誰に向かってニタニタしてんだか。本当にだらしがない。
「さあ、撮るよ。こっち向いて」。
だから、背中を向けた。
そう簡単におまえの手が届かない場所に行って、どこまでも逃げてやる。
案の定追いかけてきたおまえがテーブルの角で足の指をぶつける。ざまをみろ。ぼくを追い詰めようとするからだ。人間風情が。へっ。

絆創膏の箱の裏側にびっしり書かれた文字、商品説明だとか配合成分だとか。読むとはなしに目をやりながら、こんなことって何年ぶりだろうと思う。
小さい頃はよく怪我していたと思う。擦り傷、切り傷、いつの間にか虫刺されが腫れていたり。さいわい大きな怪我はしたことがないけれど、誰かが貼ってくれていたんだな。
子供はそのうちうまく歩けるようになって、危険を察知できるようになった頃には、取り巻きができていた。
おれは無傷でなお丁寧に扱われて、よそ見をしようにも誰かが横から視界に入ってきた。
そして吐き出す。
甘い言葉、優しい言葉、賞賛の言葉、羨望の言葉。
あなたの未来に期待します、あなたは間違っていません、あなたは才能に溢れている、あなたはとても美しい、あなたがいるだけで場が華やかになります、あなたのおかげです、あなたに感謝します。
たくさんの、「あなた」。
おれはまだ何もしていないのに、何ももたらしていないのに。
いったい彼らは「誰に」向かって話をしているんだ?
うわべは何とか取り繕っていたけど、いつだってそんな思いが拭えなかった。
だから、初めてかも知れない。
あるいは、すごく久しぶりな気分だ。
きみはおれにとって面倒な存在だ。
悪戯ばかりで言うことを聞かない。邪魔で、迷惑で、騒々しい。
だけどそれらすべて差し引いてなお余りある、「あなた」じゃなく、この「おれ」のことを見ていることが分かるから、可愛い。
何度も目が合う。滑るような視線でもない、頭の上を通り越えたり、体を貫くような視線ではない。ただの「おれ」しか知らなくて、それを見る。それが、とても可愛い。
今の部下の一人からは野良猫なんて拾うもんじゃないと忠言を受けたけど、おれが拾ったのは野良猫は野良猫でも、この猫。今ここでおれを困らせる一匹の命は、この猫だけ。
外では冗談も言えないおれが、家ではこんなにだらしなく笑っているのが見つかったら。どんな表情をされるんだろうな。それを想像するだけで楽しくなった。
きみがずっと拾われない野良猫で良かった。汚れていて、痩せっぽちで、甘え方を知らない、道行く人から目をそむけられるような存在で、本当に良かった。ありがとう。これからも大切にするよ。

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【小説】夏の魔物

昨日の。作業に行き詰まったので息抜きに夏の高校生BL書いたやつ。読んでて気恥ずかしくなる系~現代風~めざしました。スマホとかLINEとか安易に出してるから安易に現代風とか言う系。前提として、自分のトーク画面で削除しても相手の画面では消えてないからって認識が必要(常識???)。
テンパってる人物書くのは苦じゃないです。

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状況の意味が分かりません。ええ、はい、分かりませんったら分かりませんね。とにかく、ちょっと意味が分かりませんからスマホを置いて部屋を出た。出ました、第一走者、ダーっと踊り出た!ってナレーションは良いからとりあえず冷蔵庫を開けて、と。中のものを物色。しているからって別にお腹が空いているわけでも喉が渇いたわけでもないのですよ。私はただ物色するために物色している、のだ。のだ、のだ、野田元総理。えーと、ぼくは何を言ってるのかな。いやこの場合口にしていないから何を言ってるのかなってツッコミはおかしいだろーい。ろーいろーいロイヤルホスト。ほっほーい。落ち着け。無理。落ち着けったら。いやいや無理無理。この状況下で落ち着けはさすがに無理っしょ。真実、無理ゲー。きゃはは。おもしろーい。気がするー。気がするって何やねん。もうええわ。早っ。しかし冷蔵庫から冷気が逃げてはいけないと思い直す精神はまだどこかにあって省エネのためにリビングをうろうろした。地球環境貢献隊。テーブルで宿題をしていた秀才の妹から「うざい」と目線もなしに宣告されていつになく衝撃を受けた。その言葉があいつの声に変換されて聞こえたからだ。「うざい」。うざいんだけど。おまえ、いつもそんな目でおれのこと見てたの?きも。

スマホを捨てたってどうにもならない。だけどこのままではいられない。とにかく捨てよう。ぼくの思考はショートしている。ショートショートの天才、星新一。あっぱれ!って、いや、落ち着け。親のお金で買ってもらってまだ二年経っていないそれをもう一度握ると炎天下に自転車を漕ぎ出した。やけに浴衣姿の人が多いのは今日が商店街主催の花火大会だからだ。規模は小さいけれど毎年多くの人で賑わう。地元では夏の風物詩。これがないと夏じゃない。だけど今のぼくにとってはそんなことどうでもいい。とにかく、この呪われたスマホを捨てなくては。いざ実写版ロードオブザリング。て、もともと実写。落ち着け、落ち着け。何か方法があるはずだ。

夏休みが三分の二ほど経過した頃だがそのほとんどを家にこもってばかりいたから運動不足に拍車がかかった。自転車を十分も漕いでいたら立派な酸欠状態になった。これじゃあ変質者だ。汗だくでぜえぜえはあはあ呼吸をしながらそれでもまだまだ漕ぐつもりでいる。貧弱とはいえ現役男子高生の脚をもってしてもいやに進まないのは、脆弱な筋力が一段と衰えたからか。それとも地球の重力が知らない間に変化しているとでも言うのか。意を決して立ち漕ぎに切り替えたところでからきし駄目だった。

後輪のタイヤがパンクしていることに気づいたのは、町外れの神社の前に差し掛かった頃だった。バランスを崩して道の上に倒れこんだぼくの頭上から、聞こえてはならない声が聞こえて来た。「誰かと思えば、ミナミじゃん。こんなとろで、何してんの?」。やばい、キタノだ。なんで、今。「ははっ、きもちわるっ」。何してんのはこっちの台詞で、紹介します、これがぼくにとって今日一番いや今世紀一番会いたくなかった人物です。このタイミングでは。

数分後、ぼくとキタノは並んで石段に腰掛けていた。他に人はおらず、生い茂った緑の木陰は想像以上に涼しい。たまに吹く風がぼくの、泥で汚れた肌の上を撫でていった。
「キタノ。は、この神社、たまに来るの?」
「うん。小さい頃から、気が向いたら。家にいるより涼しい」
「キタノんちってクーラーないの?」
「うん。扇風機だけ」
「そんなんでよく生きて来られたね」
「大袈裟だって」
キタノはよく笑う。
いちいちよく笑う。
相手がぼくであっても、そうじゃなくても。
そりゃ人気者にもなるわ。
人によって態度や話し方を変えてるぼくとは違って。
「そういえば今日、花火大会だね。キタノは誰かと一緒に行くの?」
我ながら随分と大胆だ。
それよりもよほど大きなリスクを背負っているからかも知れない。毎日巨大なリスクを背負って生きていれば、こんなぼくでも人並みに積極的になれるのかも知れない。
「ミナミは?」
ぼくの問いかけには答えてくれず、逆に問いかけてきた。いかにもこいつの使いそうなずるい手だなと思ったけど、うわべだけでもぼくに興味を持ってくれたのだ。ありがたく会話を続けないと。
「ご察しの通り。ぼくには一緒に行く人なんていないよ」
「あ、そう。一人で見る派?」
「そんな派あるかよ」
「ははっ、そうだな。じゃ、おれだけかな」
「キタノが?」
「うん。おれさ、綺麗なものとか好きなものって、期待値が高ければ高いほど、好きであればあるほど、誰かと一緒になんか見たくないんだわ。共有したくないっていうか。なんてか、減るじゃん?感想述べ合うのとかも苦手。自分の中にしっかり馴染ませて、もう大丈夫だ、これは逃げない、って分かってからしか、誰かと話したくない。これも、独占欲の一種かな?」
「へ、へえ」
何言ってんだ?こいつ。
そもそもぼくは何してんだ?こんなところで。
「あ、そうだ。ミナミはどこか行く途中だったんじゃない?あんなに急いで、パンクしてる自転車で吹っ飛ぶくらいのスピード出して、」
「だから、もう、笑うなよ」
「ごめんってば。人でも殺してきた?」
「そんな、物騒なこと」
「いやあ、意外とあるかもよ?」
「ぼくってそんなに人を殺しそうな目つきしてるかな?」
「えっ?」
「小学生の時にさ、言われたことあるんだ。おまえは目つきが悪いって。いつかそれで損をするって。担任の先生から」
「ひでえ教師だな」
「クラスメイトからも、殺し屋とか言われてた」
「何だよ、それ」
「冗談なんだろうけど」
「冗談に決まってんだろ」
お、キタノが怒ってる。かつてぼくの身に起こっていたことに対してキタノが怒ってる。
嬉しくてきゅんとしている場合なんだけどそんな場合じゃない側面もある。それが、今だ。どうだ、複雑だろう。

「そうだ、キタノ、今スマホ持ってる?」
ぼくはついに切り出した。
何事も勢いが大事だ。
「ああ、持ってるけど。なんで?」
「天気予報、確認したくて。ぼくの充電なくなっちゃってて」
「ああ、そういうことなら。ほれ」
さすが、キタノは良い奴すぎる。
さほど喋ったこともない一介のクラスメイトにスマホ手渡せるなんて。お気に入りも履歴も清廉潔白なんだろうな、スポーツニュースとかファッション関係の記事とか、どうせそんなんばっかだろ。正直、キタノの履歴は見てみたい。だけど今はそんなことに費やしている場合ではい。
ぼくは、可能な限りテンション高めにして、キタノから受け取ったスマホを掲げた
「うおーっ、すげえな、この機種。最新型?」
「え……。ミナミ、なんかいきなり人格変わった?機種、だいぶ前のだけど」
「ぼく、これ狙ってたんだよね。あー、でも、いいなー、やっぱこれ、いいよなー、触り心地がレア」
「……そうか?そんなふうに考えてこともなかったけど。普通じゃねえの?」
「まったく普通じゃない。控えめに言って最高だよ。LINEの画面確認して良い?ほら、一番よく使うアプリだしさ。操作性とかチェックしたいし」
自分が意外とさくさく行動できているなと思った。
後から思えば、この時はもう精神状態がまともではなかったのだ。普通レベルの緊張通り越してかなりハイになっていた。
トーク一覧から素早く自分の名前を探し、画面を開く。
あった、一時間前にぼくが『誤送信』してしまったメッセージ。
このままサクッと削除してしまおうと思い、そうした。
少しぐらい不審に思われたとしてもそれは意味のある不審だ。とにかくこれさえ消してしまえは証拠は残らない。
削除。
よし。
いくつもの奇跡が重なった結果、無事に目的を果たしたぼくはきっとクラスの誰にも見せたことのない爽やかな笑顔でキタノにスマホを返しただろう。
一仕事終えた気分だった。
これから先の人生でこれほどの達成感はもう味わうことはないのじゃないか。今夜は安眠できそうだ。

キタノが、突然、笑い出した。
「え?何?」
つられて笑いそうになるくらい、可笑しそうに。
「ミナミ。あのさ、未読アイコン消えてたの気づかなかった?」
血の気が引いた。
血管が一気に収縮し、表情がガチガチに強張るのが分かった。
「あー、スクショ撮っといてよかったわ」
硬直するぼくの手からスマホを受け取ったキタノが、その画面を見せてくる。

キタノへの想いを綴った文章だった。
いつも相談にのってくれている、口の硬い幼馴染に送信するつもりだったものを。
入学式で席が前後だったというそれだけでLINEで繋がって、それ以来一度も利用していなかったのに。
キタノのことばかり考えていたから、キタノ本人のトーク画面で送信を押してしまった。
うっかりという言葉じゃ済まされない大罪だ。
ぼくではない、悪魔の仕業。

さっき血の気が引いた全身に今度は鼓動が大きく響いてくる。
キタノが画面を揺すってニヤニヤした。
「こんな秘密、おれ一人じゃ抱えきれないから、誰かに見せびらかそうと思ってさ。モテる男はつらいよ。そういえば、ミナミがこの神社に来たのって偶然?」
喉が絞られたようになってまともに声が出ないので、こっくり頷いた。
へえ、とキタノが声を上げる。
「すごい偶然だな!」
「……」
「ミナミも驚いたかもしれないけどこっちだって相当驚いたんだよ。明らかに誤送信だけど内容がおれに関することだろ。そんで、しばらく画面眺めながら思案してたら、送った本人がどこからともなく現れて自転車で見事につっこけるんだもん。ギャグかよって。はじめはこっちがからかわれてるのかと思ったけど、ミナミの様子見てたら、それは無さそうだって分かったし」
「……」
「さっきからすごい積極的に話しかけてくるしさ、びっくりした。ミナミってこんな奴だったっけ?って、なんか、新鮮だった」
「……め……さい」
「面白いし、もっと絡んでみたいなとか思って……、ん?何か言ったか?」
「……ごめんなさい。ごめん。もう何ともない」
「……。何ともないって、何が?」
「キタノのこと好きとか書いてるの、何ともない。もう、それ、嘘。今から嘘になったから」
「……。何それ。何で?おれに、バレたから?」
「……ごめん」
俯いていても、キタノがぼくを見ているのが分かった。ぼくはますます項垂れた。恥ずかしかった。行き過ぎた憧憬が文字として読まれてしまったことも、最初からキタノは分かった上でぼくの言動を面白がってたこととか、そうと気づかず姑息で幼稚な手段を使ってしまったこと、無意味なのに確かに安堵してしまったこと、すべて含めてすべて丸ごと恥ずかしかった。消えたかった。ほんとに、ほんとに。どこかに自分を消すスイッチがないか。
ぼくは詰んだのだ。
人生、終わった。
まだ十六だぞ。いや、もう十六だ。
目に涙がにじんできた。
ああ、最悪。
キタノが深くため息を吐くのが聞こえた。
この展開で泣くとか、すこぶる最悪だ。
始業式が来ても学校に行けない。
ぼくは帰ったら二度と部屋から出ない。
そしてそのままどんどん体だけ成長して、使えない大人になる。
おじさんになって、おじいさんになる。
妹が家を出て行って、両親が死んでも。
「あのさ」。
キタノの声で肩が震えた。
音声に反応したら無条件で謝ってしまうロボットみたいに、また謝罪の言葉を繰り返してしまう。
「完全削除したから」
ぼくは、キタノが差し出したスマホをおそるおそる受け取った。
表情をうかがうと「確認して良いよ」と促された。
確かに、さっきのスクショ画像は一覧から見当たらなくなっていた。
「見せる前にどっか転送したのかとか疑うんだったら、全部確かめていいよ。メールも、他のトーク画面も」
「いや、いい」
ぼくはわけが分からないままスマホをキタノに返した。
「見せびらかして笑うんじゃなかったの?脅迫したり、どっかに投稿したり、晒したりとか、拡大印刷したやつ黒板に貼ったり、校庭にばら撒いたりとか……」
「おれ、そんな嫌なやつ?殺し屋って言われるよりキツイかも」
「あ、ごめん」
「その、ごめんってやつ、もう無しな」
「ご、ごめ、あ、うん」
キタノが立ち上がった。
ぼけっとしたまま、その背中を見上げる。
「おれ、共有したくない派って言ったよね。今それすごく実感してる。見せびらかすとか、無い。だって、もったいねえもん。そうそうないって」
「え?」
キタノは何の話をしているんだ?
独り言か?
「花火大会、行くよな?」
「え?」
「行、く、よ、な?」
「あ、はい、行きます」
「……断られなくて良かった」
しまった。
つい計画になかったことを返答してしまった。
てか、行くって言ってもお前と一緒とか聞いてない。ついさっきまでなんとか派って言ってなかったっけ?
混乱やまないぼくを、キタノが振り返った。
「さっきミナミが笑った顔。あんなに可愛いなんて思わなかった」
笑った顔?可愛い?
笑ってるのは、おまえだろ。キタノ。
いつも、それが、ぼくじゃなくても。
誰でも、どんな話でも、そつなく。
「俺の家、実はすぐ近くだから。パンク修理してやる。それからでも間に合うだろ」
「え?」
ぼくの返事を待たずにキタノが自転車を押し始める。
「ん?うん?」
ぼくも立ち上がってキタノの後ろをのろのろ歩き出した。
流されっぱなしだ。
でも、そもそもこの流れはぼくが作ったものじゃないか。せめてそう思わせといてくれ。それだけは。
傾き始めた陽の射す鳥居をくぐる時、ちらりと境内を振り返る。
ここ、もしかして、すごい神様いるんじゃないのか。
「行くよ、ミナミ」
「あ、はい」
「敬語、やめ」
「あ、うん」
生まれて初めての花火大会の日だって、今日ほど幸せではなかったに違いないのだ。

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【小説】野良猫の詩

この人、きっとぼくを拾うだろうなあ。

ひとりに飽き足りた目をしているもの。着こなしたスーツ。ひとつひとつの仕草がさまになってる。嫌悪感を抱かせない顔つき、表情。かっこよくて優秀で誰からも指図されたことがなくて憧れられるばっかりで。そしてそのことを一度も責められもしないで生きてきたんだろうなあ。いるよね、持っちゃってるの。産まれながらに備わってるの。そういう人種の最大の悲劇は共感者のいないこと。優しさも思いやりも裏があると思われちゃうんだよね。うん、うん。じゃあ未知だよ、未知。ぼくが新しい扉ひらいちゃうかもね。自分の血とかちゃんと見たことある?まあ、こんな完璧な人間を傷つけようとする輩はいないか。たとえばさ、差し出した料理を皿ごとひっくり返されるとか、おまえだけは許せないとか理不尽に除外されるとか、自分の持てるすべての資産能力なげうっても満足してくれないやつがいるとか、そんな経験ある?ないよね。それ全部全部叶えてあげるよ、これからは。手加減なしだよ。邪魔のない世界には飽きたんだよね。そんな顔だよ。簡単に許されることに、何をしてもしなくても受け入れられることに、疑問を抱いてもらえもしないで、そこにいるだけでいいと言われ続けた暮らしも、今日で終わるね。明日から引っかき傷だらけの毎日が始まるんだ。そうでしょ。それしかないでしょ。生きていくために必要なんだよ。誰にも言えなかったよね。罵倒されたかったし裏切られたかったよね。みんなのじゃなくて誰かの特別になりたかったよね。なんなら足蹴にされたかったし顎で使われたかったよね。濡れた毛を乾かしてあげたかったし傅きたい日もあるでしょ。そうでしょ。それ全部全部叶えてあげるよ。初めて満たされるよ。かわいいって、いとしいって、そんな気持ちで毎日はりさけそうになるんだよ。

うん。
この人はきっとぼくを拾う。
きっとじゃない、絶対。

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【小説】不機嫌の理由

たとえば他人を愛すると決めたらとてもらくになった。薬みたいだな。決めたんじゃなくて認めたせいかもしれない。言葉足らずで悪人だろうか。それでもちいさなものだろう。あさはかだと笑うだろう。嘘ばっかり。

おまえはそれほど強くない。だけど、ぼくに見破られて立ち直れないほど弱くはない。でもやっぱり頑丈とまでは言えない。たとえば朝にスープを飲める生活、夜がふければベランダで涼みながら煙草をすっていられる生活なんてものを与えてやったら、だめになる、なんてもんじゃない、生きていけなくなる。

そんな日々に埋もれて平気でいられるほどタフじゃないだろ。だから欲しがらない。これがあざといと言うんならそうなんだろう。ぼくの行動はいつも意図的なものばっかりだし。因果を推し量ってものを言うし。

かんたんに救われないで。安らいだ寝顔を見せないで。幸せだって言わないで。終わりが透けて見える。一緒に落ちてくれないと嫌だ。終わりが遠ざかるまで。

パラソルがひとつ、青い空に吸い込まれる。

もっともっと遠ざかるまで。
幸せだって言わないで。
平和とか永遠とか使わないで。
今だけ、ぼくたちにとってはいつだって今だけなんだ。
それを忘れてしまいそうになるから、溺れさせてやらない。
ぼくがいつでもいなくなれることさえ覚えてられないんなら、笑顔なんか見せてやらない。

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【小説】ゆめやうつつや

(「分からず屋と小悪魔」の2人で)
ゆめやうつつや

終業式を終えて学校から帰ると金ちゃんがいない。
書斎、リビング、キッチン、浴室、ありえないけど庭、と探す。見当たらない。再び自分の部屋に戻ると、ポケットからスマートフォンを取り出し、登録してある連絡先一覧をながめた。心当たりは三件ほど。もっとも可能性が高いのはあいつの家だ。今日、学校で会った時はそんな素振りしてなかったぞ。だけど、いや、所詮はそういう奴だ。数度目のコールの後、相手が応答した。
「はい、コトリコーポレート。何かお困り事でしょうか?弊社ではお客様のご要望に合わせて多数の良質なソリューションをご用意しております。庭の草むしりから愛犬のお散歩、平穏な家庭の存続を揺るがす不倫問題から国家機密に関わる重要案件まで何なりとご相談くださ、」
「金ちゃん」
慇懃な物言いを遮ってそれだけを言う。
しばらく沈黙があった。
「はい?何とおっしゃいました?」
「金ちゃん返せさもないとぶっ殺す」
今度は間髪入れず笑い声が返ってきた。
しかも長らく止まるところを知らない、こっちの神経を逆撫でするような引き笑い。
「学校一の優等生が本性不穏すぎるんだけど」
「あれさあ、ぼくの」
「え、金ちゃんいないの?」
クラスメイトであるタカナシはまだ笑いながら、いかにもしらじらしく尋ね返す。
「ぼくはあまり人に、特に同年代から馬鹿にされた経験が少ない。それはぼくの実力のためであったりそうでなかったりするんだけど、要するに慣れない反応されるとはっきり言って癇癪起こしそう」
「ムカつくってことね」
「それだ」
「金ちゃん?いるよ。おれの隣で寝てるんだなあ、これが」
その言葉でぼくはスマートフォンとランドセルを壁に投げつけるや、帽子もかぶらず玄関を飛び出した七月の炎天下。

タカナシの家は何でも屋をやっている。嘘か本当か分からないけど、殺人の請負までしてるとか、してないとか。まあ、小学生のたてる噂だから根も葉もない話だってことはままあるだろう。万が一それが事実だったとしてもぼくはぼくのものを取り返すだけだ。
いつかの時代の白亜の神殿みたいな家はどこが玄関なのか分からない。定期的に変わるから。周辺をぐるぐる回ってとりあえず見つけたスイッチを押す。めでたく正規のインターフォンだったようでぼくは室内に招かれる。
タカナシの部屋へ入るのは初めてじゃない。たけどそんなにしょっちゅうじゃない。約一年ぶりに訪れたその部屋は相変わらず整理整頓が行き届いていて嫌味なほどだ。
「ようこそ、未来のプロフェッサー、シノヤマ・マヒロ」
タカナシはそう言って両腕を広げた。
無論、無視。
タカナシはぼくのことを一方的にライバル視している。以前招かれた時は、秘密の発明品とやらを自慢されまくった。アイデアもたくさん聞かされた。その中に夢現機というのもあった気がするけど今となっては名称は定かではない。普段その人が思い描いている妄想を具現化してくれるんだとか。ただし、妄想とは大抵後ろめたさを伴う。そのために使用を控えられては発明する意味がない。よって、妄想をあまり的確に映し出さないよう自動調節機能も付いているらしい。仕組みについては真面目に聞かなかったから分かっていない。とにかく、おせっかいなのかそうじゃないのか曖昧なその機械が完成間近だと言うので特に熱弁されたから、比較的記憶に残っている。
果たしてタカナシのベッドには金ちゃんが寝ていて、ぼくはひとまず安堵する。
「何がしたいわけ?」
遅ればせながらぼくの怒りを悟ったタカナシは広げたままだった両腕を下ろし、申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「父ちゃんからモデル準備しとくように言われて」
「やっぱり、そうか」
タカナシの父親はコトリコーポレーションの代表取締役でありながら、プロのカメラマンでもある。フェチシズムをテーマにした写真が多く、海外で個展を開くこともあるらしい。ことあるごとに金ちゃんを起用したがって、一言で言うなら煩わしい。そりゃあぼくだっていろんな金ちゃんを見たいさ。だけどそれは他人のフィルターを通したものじゃない、断じて。少なくとも、今は。
「そうそう。父ちゃんな、最近は暴飲暴食の光景を撮りためてるんだよ」
「ぼういんぼうしょく」
「金ちゃん上品な気配のする美人だろ?そういう存在が髪の毛振り乱しながら骨つき肉にかぶりついてるとかさ、そのギトギトした肉汁が陶器みたいな肌質の肘までタラタラーっと流れてんのとかさ。はたまたもっと露骨にグロテスクな感じで得体の知れないどろっとしたものを口に運んでチラッとこっちに流し目送ってるのとかさ、そういうの撮りたいわけ。適役だから」
「待て待て。意味がわかんない。いや、意味はわからなくていいんだけど」
「父ちゃんを代理してまとめると、即ちエロス」
「だからって金ちゃん勝手に連れ出していいことにはなんないだろ」
「え?マヒロの家からは了解もらってるって話だったけど」
「マジかよ。また母さんかな。金ちゃんを有効活用することが大好きだから。そこはぼくにも話を通して欲しいのにな」
ぶつぶつぼやいていると、
「まあ、実質所有者はマヒロの母ちゃんってことになるのかな。金ちゃんはおれが電話で呼び出して、父ちゃん来るまで待っててもらおうと思ったんだけど、寝ちゃった」
信じらんねえ。
ぼくのいないところで。
ぼくのあずかり知らないところで。
誰でもない、金ちゃんに対して苛立つ。
ぼくが同じことをしたら金ちゃんは質問攻めにするくせに。なぜだ?って。
なぜだ、なぜだ、金ちゃん、なぜだ!
深呼吸を繰り返して何とか気持ちを落ち着けたぼくは、金ちゃんの眠るベッドの傍に跪いた。
すよすよ安らかにお眠りやがって。この、この。
タカナシが悪の手先だったらどうするんだ。この分からず屋め。ばか、ばか、寝顔もきれいでかっこいいな、くそ。
恨めしい思いでその髪の毛を指先に巻きつけて軽く引っ張るなどしていると、睫毛が震えて覚醒しそうになるけど、たちまち睡魔に引き戻されていく。
「へんな薬でも飲ませたんじゃないの」
顔を合わせずタカナシに言ってみるが適当にはぐらかされる。
二十分ほどそうしていると家の中が騒がしくなったように思え、振り返ると部屋の入り口にガタイのいいヒゲ面の男が立っていた。タカナシの父親だ。ベッドの上の金ちゃんを見つけると「おお、おお」と謎の呻き声を上げながら近づいてきたが手前でぼくの存在に気がついた。
「おお、篠山さんのところの真尋くんだね。大きくなったね」
「こんにちは。お久しぶりです。おじゃましています」
「君も、見て行くかい?そろそろ薬も切れる頃だろう」
やっぱ盛ってんじゃねえか。
ぼくの不満に気づいたヒゲ面が「大丈夫。美と健康には害がない」と意味不明なことを言う。誰もそんなところの心配をしていたわけじゃない。
悶々していると、金ちゃんの瞼がゆるゆると持ち上がった。操られているみたいなぎこちない動き。見慣れた赤い瞳が金魚の尾鰭みたいに頼りなくふるふる小刻みに震えた後、ゆっくりと焦点を結ぶ。普段の動きをスローモーションで見ているみたいに、それはいつもの金ちゃんでありながらまったく新しい金ちゃんだった。
金ちゃんが非常にゆったりとした動作で上体を起こした頃、ヒゲ面はネクタイの裏から甲殻類を取り出した。
昆虫のような、水辺の生き物のような。シーツに放り出されたそれは、まだ蠢いている。金ちゃんが摘み上げて舌ですくい上げるように口の中へ。ろくに咀嚼せずほとんど一気に丸呑みする。喉仏が異様な出っ張りを繰り返すのを見た。
お次はシャツのポケットから、何やら黒い果実。両手で割ると透明な粘液とともに小さな種が無数に溢れ出す。金ちゃんは一粒も残さないよう舐めとる。だけど液体の溢れかたが速くて間に合わない。ベッドから降りて床に這いつくばる。金ちゃんはまだ眠そうに瞬きを繰り返す。それもヒゲ面が言っていた薬の影響なんだろうか。
開け放たれたドアの向こうからは一頭の獣が現れる。毛が白く、額には真っ直ぐなツノがあって、作り物なのか幻なのか分からない。剥製めいている。金ちゃんが手を差し出すとそれは思い出したように逃亡を図る。だけど金ちゃんの手はもうすでにそいつのツノを固く握りしめていて、首筋に噛み付かれてしまう。ああ、そうだ、ぼくは忘れていた。金ちゃんのやっていること。獣の体は己の流した血で染まっていく。金ちゃんは勿体無いというふうにそれを吸い、さらに噛み付き、舐めまわし、口を開けてかぶりつく。ぼくは自分の喉が鳴る音、心臓の音を鼓膜のすぐ近くで聞いた。金ちゃんが手の甲で乱暴に口をぬぐい、舌舐めずりをする。その瞳はいつも以上に色彩の濃さを増して、視線に捕まりたくないと思う。なぞられたなら、爪の先で引っ掻かれたみたいに痛む。金ちゃんが腰を折ってぼくの肩に額を寄せる。何事か囁かれる気がして耳を澄ませると、血混じりの唾液の粘り着く音と、首筋に穴の空いた感触が、した。甘美というには鮮烈で、痛みと言い切ってしまうにはただ恍惚に過ぎた。一瞬でだめになる感覚があった。ぼくは怖くなった。金ちゃんの背中を叩いて引き剥がそうとしたけどびくともしなかった。膝を折りながら金ちゃんから離れようとするけど追随は振り切れなかった。ぼくはヒゲ面の構えたカメラのレンズが金ちゃんだけでなくぼくの表情や一挙一動を逃すまいと見張っていることに今更ながら気づいて鳩尾から苦しくなる。
急激な吸い上げのせいに違いない、一時的に血液の出が悪くなった場所を金ちゃんの舌が今度は優しく圧迫してくる。ぷっくり盛り上がった穴の周囲を揉みしだくように円を描いて、懐柔でもしようとしているみたいだ。もしかしたら声が出ているのではないか。ぼくはいつしか金ちゃんにしがみついていた。自分が訴えかける声を聞いていた。こんなのは自分じゃない。そう考えようとしても現に感じることは偽れなかった。すり替えられなかった。
シャッターの音が近づく。タカナシが笑う。笑っている。大人みたいに。間隔が狭くなる。それはやがて雨が窓ガラスを叩きつける音になってぼくを現実に引き戻す。

しまった、寝ていた。

金ちゃんは頬杖をついて窓の外を見ていた。
念のため起き上がって今いる場所を確かめる。
大丈夫、ここはぼくの部屋だ。ぼくのベッドの上だ。大丈夫、もう大丈夫。
タカナシ父子も、カメラのレンズも、謎の甲殻類や溢れ出す黒い果実、ツノの生えた生き物なんかも、ここにはいない。気配もない。
「たくさん雨が降って、気温が下がると良いな」
外を向いたまま金ちゃんが言う。肩にかかった髪の毛の束のいくつかがさらさらとこぼれた。きれい。きれいすぎる。
これは、妄想じゃないよな?
「あついから」
振り返るまで安心できなかったけど、それはぼくの知ってる金ちゃんだった。
「金ちゃん、今日、ひとりでどこかへ出かけた?」
「いや?なぜだ?」
「ううん、なんでもない」
「ずっとここにいたぞ」
「うん、知ってた。だめだよ。勝手に秘密をつくったら」
「理解した。ところで、明日から夏休みだな」
「え?ああ、そうか」
「マヒロと過ごせる時間が長くなることは嬉しい」
金ちゃんを見やる。
白い。
赤い。
何も変わっていない。
「今まででいちばんいい夏休みにするぞ」
金ちゃんは暑さにめっぽう弱いくせに、はりきって言う。きっと頭の中はクリームソーダのことでいっぱいだろう。夏と言ったらクリームソーダ。それは他の季節でも変わらない。金ちゃんは目移りするということを覚えない。バカのひとつ覚えみたいに、クリームソーダクリームソーダクリームソーダって。そのうち髪の毛も目も色が変わってしまうぞ。そうしたら、そうしたら、もう遊んでやらないからな。
まあ、いいか。
ぼくは頷きながらもう一度ベッドに体を倒す。
目を開けたら金ちゃんが別人みたいになっているかも知れなくて、ぼくがその考えを捨て切れないせいで、会話はそれ切り。
夏の午後、昼寝なんてするもんじゃない。
これだけぼくをおびやかしておいて一個も罪のない金ちゃんがどこまでも恨めしかった。

タカナシのろくでもない発明品なんか、そのうちぶっ壊してやる。

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