小説『やみつき』

このシリーズの話

おまえは心臓の上に手を置くのが好きだねと言った。

え、なに?
心臓。
うん。
心臓の上に、手を。
うん。
置くの、好き?

「好き。すごい好き」
「いやそんなに真顔で」
「ほんと好きだから」
「べつに良いんだけど」
「分かる?心臓はすごいんだよ。命なんだから」
「あ、うん」
「止まったら悲しいな」
「そう?」
「悲しい。特にハレの心臓とかが」
「じゃあ止まらないように毎日ちゃんとおれを甘やかさないとな」
「そうする」
「今のツッコミ入れるとこな」
「そう?」
「うん。でももう良いよ」

この男がこんなに甘えん坊やだったと高校生だった頃のおれは知らない。授業中はいつも寝ていて、放課後が近づくと起きてる時間が増えて、帰りに靴箱で見かけた時にはもうすっかり目が覚めたみたいな顔してた。

母親と、三つ上の姉と、飲み屋を経営していた。買い出しと掃除は小さい頃からやってたらしい。やがてカウンターに入るようになって、お酒をつくるようになって、バイトで貯めたお金で独立して自分の店を持って、なんか知らないが高校の同級生と付き合うことになって今に至る。同級生というのはこのおれだ。もちろん。

おれの高校時代は薔薇色に輝いていてそれは、まあ、高校以前も高校以後も変わらない。比較的いや結構外見に恵まれたおかげでそこそこ良い思いをしがちで、この男、ジウのことはどっちかっていうと同情の対象にしていたくらいだ。それがなんでこうなるかなあ。人生何が起こるか分からない。つくづく。

「ハレの心臓をさわってると安心する」
「それはどうも」
「おまもりにして持ち歩きたい」
「それは勘弁」
「ハレはかわいい」
「よっしゃ」
「ハレはかっこいい」
「ありがとう」
「ハレはおれのすべてだよ」
「考え直せ」
「ハレは、」
いつ来るかなと思っていたら今来た。
「ハレはおれに何も、言ってくれないの?」
心臓が跳ね上がったことは伝わってるだろう。笑ってくれないから誤魔化すことができない。

おれにいつも寡黙さを笑われる男は、本当は雄弁で、おれをいかに大切に思っていていかに好きかということを伝える言葉は尽きない。ふだん口数で圧倒するおれも、その点では完敗だった。それが不満なんだ。

「えーと?」
「ハレも言って」
「ジウは、えーと、そのー」
「うん」
「あー、うー」
「早く」
「くそ、言いづらいな」

大きな手が首元に伸びてきて命が縮み上がる。

「ジウは」
「うん」
「その」
「うん」
「まあ、ええと」
「うん」
「……かっこいいと思う」

これは何だ。この気持ちは何だ。ものすごく負けた気がする。勝ち負けじゃないのに、負けた気がする。相手へ素直に伝えることが負けなら、おれはいつも勝ってるのに。たった一度の敗北がこんなに尾を引くとは。あなどれない。

「ありがとう。一生大切にする」
「……んな大袈裟な……」
「思ったままを言ったんだ。いつもハレがおれにそうしろって言うから」

こいつは時々確信犯なんじゃないかとさえ思う。悔しいので心臓に手をあてる。ジウのそれはおれのよりずっと熱くてずっと確かで、ああ、おまえが病みつきになるのも頷けるよ。