【小説】良い匂いのする朝〜side A〜

【小説】良い匂いのするのアオイさんサイド。

(ああ、私は、なんてワルイオトナの顔をしてるんだろう。)

洗面所で一人になって、鏡に映った自分の頬をかるくつねった。

「大丈夫、守る」。

そう言ってくれたリツくんが頼もしくて、年上の威厳を取り戻したくて、柄にもなく額にキスなんてしてしまった。つい。出来心で。頬が熱くなった。気取られてないことを祈ろう。

これはやってしまったな、と思っていたら、キョトンとした表情を浮かべたリツくんは急に敬語に戻るものだから、かわいいったら無い。きっと無意識。

私はリツくんが頼りなかった頃だって知っている。頼りなかったというか、危うかった頃だ。平気そうに見せて、薄いバリアを隙間なく張っていて、そのくせ私に対してはこっちが不安になるくらいさらけ出してきた。

好き。ほんと好き。大好き。たまらなく好き。だから僕を受け入れて欲しい。だからあなたにもそう感じて欲しい。お願いだから。助けて。

言葉にしなくてもそんな思いが伝わってきて、苦しいくらいだった。

最初は「すぐ冷めるだろう」と高をくくっていた。結論から言うと、その熱は数年たっても下がらないばかりか、年々少しずつ上昇して、ついに私は折れた。彼も成人して、まあ、もういいか、みたいに思ったのだ。ていうかこの子、大丈夫だろうか。私みたいな年上に、すべてを投げ出してしまうようなことをして。もし、私が、悪い大人で、君を利用してやろうだとか、ひどくしてやろうだとか、そんなことを考える輩だったらどうするつもりなのだろうと、当事者であることを棚に上げて彼の将来を案じた。

だから私は自分がリツくんの懇願にイエスと返事したとき、「あ、すごい。」と思ったんだ。当事者であることを再び棚に上げて言うと、「諦めずにいたら想いは届くものなんだ」とか、「こんなに長い片思いが実るその瞬間に、居合わせてしまった」とか、なんだか祝福したいような、今までよく頑張ったね努力が報われたね、おめでとうリツくん、と言いたいような気持ちになった。

彼ほど私を大切にしてくれる人は今後現れない気がする。こんな考えは、最愛のさなかにいる、危機管理に乏しい惚気に過ぎないだろうし、実際こう感じていた恋人同士が破局に至ったケースなんか、それこそ星の数ほどあるだろう。だから確かなことは、目の前の現実だけ。リツくんと暮らして、寝て、食べて、言葉を交わして、お互いを案じたり労ったりする、この現実だけ。

顔を洗いいくらかさっぱりした気持ちで洗面所を出ると、ベッドの上からリツくんがそれはもう熱いまなざしを送ってくるので軽く頭を振った。

万が一にもあのスペースに戻りたくなってはいけないと、なるべく目を合わせないようにしつつ、弁当のおかずづくりに取りかかる。メインの肉料理は昨日のうちにつくっておいたので、今朝のフライパン料理はだし巻き卵だけ。

こん、こん、ぱかっ。

「あ」。

黄身がふたつ。
リツくん、と口を開きかけた私は、彼がふたたび目を閉じていることに気づいてやめておく。
ギリギリまで寝かせておいてあげよう。

ふたつの黄身をひとつに混ぜ合わせて、このささやかな奇跡が君の舌を喜ばせ、胃袋におさまり、また今日を健やかに生きられますようにと願いながら私は、熱したフライパンに思いの丈を流し込んだ。