小説『この甘さに対抗しうるもの』

このシリーズに出てきたハレが幸せを噛みしめるだけの小噺。甘め。

仕事が早く片付いた今日は久しぶりに定時で上がった。取引先から連絡が入る予定も特に無し。同じ部署の同期から飲みに誘われたが「やめとく」と即答すれば「オンナ?」とからかわれる。オトコ!と元気よく答えて会社を後にした。

とは言ったものの、帰宅したところで二人の時間が長いわけじゃない。おれは昼の仕事だし、あいつの店は夜に開く。土日は休みを合わせてくれることもあるけど、変則的だ。どうせ今日も入れ違いだろうなーと思い、途中ケーキ屋に寄って帰った。誰もいないであろう空間に向かって「ただいま」と言いながら玄関に入ったおれはピコン!と音がしそうなほど反応した。何にかって、あるはずのない革靴にだ。ラッキー、間に合ったのか。

「なんだ、まだいたのかよ」
リビングに入ってその姿を確認したおれはわざと素っ気ない声を出す。
仕事終わりのおれがあまり嬉しそうにすると、こいつのモチベが下がるかも知れないから。
「おかえり。それ、ケーキ?」
クローゼットからシャツを取り出したジウは、おれのほうをちらりと見て言った。
「ただいま。てか久しぶりに顔合わせたおれよりケーキかよ」
「うん。あんまりハレ見てるとたぶん店行きたくなくなるから」
真顔で言うんだから困ったものだ。
「ケーキって、何か特別な日だっけ?」
「普通の日。久しぶりに定時に上がれたおれ偉いおめでとうケーキ」
表情筋が緩むのを見られたくなくて「やんねーから」と背を向けた。
「隠さなくても、とらないよ」
背を向けたせいで、ジウの苦笑を見逃してしまう。好きなのに。あの顔おれすっごい好きなのに。
「甘いものだけじゃなくて、ごはんもちゃんと食べろよ。野菜も。冷蔵庫にサラダ入ってるから。あと、作り置きおかず足しといた」
「おまえはおれのお袋かよ」
「いや?でもハレなら産みたいかな」
「意味わかんね」
「おれもだ」
冷蔵庫にケーキをしまったおれは、手持ち無沙汰になってしまい、姿見の前に立って身だしなみを整えているジウの姿をまじまじと見た。まあ、見たって良いだろう。なぜなら付き合っているから。こいつはおれのものだからだ。

(はあ?何おれの彼氏?すっげーカッコいいんですけど!おれよりカッコいいとかまじありえねーんですけど!完璧!好き!!)

「あ。ジウさ、明日休みだよな?」
「うん」
「どっか行く?」
「ハレがいるならどこでも良いから、どこも行かなくても良いけど」
「こっわ。外出する理由が会社だけになんじゃん」
「べつにかまわないけど、ハレはどこか行きたいとこあるの?」
「おれはね、ベッド買いに行きたい!」
ベッド!と繰り返しながらスプリングを鳴らした。
「…なんで?」
問い返してきたジウと鏡越しに目が合う。
「は?だって狭いじゃんよ。男二人で寝るとさ。だから、今の3倍くらいでっかいの買おうぜ。そしたら寝返り打っても大丈夫だろ?」
「部屋の半分がベッドになる」
「だとしても、寝苦しくなくて良いじゃん」
おれがベッドを新調したい理由を挙げていくうちにジウの眉間の皺が深くなっていく。
「何その顔。何がご不満?」
おれはベッドに腰掛けたまま腕組みして片足を組んだ。
身長では負けまくってるけど口では負けねーから。
こてんぱんに言い負かしてやるからな。
受けて立つ気でいたおれは、歩み寄ってきたジウから抱きしめられた時にもまだ踏ん反り返っていた。
「ハレがそんなふうに考えてるとは思わなかった」
「…?」
「気づかず、悪い。でもおれは、この狭さが良いなと思っていた。ハレに寄り添ったり、触ったりすることにいちいち理由が要らないから。買い替える必要のないくらい、素敵なベッドだと思う。だから、その案は却下」
「ちょ、ギブギブ。背骨きしんでる」
やっと体を離したジウは、ぽかんとしているおれを見下ろして困ったように笑った。
「その顔好き」
「え?」
「ジウの笑ったとこ。へたくそ」
「そう?笑ってた?」
「気づいてねーのかよ。もう、おれのこと好きで好きでかわいくてかわいくて仕方ない!みてーな顔してんだからな。気づいてねーとかこっちがしんどいんだわ」
「ふーん。じゃあ、お互い様だな」
ジウに指摘されたおれは、あわてて自分の両頬を手のひらで包んだ。
何の効果もないであろう、遅すぎるカモフラージュはかえって仇となる。

「出勤前にシメハレしていい?」
「は?なんて?」
「シメハレ」
「は?しめはれ?」
理解できないおれに構わず、ジウはもう一度ハグする。
「おい、シワになんぞ。シャツ」
そう言うおれも口先だけで、姿見に映ったジウの背中と、その肩にのった自分の表情を他人事のように見ている。
ああ、おれ、あんな顔してるのか。
「締めのラーメンとか、締めのご飯とかあるだろ?」
「あー、うん?」
「これで今日は最後にする、ってやつ」
「うん」
「最近は、締めパフェとかあるらしい」
「聞いたことある」
「それのハレ版。シメハレ」
「うん?」
「今日のハレは最後だから」
「うん」

なんと相槌したものかと唸ってるうちに家を出る時間が来て、ジウはさっさと気持ちを切り替えて玄関に向かった。

「念押しだけど、ベッドは却下な。パフェ食べに行こう」
「えー、土曜日に?パフェ?男二人で?」
「嫌?」
「うーん?べっつにー」
ぼんやり承諾するとジウの背筋が伸びたように見える。
わかりやすいやつめ。…いや、お互い様か。

「じゃあ、行ってきます」
「いてら」
「帰りは3時くらい」
「りょ」
「おれが出たら戸締りちゃんとして。変なやつ入れないで。居留守使って良いから。あと、靴脱いだやつ並べて。ケーキ食べてもいいけど寝る前に歯磨きしろよ。それから、」
「あーもー、ハイハイ。全部分かったから」
「それから、寝るときはお腹出すなよ。風邪引くから」
「だからお袋かよって」

ドアが閉じる音を聞いてしばらく後、おれはのろのろ立ち上がった。あいつの気配や体温が残っている部屋を横切り、冷蔵庫の前に立つ。さっき入れたケーキを取り出して、皿もフォークも使わずに食べ始めた。

甘いものには甘いもので蓋をせねば。
尾を引く甘さには糖分で対抗せねば。

あむあむ頬張るおれの脚に、長い眠りから覚めた柔らかな生き物が背中を擦り付けてきた。

「お、サニー。なあ、やばくない?おまえの御主人おれにメロメロなんですけど」

猫相手にひとしきり惚気た後、口の端についた生クリームを舌先で舐めた。

こんな甘さじゃ何も消せない。