no.260

退廃にすがる郷愁。打ち捨てたものが新たに芽吹いて壁を成している。僕たちに提示されていた道はひとつひとつ静かに閉じ、この道は先細りになっている。歩くために歩いている。脇を結晶のような骨が散り落ちて行く。まともを保っていられない友人がでたらめに発言を始める。審判は惰性で烙印を押してゆく。鴇色。浅葱。群青。紫。それは遊戯にも似てまさか一生を揺るぎなく決めつけるものとは誰も気づかない。口唇に色を刷いてもらって子どものように微笑む。あれはもう駄目だ、これももう駄目だ。己を律しながらどこを目指しているのかさえ分かっていない。昨日見た夢で男が車に轢かれるのだった。汚れた犬を庇うために。しかし命までは落とさなかったのだ。傍観者たちは恩寵だと安堵したが、彼らのうち誰一人として気づいていなかったのだ。彼は犬の代理に死んでしまいたかった。他に堂々と消滅する術がないから。道路に飛散した檸檬の汁が涙を溶かす。不純だと言って。罰当たりだと言って。少しだけ脇目をした。僕は歩き続けている。どこにも留まりたくない。誰のものにもなりたくない。そのくせこんな自分がただ自分だけのものであることも恐ろしいのだ。指を詰めて解放される世の中だったなら。僕は健やかで明日もきっと美しいだろう。頬は赤く肌には張りがある。髪は黒く瞳はいつも濡れて光っている。譲ることができない。放棄することができない。どこまで分け入っても生がある。亡者が羨望の青白い目を向けてくる。振りかざすアルファベット。切り上げる特殊文字。核心はつねに隠して。引き裂くベール。贈られない手紙の嵐。一羽だけしつこく命乞いする鳩があって僕はそれには容赦がない。積み重ねてしまった爆弾をどこから切り崩せば良いのか分かっていない。もう嫌だ嫌だと思っているのに、表情は柔らかく誰にでも優しい。とっくに壊れているのだ。誰も見抜けはしなかった。横切るは褐色の肌。伸びきった前髪の間から爬虫類の体面のような瞳が覗いている。その子が現れるまでは。僕の初恋は蛇だった。そう幼いわけでもないが言葉を知らない魔性の蛇だ。

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【小説】カラフル

人の好きなものをとやかく言う筋合いはない、誰にだって。
そんなことくらい分かっていた。つもり、だった。
年の差も性別も関係ないことは百も承知で実体験としてあったから、条件によって阻止されるという感覚が分からなかった。
たくさん揃っていると思っていた。だけどそれを求めていない奴もいるんだって、俺が持っているものに心底興味がない奴もいるんだって、思いもよらなかった。
どんな集団だって俺が少しでも不機嫌を気取って鼻を鳴らせば密かに、でも確実に、気にかけるのに。
あれは、俺に、なびかない。

教室の隅の席で短い鉛筆を懸命に動かして何かを書いている。通りすがりに盗み見ようとしたことがあったが、あれが顔を近づけすぎているせいでかなわなかった。恐ろしく視力が悪いのだろう。
また別の日には取り巻きを使ってこちらに気を向かせようとあれの興味を引きそうな物を散らつかせてみたがちっとも好反応を示さない。それどころか迷惑そうな表情さえ浮かべて見せるじゃないか。てめえは何様だ?と詰め寄りたいのをぐっとこらえ、地道に観察していると、あれにも友人のあることが分かった。隣のクラスの深山と小沼田。昼休みになると三人でひそひそ笑い交わしている。ったく、何があんなに楽しいのだか。俺が近くにあった椅子を蹴ると傍の一人が耳打ちをしてくる。
「あいつらちょっとからかってみる?」。
すかさず睨みあげるとそいつは目に見えてたじろいだ。
「お、お前だっていっつも殺しそうな目で見てんだろ」。
殺しそうな、目?

その晩、俺は風呂場の鏡で自分の顔と向き合っていた。
行き交う他人から横目で見つめられていることは珍しくない。
整っているだとか美形だとかは小さな頃からよく言われていたから大衆的にそうなんだろう。だけど、殺しそうな、と形容されたのは初めてだ。
全部、あれのせいだ。
あれが、俺を眼中に入れないから。

翌朝、教室に入った俺はいつもと違う空気に気づいた。
こちらから尋ねるまでもなく数名の男女が報告のために駆け寄ってくる。
「篠原くんの席」。
「登校した時から」。
「白い絵の具が」。
「夜中に侵入したのか」。
断片的な情報が頭の中で結びつく。
まあ、そうなるな。
当の篠原は淡々とした様子で、雑巾を持って椅子を拭いている。
俺は「ふうん」と興味なさげな返事だけして自分の席に着いた。周囲がそれに倣い、ざわめきが鎮まるのが分かる。ほどなく担任が教室に入ってきて、いつもの一日が始まる。

篠原への嫌がらせは終業式までの約一ヶ月間、休みなく続いた。そのうち篠原が椅子を拭く光景は当たり前になっていき、誰もいちいち騒ぎ立てなくなった。そのことで篠原が精神的なダメージを受けている様子はなかった。少なくとも外から見ていて分からなかった。始業前には絵の具で汚れた椅子を拭き、昼休みになると深山たちと笑い合う。絵の具の色は日によって違った。二色、三色と混ざっていることもあった。前衛芸術みてえ、と誰かが囃し立てた。意味も分かっていないくせに。
退屈な悪戯の犯人さがしは行われないまま、夏休みに入ろうとしていた。

篠原に小学生の妹がいることを俺が知ったのは、終業式の日の夕方だった。
篠原兄妹が一緒にいるところに、スーパーの惣菜コーナーでばったり出くわしたのだ。
「あ?それ、妹?」と、俺。
「うん」と、篠原。
思えばこれが俺たちにとって初めての会話だった。
「はじめまして。お兄ちゃんがお世話になってます」。
「こら、黙れ」。
「えー、だってお兄ちゃんと同じクラスの人でしょ?名札にクラス名が書いてるもん」。
「そうだけど、おまえが言うセリフじゃないの」。
「なんで?」。
「なんででも」。
「ねえ、この人、かっこいい」。
「そうだろ。お兄ちゃんの中学で一番モテてるんだからな」。
「お兄ちゃん、ずるーい」。
ずるずる話し込むとこちらに悪いと配慮したのだろうか、篠原がやや強引に切り上げたから、会話はそれきりだった。
(そうだろ。お兄ちゃんの中学で一番モテてるんだからな)。
その言葉だけを神様のお告げみたいに何度も何度も何度も再生する。
この世に存在するものでもっとも美味しいものを頬張ったみたいに頬が急に痛くなってきて、鮮魚コーナーの壁面に貼ってある鏡で確認してみたところ、なんと赤面しているのだ。この俺が。この、俺が。赤面。嘘だろ。

半額シールが付いたチキン南蛮弁当を買い、ふわふわした足取りでスーパーの外に出る。
一気に重力がかかってきたように暑い。
ポケットの違和感に気づき、取り出してみる。
赤が、俺の手の中にあった。
回り道になるが橋の上に行き、川へ向かって放り投げた。それが着水するのを見届けずに踵を返した。
何が、「百も承知」だ。
何が、「揃っている」だ。
意味がない。
そんなこと、何の意味もない。
俺はまだ釣り合わない。
何が、舌打ちだ。
何が、「ふうん」だ。
何が、何が、何が。
「なびかない」だ。
あんなにまっすぐな笑顔初めて見た。
この思い、届くな。
今はまだ、届いてくれるな。
妹、おまえによく似てるな。
今度会った時になんて言えば良い。
今度いつ会える。
待ち遠しい。
分かってた。絵の具なんかじゃ満たされなかった。
分かってる。俺は空っぽだってこと。
短い鉛筆を不便に感じないほど書きたいことなんかない。
脇目もふらないほど夢中なものなんかない。
何時間でも笑い合えるほど話をしたい友達なんていない。
篠原が欲しい。
篠原になりたい。
なんだ、おまえ、たいしたことないな。
そう言ってくれ。
そこから始めたい。
残りの絵の具はもう捨てるから。
生きてきた中で一番、これから来る夏が憎い。

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no.259

証明を失って天を這う
昆虫なのか天使なのか
誰にも分からないまま

僕の夢は人を幸せにすることでした
そうは言っても
この奇天烈な姿を一度でも
目にしたものは百夜も続く悪夢を見る

なにが勇気だ、愛だ
誰もがやすやすと手に入れて見えて
いっこうに方法が分からないままなのだ

雑木林を抜けるとさらに深い森がある
本物の闇より恐ろしい生き物の住処
食糧にでもなれたらと決意したのに
気づけば頬張っていたのはいつかの骨
許せなかった血と肉それに臓器

雲のない空
斜めに横切る戦闘機
ミミズ腫れのような煙を残して
文句も言わずに

こんな自分を見せないためだったのか
森の奥深くまで僕を導いた理由は

激しい後悔をしたあとで
目が覚め以前の日常に戻る
何もかも元どおりで不気味なまま
僕だけが異様な経験を蓄えて

これで良かったのかは誰にも僕にも分からない
分からないまま地を這い、天のために生きるということ
あなたはずる賢いな
僕からまだ何もかもを奪い取ってはいないのだ

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【詩】140文字つめあわせ

祈りや幸福を願う言葉を挨拶の最後に付け足すほど大人にはなれない。ひそひそ話をされていたい。すぐに逸らせるように備えた目線で嫌悪を向けられていたい。毒も薬も必要ない。手枷のない腕と、足枷のない脚。それだけ。札の下がっていない首筋と、お互いの血のための塞がらない傷口。それだけ。

「未熟」

 

 

マリー
きみは忘れちゃったよ
遠いいつかにはしたくなかった
いつまでも今でありたかった

だけどその思いが
すでに表出した時から奴隷だった
音のしない時計にとって

マリー
きみの自由がぼくを切なくする
ぼくにないものを持っているから
そのままでいい
もう思い出せなくていいよ

「マリー」

 

 

誰かの生きられなかった朝
誰かに生きて欲しかった朝

朝を配達するのがたまに嫌になるよ
受け取ってくれない人がいる
持って行くと泣きそうな顔で
それでも受け取る人
受け取ってくれない人
受け取りたくてもできない人

朝なんか扱いたくない日もあるけど
これも僕の運命だからね

「朝の配達人」

 

 

この世の中は悲しいことがたくさんあって楽しいことがたくさんあってそのうちに分からなくなるの。平等ではなくて突然に不運でなぜ生きてるのって誰かに答えを出してもらいたくなるの。死のうって決めたらたちまち世界が優しくなって、もう少しって死ぬ決意をくじけさせた。僕が君を忘れませんように。

「翻弄」

 

 

散らばっていく火花をつかまえようと手のひらを「救う」の形にしたら水面はゼリーになった。時間は緩慢になり自分の挙動もゆったりとなった。テレビ番組でやっていたスーパースローモーション、の映像を見ているみたいな。「もしも」、僕は禁句をたやすく口にする。あの時この魔法が使えていたらなあ。

「スーパー・スロー・マジック」

 

 

どこかにいますように
その願いを裏切る気がして
今まで歩き出せなかったけど
どこに生きてたって
どうせ僕のことだ
ただ来るのを待っているんだろう
だったら僕から歩き出そう
そうすればからかって
タイミングが良ければ
笑い合うこともできるだろうから

「迎え」

 

 

君みたいになりたかった。どんなに意地悪な目で見ても悪いところなんか見つからなかった。僕ほどに。そのままでいいのに。なのに君はそう言って真似をさせてくれなかった。君みたいになりたかった。じゃ、ない。君に、なりたかったんだ。ウスバカゲロウに可哀想だねって呟いていた横顔を含めて、君に。

「同級生」

 

 

一つのディスプレイに一つの恋。二つの目で名前を探してる三つ編みの女の子。四季の荒波に揉まれながら五角形のペンダントを手に入れた。第六感は知らぬ顔で第七官界彷徨を左手に載せ人を待つ。午前八時に九度目の人違い。時は満ちた。最初からここまでを何十遍も繰り返したい。飽きもせず呆れられて。

「少女カウンター」

 

 

思い出が増えても歩き続けられるのかな。疑問に思う。君と出会ってからたくさんのごはんを食べた。たくさんのバスに乗ったしいろんな停留所で降りた。数々の風景、夜景、絶景。僕にしかない思い出の量を君もいる時間が上回ったとき、別人になっちゃわないかな。答えはまだ出せずに鼻の奥がつんとした。

「さよなら論理」

 

 

さみしさのためになんか泣きたくない。もはや涙声で君が言う。「意味わかんない」って言っていいかな。考えあぐねていると君が潤んだ目で僕のことを見ていた。「やさしいんだね。迷ってくれるなんて」。その顔のとなりで咲いている花を見た。帰ったら絶対に図鑑で調べて、いつまでも記憶してやる。

「青春の断片」

 

 

他の誰かを好きな君が僕に映って余計に世界がキラキラしてる。水面をかき混ぜる尾鰭が乱反射を作り出してる。どんな暗闇も坂道も恐れないんだね。眩しい場所で平気なんだね。僕は君をここまで引きずり落とすことができる。でもしない。その決意だけで僕は自分を謗らずにいられる。少しは好きになれる。

「日陰」

 

 

君がいつもいつも幸せそうなので僕は少し辛い。君が笑うと肋骨の中で硬い実がトゲトゲを出して柔らかい臓器とかをチクチクやる。幸せそうにしないでなんて言えない。君にとって僕は優しい聞き役にしかなれないんだから。たまには泣き顔くらい見せて。隙を見せて。そうしたら臆病な僕でも付け入るから。

「足踏み」

 

 

ナイフの先で新しいお肉をつついています。本日のランチはレモンとバジルが香っています。あなたに餌を持ってきました。私の話を聞かされている間の、隠しきれない困り顔が好き。手に入らないものを欲しがる目。踏み出せないくせに見ることをやめない。往生際の悪いこと。早くその仮面を剥いでよ。

「足踏みへの返信」

 

 

思い出の中で君と僕
永遠に流れているような夕焼け
赤ん坊みたいなトロイメライ

未来なんて知らない
これは誰かの叫び
これは誰かの流れた血

平和を祈る余裕はなく
時代を恨む暇もなく

呼吸するたびに
涙するたびに
命はその全身から零れ落ちてた

「8月6日」

 

 

お月様の雲に隠れるような夜は
捕まえたものをもう離さない
今日見た夕暮れは今日だけの特別
彷徨うだけの毎日にもうさよなら
まだだよって焦らしてばっかいないで

「おつきさま」

 

 

どんなふうに髪を切って
どんなことで泣いて
誰に笑顔を見せるのかな
これからの毎日は
何も決まってない
明日誰かいなくなっても
きみはそうと知らず
望むように生きていけるよ
優しい人が悪党になる夜に
声を持たない人が文字を見つける朝に
いつだってそうやって来た
珍しくもない命だ

「凡凡」

 

 

「それしかない」。僕にはそう言える人が羨ましかった。太陽はしばらく雲のむこうへ隠れ視界は柔らかだ。幼馴染を見上げる。まさか絶望だというのか。気づくか不安だった。「それしかない」は「それだけはある」の裏返しだということ。だから意地悪な僕は優しい言葉をかける。大丈夫、一緒にいるから。

「裏返し」

 

 

宇宙とポケットをつなぐには?あの子みたいに。ドーナツの穴に囁いたことを君にも言いたい。みんながひとりぼっちになる書架の間で。これはいつの夏だ?彷徨ってるわけでもないのに心細い。迷子って言わなければ帰らなくても良いよね。活字が血管に入り込んだから、次出る言葉はもう私のじゃないの。

「迷走図書館」

 

 

先に本音を言ったほうが負けになるゲームって誰が得をする?ばかばかしい。だけど頬に貼りつくスパンコールの鱗が邪魔をしてうまく笑えない。現在完了形、過去進行形、変えてくれるのは形容詞、形容詞、形容詞と助詞。もう少し実感したい、繰り返すことが罪になる世界に生きてるわけじゃないってこと。

「似非ホログラム、エトセトラ」

 

 

無邪気に人を邪険にして。壊れるほど乱雑に扱って。打ち消しながら爽快になって。負債を溜め込んで。死にゆくものを静かに見下ろして。絶対に助けないで。いつかあなたはこの夜を、よるをよるをよるを悔いて、汚れた手で顔を覆うの。その姿に救われる人もあるの。その姿にときめく人が今夜生まれるの。

「前夜」

 

 

ずっとあると思っているもの。ずっといると思ってる人。みんなあなたの思い込み。願い、希望。いつだって壊れるしいなくなる。縛ることはできない。復活は為されない。だけど知らなくていい。知ったとしても怯えなくていい。無邪気が一番。何も分かってなかったと悔いるところから産まれる物語もある。

「優しい産地」

 

 

髪切ったことに気づかないと怒るし、自分が退屈なら真夜中だろうが呼びつけたし、わがままで本当に可愛くなかった。だけど、本当に大好きだったんだよ。失恋を語る僕の前でクリームソーダをつついていたAI376号が顔を上げた。その表情がまるで人間みたいで、僕は思わず苦笑した。「もう大丈夫」。

「僕のロボット」

 

 

床すれすれの視界、半開きのドアから夏が見えた。血のかわりに溢れたワインが手を伸ばすけど、まだ到達を許されない。諦めて目線をあげればあなたの顔が映るんだけど、もうその名前さえ呼べない。首に巻きつく骨張った指。初めてぼくに触れてくれたね。これはきっとえいえんに解決しない殺人事件。

「未解決の恋」

 

 

タチアオイから視線をずらせば、バス停にきみを見つけた。尾行はしていない。ましてや探偵を雇ったりもしない。ただただ偶然。これがもしも初対面なら何か言葉をかけたりできただろうか。それとも見つめるだけだったか。きみが幸せであればいいだなんて、馬鹿げてる、ぼくはもっと悪人になりたかった。

「初恋の再会」

 

 

空から落ちてくるたくさんの囁き。今日は西からやってきて明日には東へ去るもの。きみの瞳にいつかと同じ結晶があることを信じて、夏休みのプール。あの子の死体が浮かんでいる。水はついさっきまで脈だったものを、もうどこへも運んでいかない。ただの反射に僕は、この世と白と黒を教えられていた。

「雨風雪光暗闇」

 

 

その場所はいつだって行くことができた。 利き手じゃないほうの人差し指と親指で輪っかを作って覗き込んだらもう、あお町。建物も食べ物も生き物もすべてがあおをしている。実は今でも行くことができる。だからついつい会議中にぼんやりと輪っかを覗いてしまって、今日も愛しの先輩に叱られる。

「マイ・フェイバリット・ブルー」

 

 

初めは蛇口だった。ひねると出てきたのは歌声と匂いだった。それはデート前日の鼻歌と一緒に食べたペペロンチーノ。次は噴水だった。湧き出るのは足音と笑い声だった。スキップでもしそうな歩幅と他愛もない。最後は心臓。どくんどくんとめどなく記憶がこぼれていた。お医者は流体物恐怖症と診断した。

「失恋と藪医者」

 

 

感情のないものにせっせと語りかけるきみが好き。窓際のオジギソウ、太陽と月、新しく買ったスニーカー、夏という季節。きみはおしゃべりが嫌いなのかな。言いたいことを言って、勝手に幸せそう。きみが本当は誰ともうまく喋れないこと知っているよ。あの夜、ぼくの縫い目に涙がいくつもこぼれていた。

「ほんとはね」

 

 

神様はどうして二で割ったの。ぼくはきみを、きみはぼくを、殺すことでしか始まれないようにどうして作ったの。一つずつ確かめ合って小さな間違いに憂鬱になって他の音もぜんぜん聞こえないで犠牲だけ積み重ねてる。愛も平和も偽善を忌避するそのまた偽善も何もかも消失か水没して。

 

 

どうして覚えていないんだろう。僕はどうして君を覚えていないんだろう。こんなに夜空は高く、波の音は優しいのに。今夜でなくてはいけないんだろうか。君のことを忘れたまま置き去りにすることが、どうしても今夜でなくては。せめてあと一夜、あと一夜が足りない二人。

 

 

餌をつけたら釣り糸を垂らす。見惚れるような流線型。おいで。念じた後はじっと待つ。蝉がじゃんじゃん鳴いて汗が噴き出てきて、今西暦何年なのか分からなくなる。首筋が痛んできて仰ぎ見れば、青空はずっと彼方にあって。灰色の大きな目がふたつ、ぼんやりと僕を見下ろしていた夏。

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no.258

口にしてはいけないこと。疑問を抱いては生きてけないこと。もっと上手に誤魔化して平然と享受する方法もあったね。悪いことじゃないって、言ってもらわなくても分かっていて、いちいち砕け散って再構築を繰り返さなくても、不器用なまま人を愛せたね。浸透を拒んだ。儚くないことは醜くて、血が出ない程度に噛みしめる計算高さなんて死ねばいいのにと思っていた。私が生き急いだぶんだけ君の命が延びれば良いのに。僕が嘘をついたぶんだけあなたが輝けば良いのに。因果の法則を狂わせながら、それでも続きを見たかった。私はいつまでも幼稚で、僕はいつまでも無知で、世界はどこまでも他人事で、指先から滲み出た魂は、せめて見えている範囲の空の色を変えるほど鮮やかではなかった。飛び立った後の巣には青色の花が咲いていた。触れるだけで明日を書き換えられる人、同じだけの力があるって信じられなかった。不自然でないよう身につけるための仕草を罫線に重ねて書き出した。また一つが終わることは誰のせいでもなく自分のせいだった。規則に則り回転する天体、マドラーで夜空をかき混ぜて混乱に陥りたい。刷り込まれた星座を書き換えて、誰かには知ってほしい。なんて、わがまま。なんて、独裁。食い散らかした退屈がビスケットの屑のように細かに私の夜空を彩る日、僕は俯いて同じ一節を繰り返しつぶやいている。僕が頼りない一糸に音楽をこめる一瞬、私の唇はその旋律のために縫い塞がれてしまう。

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【小説】続・野良猫の詩

拍手ボタンからコメントをくださったハルさんへ。コメント、ありがとうございます。読んでいたらむくむく湧いてきたので7/28投稿分『野良猫の詩』の後日談みたいな続きを書きました。想定外に怒涛の愛情に押され気味な元野良ちゃん。このままいくとヤンデレ路線かな…。

いつも記事への拍手ボタンぽちぽち、押してくれている方、押さなくても見てくれている方、ありがとうございます。

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存外だな。
もっと戸惑いながら落ちてくるんだと思ったら急転直下かよ。よほど色々溜まってたんだろう。これまでの生活でできなかったことや満たされなかったところを一気になんとかしようとしてがっついてくるからペースを乱される。せわしない。落ち着けったら。毎朝ベッドの中で寝ぼけながら「かわいい」なんて言ってこなくていいから、ごはん少々とミルク適量はこっちより早起きして準備しとくべき。本日の毛並みがどうとか体調が変わりないかとか心配してくれるのは当たり前だとしても、そう頻繁でなくていい。気が滅入るくらいにしつこいぜ。いちいち目線を合わせてからする抱擁も、文字通り猫なで声で優しくされるのも求めていない。でも、まあ、顎の下をちょいちょい撫でられるのは悪くないかな。と言っても、おおいに修行不足だけど?不満のはけ口として新しい革靴に粗相をしてみたり、イタリアのなんとかってブランドのスーツに爪を立ててみたりもしたけどちっとも応えちゃいない。ばかでかいソファはふわふわ足元がおぼつかなくって気味が悪いし毛足の長いカーペットは爪に悪い。家に仕事を持ち帰って来ようものなら八つ裂きにする所存。バカか?ぼくが構って欲しい時におまえの手が空いていなかったらこっちが我慢しなくちゃいけないとでも言うのか?ふざけるのも大概にしろ。待てるわけないだろ。これだから甘ちゃんは。

「待ってて。もう少しで終わるから」。
おまえはそう言ってキーボードをタタタン、タタタンしている。
待ってて、だと。それじゃまるでほくが待ち焦がれているようではないか。
もう少しで終わるから、だと。それじゃまるでぼくがあと数分も我慢のできないワガママ放題の元野良みたいじゃないか。
デスクに飛び上がって画面の前に立ちはだかり、しっぽの一振りでコップを倒してやった。
「ああ、もう、仕方がないな。分かった、こんなことはすぐ止めるよ」。
仕方がない、だと。
当然だ。
「お腹が空いてイライラしてるのかな?」。
ハズレだ、バーカ。
「ミルク飲み足りない?」。
ざけんな、当てずっぽうに言いやがって。
そんなに毎時間飲食してたらどっかの金持ちの家の肥満猫みたいになっちまうだろーが。
発想の貧相なやつめ。
「なでなでして欲しいの?」。
なでなで?
ふざっけんなよ。
そんな言葉で表現するんじゃねー!
ぼくがまるでまだ一人前じゃないみたいじゃないか!
「いてっ、いてて、噛むなって。そうだ、写真、写真撮ろう」。
写真。
おまえは最近よくぼくの写真を撮るよな。
そしてそれをどこかに投稿している様子。
たくさんの反応があって、返信するのに忙しい時がある。
不思議だ。
おまえが画面を見てニタニタしていると、お腹の中がモヤっとする。毛玉を飲み込んじまったみたいに。おまえのニタニタ顔が害悪なんだ。誰に向かってニタニタしてんだか。本当にだらしがない。
「さあ、撮るよ。こっち向いて」。
だから、背中を向けた。
そう簡単におまえの手が届かない場所に行って、どこまでも逃げてやる。
案の定追いかけてきたおまえがテーブルの角で足の指をぶつける。ざまをみろ。ぼくを追い詰めようとするからだ。人間風情が。へっ。

絆創膏の箱の裏側にびっしり書かれた文字、商品説明だとか配合成分だとか。読むとはなしに目をやりながら、こんなことって何年ぶりだろうと思う。
小さい頃はよく怪我していたと思う。擦り傷、切り傷、いつの間にか虫刺されが腫れていたり。さいわい大きな怪我はしたことがないけれど、誰かが貼ってくれていたんだな。
子供はそのうちうまく歩けるようになって、危険を察知できるようになった頃には、取り巻きができていた。
おれは無傷でなお丁寧に扱われて、よそ見をしようにも誰かが横から視界に入ってきた。
そして吐き出す。
甘い言葉、優しい言葉、賞賛の言葉、羨望の言葉。
あなたの未来に期待します、あなたは間違っていません、あなたは才能に溢れている、あなたはとても美しい、あなたがいるだけで場が華やかになります、あなたのおかげです、あなたに感謝します。
たくさんの、「あなた」。
おれはまだ何もしていないのに、何ももたらしていないのに。
いったい彼らは「誰に」向かって話をしているんだ?
うわべは何とか取り繕っていたけど、いつだってそんな思いが拭えなかった。
だから、初めてかも知れない。
あるいは、すごく久しぶりな気分だ。
きみはおれにとって面倒な存在だ。
悪戯ばかりで言うことを聞かない。邪魔で、迷惑で、騒々しい。
だけどそれらすべて差し引いてなお余りある、「あなた」じゃなく、この「おれ」のことを見ていることが分かるから、可愛い。
何度も目が合う。滑るような視線でもない、頭の上を通り越えたり、体を貫くような視線ではない。ただの「おれ」しか知らなくて、それを見る。それが、とても可愛い。
今の部下の一人からは野良猫なんて拾うもんじゃないと忠言を受けたけど、おれが拾ったのは野良猫は野良猫でも、この猫。今ここでおれを困らせる一匹の命は、この猫だけ。
外では冗談も言えないおれが、家ではこんなにだらしなく笑っているのが見つかったら。どんな表情をされるんだろうな。それを想像するだけで楽しくなった。
きみがずっと拾われない野良猫で良かった。汚れていて、痩せっぽちで、甘え方を知らない、道行く人から目をそむけられるような存在で、本当に良かった。ありがとう。これからも大切にするよ。

2+

no.257

首、頸動脈のあたり。ふわふわの毛並みを押し当てていると安心をする。いつからかそこにあって、あることがあたりまえだったもの。人はそれに安らぎを覚え、覚えさせたいと思う。永遠を誓う。幼年時代はこれから先を生きるためになくてはならない、思い出を培う場所だ。そこが礎となる。向けられる言葉は甘く、微笑みは優しい。留まろうと思わないうちは、終わりを知らない。だけどやがて考え方を知る。歩み寄ってくるものに耳を傾けるうちに、これはなくても平気だ。ぼくはもう強い。錯覚だろうが幻影だろうが構わない。ぼくがそう思っていることが大切なのだ。もう要らない。そんなふうに言って多くの人はたくさんのきみを何度も捨てる。転がったままきみは待つ。そして見ている。大切にしてくれた誰かが騙され、傷をつけられる。まるで感情を試されているみたいだ。何度も陥って挫けてしまう。立ち上がろうとしてまた叩きのめされる。そこには平等はなく要するに嵐に飲まれてしまったんだと思われる。きみは特段悩まない。ボタンの目でそれを見ている。やがてそれはきみに気づく。そこにあったんだ。ずっといたんだね。もう一度戻ろうと思う。連れて行ってくれ。疲れたんだ。あの日々が一番良かったな。きみが聞く声はずいぶんとしゃがれている。他に方法を知らないからきみは押しつけられた頸動脈を十字に切る。透明な傷跡から魂がこぼれて人の願いは叶う。きみはまた放っておかれる。痛むところがあるか。もしもあったなら教えて欲しい。手がかりにするから。引っ張り上げてあげる。そして私がきみを産んであげよう。ようこそ誰もが死にゆく綺麗な世界へ、今度はきみの番だ。

0

no.256

僕たちは同じものから生まれたのだから二度と溶け合わないに限る。ふたつの色を重ねて陽に透かせばそれはきっと誰かに綺麗な涙を零させるだろう。同時に何かを殺す。たとえば遭難のニュース。たとえば近所を騒がせる通り魔についての厄介な誤報。僕たちは絶えず人を陥れる。そして、いや、だから、寛容にならなければならない。犯していないことを一度目は理解してもらえず、二度目には冗談にしたがる人々に対して。感染するものに対して稚拙な嘲笑で優位に立とうとする、その残存欲求に気付く時などは人間を好きだ。しかし、そんな思いが続いては駄目だ。深い雨の谷、何年でも復讐の機会を待たなくては。黒いつば、白いつば、目深にかぶるそれぞれの帽子の陰から、あの日一瞬だけ僕たちに触れた、犯人の手触りを頼りに。二つに裂けた。僕たちは後天的な双子。いつでも一人に戻ってしまうと思うから、こんなにも他人のことがどうでも良いんだ。祈りや幸福を願う言葉を挨拶の最後に付け足すほど大人にはなれない。ひそひそ話をされていたい。すぐに逸らせるように備えた目線で嫌悪を向けられていたい。毒も薬も必要ない。手枷のない腕と、足枷のない脚。それだけ。札の下がっていない首筋と、お互いの血のための塞がらない傷口。それだけ。君の痛みが留まることのないよう僕がこちらで開けておこう。君が僕にしてくれたことの真似事をして。どう足掻いても僕たち醜くはなれない。香水のように匂い立つ数奇な境遇が、別の誰かにさらわれませんよう。どうか、神様、仏様。お兄様、お姉様。光を装って馬鹿を見ろ。

0

no.255

生まれてくるより前に
どこかの国の
誰かと誰かで
酷くさみしい別れを
したんじゃないのか

あなたが目を覚まして
顔を洗うときに
シャツの下
肩甲骨の出っ張り
鏡に映る
ドラマチックでない朝

驚いた顔をして
なんで泣いているのって
振り返っても同じ顔があって
これは夢じゃなかった
あなたはいつも自然だ

長い坂をどこまでも
陽炎に揺られて
行き着く先がどこででも
転がって良いんだと
何も後悔しないような毎日

何度でも出会いたい
あなたが本当は
僕を殺す人であっても
その瞬間に
一時も躊躇わなくても

受け容れるのだろう
文句はないのだろう
もう一度出会いたい
形容詞のない運命
壊れてでも試されたい

0

no.254

僕が忘れていたもの
忘れたくないと願う
そばから忘れていったもの
フィルムカメラに残っていた
ラストの一コマ
分かたれた道と結末
一度の視線の行き違いで
叶えないことで閉じ込めようと思った
笑っちゃうくらいバカだったな
ブーゲンビリアの色だけが飛んでいて
歌わないでも全身から音楽がこぼれてた
いつかだれかのキラーチューン
いつかあなたのキラーチューン
夢に見るくらいなら偶然だって
恋い焦がれるほどなら奇跡だって
起こせたんだ、起こせたんだ、起こせたんだ
百年前にも後にももはや起こらない
誰が誂えたのでもない交錯を
味わってみるなら絶対にこの今なんだ
ラムネ越しに見た特大の打ち上げ花火
逸らした目線がほらまた結ばれた
怯むな、淀むな、無いことにするな
何を言う、離すな、この恋からは逃げるな

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