no.230

誰にでも、彩られた風景がある。もともとは現実に見たものかも知れないが、こうであったらいいなという当人の願いが込められて姿を変えた果ての類だ。そして再び同じものを目にする機会があれば失望することが分かっているからあえて避けたりする。あるいは別物だと言い聞かせる。自分の知っている「それ」だけは記憶の中と寸分違わないと、むしろ本来はそれ以上のものだったと。僕は人より脚色や美化を行う傾向にあるかも知れない、とは思う。そりゃあ他人の頭の中を覗いたこともなければその人の過去に見たものなんて知りはしない。だけど、五月の夕暮れ。風に揺れるレースのカーテンに投げ出した脚を柔らかく叩かれている時。はたはた。しん、と静まり返った公園で何も考えていない時。遠くで犬が吠えた。潮が満ちた。線路の上を電車が走って、進級した学生がお辞儀をする時。口の端からこぼれた甘い蜜。液晶の中のミクロの世界。新聞広告。櫛が髪を梳く微かな音。そういった時に、ふと、微かな気配が染み出してくる。僕は、襲ってくるものを拒むことはしない。その代わりにじっと眺めるようにする。そうすれば恐怖というものは殆ど発生しなくて僕は物質と向き合う。音のない世界。耳ではなくて思い出がとらえている。いつかの僕が同じような目をして今の僕を見つめている。こういった断続的な隙間が、別次元のようにぽたぽたと落ちてくる。天井から。海にかかる長い橋を渡っている時に天地が逆さまになったような錯覚を覚えたあの星空。ここにいることを咎めるように、見守るように、僕が僕を見ている。明日ではなくて、昨日ではなくて。今僕を見ていた

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no.229

どうしても白にしか見えない。あの日とあの日を引っ張ってきて重ね合わせるんだ。灯台は泳いでは渡れないところにあってそのために推測だけで物を語るようになる。君たちが亡くなったのは春の一日でした。誂えたように綺麗な色彩の中、過不足なくすべて整って、何が起きても必然だったと思い込めるような昼下がりでした。君たちは緑色の湖に一人ずつ背を上に浮かんでいて僕は一瞬、悲しいとか恐ろしいとかよりも先に何故だか安心してしまったんだ。こんな日なら。こんな景色なら。ちっとも残酷な出来事ではないだろうと。今でも僕はその一瞬の感覚を思い出しては自分を見失いかける。だけどそれは時を経てますます強く鮮やかに、それ以外を飲み込みそうになるから僕はよく他人から幸せそうだと言われる。そんなんじゃない。いや、そうなのかもしれない。紺碧の夜空にあいた無数の穴がいつか全部線で繋がったら支えきれなくて落ちてくるのだ。向こうもこっちもなくなって一つになるということ。起こらないうちは夢で絵空。君たちを泣く人は僕を除いて誰一人いない。そう思い込めたら自然と笑みがこぼれる、邪悪で無知な。

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no.228

冷たい絹で目隠しをしたらいつも通りの手順で雨音を流す。柔らかに深く埋もれて何度だってあの日に帰る。心配は要らない。必ず戻ってくる。僕は押し返されるから。だから大丈夫。あの時間は決して新たに要素を追加しないんだ。誰だって例外じゃない。沈没していくのかあるいは浮上しているのか。何も見えないぶん色は思い描いたとおりになる。最後にはゼラチンで固められる悲劇。眺めたって拗ねてみたって手は届かない。触れられない。切実なのか狂っているのか。飲みくだしたら一つになれた気がするけどすぐに錯覚だと思い知って焼け野が原の夢から覚めるだけ。君はいつも逃げ切ってほしい。怯まず、振り返らず。僕と同じ過ちはせずに。冷徹に、非情に。そして新しく繋いでゆけ。とめどなく光放つ魂であれ。

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no.227

腰の高さに積み上げられた平均的大衆。安堵の次に焦燥に襲われる、放っておけばそのまま発作になる。(君はこんなものがいいの?本当に?)。誰もが通った時間。後方の季節。つまづいただけで骨折しただなんて言えない。僕だって平気に走り抜けたかった。矮小化して何食わぬ顔で語りたかった。だけど、それが出来ないのなら。偽らない以外に方法は無いんだろう。僕が選択できて、尚且つ、呼吸を整えればまだ、あともう少し生きていけると言うために。誰の背後にも物語が亡霊みたいにあるって言われれば分かる、だけど一人一人は憶測することでしか他人を理解できない。だったら誤解されてでも自分を発光させるのがいいって言うのが君の立場で、そんなのできっこないって怖気付く潔癖症が僕の立場だった。演技は順調で二人は退屈に追いつかれることはなかった。誰かの凡庸な世界の片隅でちょっと目を惹く異質になってゆくこと。安心するだなんてそれ変態だよ。痛みに気づかないだけの強さがあったら良いのに。そんなもの望んでって君はまた鼻で笑うだろうけど。ガムシロップみたいな夏が来ても正体不明に溶かしてはくれない。一旦は全部ばらばらになるけれどどこかが原型を覚えてしまっている。だからただの分離。囲われた空間で行われるならいつだって戻れるよね。君にとっての希望が僕にとっての真逆なら、一緒にいる意味といない理由はどっちがおおきい?作為無くしてすべては正しい。真夜中、プールの水が冷たかったように当たり前だって思えたらいいね。一緒にいることもいないことも、その手が、指が、いつまでも動かないままなことも。潤んだ熱で僕を見下ろしながら次に何を言うの。

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no.226

薄まらない夕陽は僕たちの怠惰
ありふれた言葉で愛を掴み合うことの
夢のようなシーンはいつまでも循環する
付かず離れずのまるで遊戯めいているからだろう
君が一人しかいないということは怖いよとても怖いよ
ひとつになった時に初めてふたつもあったと知るよ
それを失くしたらもう元に戻ることはないのだということも
追いかけた虹のふもとに辿り着いたら真っ先に何をする?
笑いながら答えを言うんならそんなところへは向かわないよ
ずっと叶わないままで何かを祈っていたいだけ
僕がそう言ったら君がひそかに幻滅するんだとしても。

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no.225

季節外れの花の香り。さまよう視線。吐かなかったことにしたい嘘。いつも誰かが羨ましかった。羨まないから。妬まないから。眠れなくなったり恥ずかしくてたまらなくなることがある?知っておいてほしいことほど何も言えない。言えなくなる。始めたら終わるから。口にしてしまえばそれがすべてだと思われてしまうかも知れないから。足りないのに。全然足りないのに。余すところなく、なんて不可能だ。きみは拡がる。逃げながら跡を残す。そこに、ここに。そうやって深く浅く傷つけられながらぼくは悲しいほどに知るよ。ああ、今でもきみはちゃんとあのひとを好きなんだって。ぼくが気付いた時にはもうそんな目をしていたよね。

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no.224

白目が青く火照っている。八月の水曜日。買ったばかりのガイドブックを貪るように読んだら夢も希望もなくなって、ただ死なないように死なないように息をしていた。隣の工場が音を立てているのも隣人の好きな音楽も同じくらいうるさくてどうしようもない。心の狭いやつと思われたくなくて平然と挨拶とかする。ベランダから指の先ほどの面積で海が見えるんだけど見たらかえってむなしくなる気がして寝そべっている。溶けそうに。いつかまた冬が来るなんて信じられないで一日を過ごす。一年を過ごす。やがて一生が過ぎて、それでも蝉だけは鳴いている。このアパートが朽ち果てて僕の知ってる誰も残っていなくても。

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no.223

僕たちのあいだで分かり合えないことは確かだったが、そのことをお互いどの程度わきまえていたかは不明だった。よほど第三者のほうが理解をしたかもしれなかった。予感をあやふやなままもてあそぶため、時間と距離は密になった。誰にも測定されないことだけを共同作業にしたがったせいだ。目に見えない光が見えていなかったものをあぶり出す時、とても美しいと述べる人がいる一方で生きる世界はかたくなに残酷だ。非道だ。無知なものだけが何からも穢されることはないのだ。君は少し皮膚が薄いのだろうか。血のようなものが透けている。これから何年と何百年と言葉を交わしても近づき合うものはないだろう。その点においては僕たちも例外でなかったのだろう。

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no.222

好きな人に好きと言わないと決めて百年。壁に飾った遠い風景からは今でも止まない波の音がする。君とあの人はやがて死ぬけど僕は終わらない。そのことを幸せとも不幸せとも言わない。後ろを振り返れば透明の糸は七色に輝いて僕の脊髄に結ばれている。悪いことじゃない。たどり着かなかった場所のあることは。果たせない夢のあったことや、会えない人のいたこと。君が眠る時にすべて叶えてあげる。まぶたに手のひらをのせたら、誰でも微笑みながら涙を流す。自分を産んだ人が初めて見つめた瞳のように。説明はいらないことだよ。ただ繰り返される。君にとっての一が僕にとっての百になる。橙と黄色。その上に青。いつまでも変わらないものだけが、変わらないものなどないって教えてくれる。

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no.221

これは僕たちをあたためなかった光。まつげに宿った呪いを溶かし切らなかった熱。今になって差し込んだってすべてはもう手遅れなのだ。誰もが羨むほど遠くだ。遠浅の青。透き通る濃淡さまざまの砂粒が踏む者もいないのにしゃくしゃくと鳴る。あの夏の蝉の鳴き声に近い距離。秘密の書棚の陰で新緑に霞むあまい声。

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