【小説】もう旅になんか出ない

生まれ変わっても、いい?

ソフトウォーカスの世界に生きている君は言った。まるで、なんだか、そうだな、料理や新しい髪型について感想を求められるような軽さだった。それでつい頷いてしまったのだ。ああいいよって。

次の日、君がいなくなった。
死亡ではなく消失。跡形もなかった。誰に説明することもできなかった。あまり詳細に語れば僕のほうが頭のおかしなやつになってしまうから。この不可解な状況よりも。これから一人で君を探さなくてはならない。

生まれ変わるのだと君は言っていたな。
ベランダでさえずる鳥を見る。こいつだろうか。水槽の魚。植木鉢の花。どれも怪しい。いや、何も僕の部屋にいることはないかもしれない。遠くに出かけてみる。僕はリュックに歯ブラシと数日分の着替えを詰めた。

すれ違う人みな怪しかった。
君が意地悪で僕を無視しているようにも思った。肌の色が異なる人。聞き取れない言語でしゃべる人。向かい合えば瞳の色だってさまざまだ。しかし、待てよ。君が僕を覚えたまま生まれ変わったとは限らない。だとしたら、僕はみんなに優しくしなければ。

それから僕は何をしたか?
懐かしい部屋に戻って、旅に出る前と変わらぬ日常を過ごしたんだ。君とはもう出会うことはないだろう。それを認めることがおそろしかった日々は今や遠い。君がいつも寝そべっていたソファはそのままだけど。

そして僕にもその時が来た。
誰も知らない物語を抱えた僕、さぞかし秘密めいた老人だったろう。いつも幸せそうで。いつも遠い目をして。かぼちゃのポタージュ。あれは、うまかった。今度君がつくってくれたら、喧嘩なんかやめてたいらげよう。

別れを惜しむ人はいないと思っていた。
かすむ視界の中に、こちらへ駆け寄ってくる子どもの姿があった。何をしていたの。どこにいたの。どうしてこんなに悲しいの。子どもは矢継ぎ早に質問を浴びせてくる。
答えることは、もうできない。

問われ、答えること。
それが一番の愛だった。
求め、求められることに似て。
君はやがて誰かを好きになる。
その時に言うんだ。
もう生まれ変わるなんてこりごりだと。
今が一番幸せなのだと。
そうしたら悪い魔法は見逃してくれるだろう。
どうやらみんなそうやって生きているようなんだよ。
百年生きた僕が言うんだ。
試してみる価値はあるだろう。

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【小説】マイ・ヒーロー・イズ

大事だったものを失う気持ち良さに魅了されたら底なし沼だ。

僕はこんな大人になる予定じゃなかった。

そう言うと、計画通りの大人になった奴なんて数える程もいないさとお前は笑う。それがちっとも嫌味じゃなくって少し救われる。

家に帰ったってあいつがいるからもう少し遅らせようかな。

それ家って言えるの?
お前はどこに住んでんの?
いろんなところ。
いろんなって。
いろんなって言ったらいろんなだよ。カレーが好きでもさ同じ味付けばっかは飽きるでしょ。たまにはキーマにしたいし、グリーンにしたいし、バーモントにしたい。
バーモント。
そう、バーモント。あんたは強いて言うならハヤシライスだな。
ハヤシライスってカレーなの。
まあ、親戚。
親戚。
あんたと親戚になりたいな。もっと近づいて家族になりたい。そうだ、なろう!
寄るな気持ち悪い酔っ払い。ならねえから。じゃ。
待て待て、もう少し話そう。
嫌だね。
話してんじゃん。たとえばあの店の前に立ってる男いるじゃん。
帽子の。
違う、その隣。
ホームレス。
あれね、半年前までとある会社の役員だった男だよ。
嘘だよ。他人じゃねーか。
今はね。俺が全部奪っちゃった。
は?
だからね、あんたも俺を頼ればいいよ。たすけてヒーローって言えばいつだって参上するから。
嘘くせ。
信じる信じないはあんた次第だけど、頭の片隅にでも置いといてよ。あんたにはヒーローがついてるってこと。
どうして会ったばかりの奴にそこまでしてくれんの。
あんた俺に似てるんだ、だから、ほんとに俺かもなって思って。
何それ、頭悪いの。
あ、それ俺の口癖。
本当かよ。
本当。だから覚えていてね。本当にどうしようもなくなったら俺を呼んでね。
はいはい。
分かってんのかなあ。
分かってるって。

そして僕たちは別れた。
あれ以来、ヒーローには会っていない。
一度も呼ばなかったから。
そいつはただ平凡になって鏡の中にいるだけ。

だから今度は僕が見つけに行こう。
いつかの新しい僕に会いに行こう。

何考えてんだ、頭悪いの。

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【小説】キーマについて

月光だけを照明にしているのは相棒の体がそれ以外の光を拒否するからだ。とは言え孤島の研究所で暮らすにはそれで構わない。俺は、慣れている。

向かい合ったキーマがフォークで生ハムを食べている。
俺から目をそらさずに。
「何故そんなに私ばかりを見るのだ?」
これには驚いた。
見られているのはこっちだとばかり思っていたが、キーマからすれば俺がいつまでも見ているのだ。言われてみれば、それはそうかも知れなかった。
血のようなワインをあおっていても、それが喉を鳴らしている間にも。
唯一無二。
そんなことが、ありえるんだろうか?

数年前に、最愛の助手を事故で喪った。
それからというもの、助手を再現することに情熱を注いできた。歳月をかけ、ようやく完成したのがこのキーマというわけだ。仕草はぎこちないながらも助手としての役割を立派に果たしてくれる。おかげで俺はキーマをつくりあげた後からでも本来の研究に戻ることができた。
キーマをつくりあげるためには十年ほどを費やしてしまった。キーマはまるで助手がその期間生きていたように、俺の記憶にある助手よりも若干年を経ているように見えた。
それでも、美しいことに変わりはない。
俺はキーマを最愛の助手そのもののように、愛し、扱った。
記憶や人格までは乗り移らせることはできなかったが、俺は程よく異常を保っていた。
発狂を防止する有効な手立ては適度に異常をきたすことだ。そうして狂気を逃がすのだ。まともでいられるように。
「なあ、博士」
「うん?」
「今日は見事な満月だな」
「ああ」
「雲もなくて部屋が明るいな」
「そうだな」
「きれい」
「ああ、綺麗だ」
「博士が私を殺そうとした夜みたいに」
手からフォークが落ちた。
キーマ、それは、誰の記憶だ?
「誰の?もちろん、私だ。博士、あなたは私を殺せていなかったんだよ。あの岸壁から、突き落としたよな。だけど私は死ななかった。なんとか岸に泳ぎ着いて、こっそり博士の研究所へ戻った」
「キーマ、」
「窓から覗くと博士は私そっくりの人形を作っていた。ああ後悔しているんだなと思った。嬉しかった。だって、博士の中でワタシはもう二度と取り戻せない存在になったわけだろう?」
キーマが次の生ハムをつまみ上げて下から食べる。
これまでにしたことのない食べ方だ。
それは最愛の助手の食べ方だった。
「だめだぜ、博士。まぼろしばかり追い求めてちゃあ」。
鋭利な刃物で臓器を一突きするとこんなふうに中身がこぼれてくる。
俺は両目から泪をぼたぼた落としながら、キーマではなくなったものを見ていた。
「ありゃ、壊れちまった」
そいつの手が俺を拾い上げる。
異常を飼い慣らすことなんて到底出来ていなかった。飼い慣らされていたんだ。その証拠に、こちらが主導権を持っているという錯覚に陥っていた。疑いもしなかった。
その事実こそ、キーマが俺よりはるかに才能あることの証明だった。
最愛の助手にして最大のライバルだった男はいつだって強かで賢い。
すぐそばで見ているのはさぞかし退屈凌ぎになっただろう、俺の駄作を、駄作の俺を。
「ショートしちまったんだな、可哀想に」
まあ、いいや。
何度だって直してやるよ。
だからおやすみ、そいつの唇がそう動く。
それで額に触れられると母親に出会えた迷子の子どもみたいになって、俺は急な眠気に襲われる。
「最高だったよ。僕を喪ったおまえを見ているの。自分勝手ですごくかわいかった。愛してるぜ、どうもありがとう」。
月光。
生ハム。
迷宮入り事件。
未完成のキーマ。
殺せなかった男。
おまえは誰だ?
俺は、誰だ?

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【小説】猫の乞食と仇の王

どうして僕を好きなんだろう。じゃ、ない。どうして僕を好きなふりをしているんだろう。おまえは本当は自分のことが大事で優しいんだ。僕が貶められると自分のことが貶められる。僕が笑われると自分が恥ずかしい。僕が足りないと自分が満たされない。僕が泣くと自分が辛い。おまえは僕と自分を勝手に結びつける。「そこまで分かってるんならもういいよ」ってゆっくりと笑う。僕は絶対におまえに懐くことはしない。僕がほだされて甘えるようにでもなれば(考えただけで虫酸の走ることだ)、おまえは幸せであたたかい気持ちになるんだろう。そうして無条件に敵でもなんでも受け入れて博愛の権化みたいになるんだろう。僕はいつでもおまえが失脚すればいいと思っているし、支持者その他大勢から見放される日をひそかに待っている。僕の足は顔の見えないやつに切り落とされたけれどそうでなくても行きたいところなんかなかった。僕の顔の半分は悪戯によって焼け落ちたけどそうでなくても向き合いたい相手なんかなかった。僕はこの時代のこの世界に生まれてきたけれど別にそうじゃなくても良かった。おまえは否定も肯定もしないでただ一言「でもそれじゃあ俺がさみしいよ」と呟く。噛み付いても怒られない。歯を立てても逃げ出さない。僕のほうが先に疲れてしまって顎を緩める。おまえの手からは食べないと何度も言ったのにおまえは同じことを繰り返す。僕の知ってる犯人はおまえとは似ても似つかないやつだったよ。満腹になるとどうしても眠くて意識を遠ざけてしまう。おまえは僕が眠るまで身動きをしない。だから僕はするすると糸をつたうように安全に、あの日捨てられたと思っていたぬいぐるみの上にたどり着ける。うむ、このふかふかは健在だ。取り上げられる前のすべてが揃っている。僕の好きなものがまだ何一つ欠けていなかった世界だ。(おまえを殺す)。僕の復讐心には気づいているくせに。(そのうち、殺す)。唱えていないと忘れてしまいそうになる。(癪だ)。おまえの腕の中で眠りに落ちる、その瞬間だけは、今じゃないいつかに戻りたいと願うことをやめられるということ。教えたくない。悟られたくない。

おまえの知ってる僕は無口だ。

1+

【小説】カラフル

人の好きなものをとやかく言う筋合いはない、誰にだって。
そんなことくらい分かっていた。つもり、だった。
年の差も性別も関係ないことは百も承知で実体験としてあったから、条件によって阻止されるという感覚が分からなかった。
たくさん揃っていると思っていた。だけどそれを求めていない奴もいるんだって、俺が持っているものに心底興味がない奴もいるんだって、思いもよらなかった。
どんな集団だって俺が少しでも不機嫌を気取って鼻を鳴らせば密かに、でも確実に、気にかけるのに。
あれは、俺に、なびかない。

教室の隅の席で短い鉛筆を懸命に動かして何かを書いている。通りすがりに盗み見ようとしたことがあったが、あれが顔を近づけすぎているせいでかなわなかった。恐ろしく視力が悪いのだろう。
また別の日には取り巻きを使ってこちらに気を向かせようとあれの興味を引きそうな物を散らつかせてみたがちっとも好反応を示さない。それどころか迷惑そうな表情さえ浮かべて見せるじゃないか。てめえは何様だ?と詰め寄りたいのをぐっとこらえ、地道に観察していると、あれにも友人のあることが分かった。隣のクラスの深山と小沼田。昼休みになると三人でひそひそ笑い交わしている。ったく、何があんなに楽しいのだか。俺が近くにあった椅子を蹴ると傍の一人が耳打ちをしてくる。
「あいつらちょっとからかってみる?」。
すかさず睨みあげるとそいつは目に見えてたじろいだ。
「お、お前だっていっつも殺しそうな目で見てんだろ」。
殺しそうな、目?

その晩、俺は風呂場の鏡で自分の顔と向き合っていた。
行き交う他人から横目で見つめられていることは珍しくない。
整っているだとか美形だとかは小さな頃からよく言われていたから大衆的にそうなんだろう。だけど、殺しそうな、と形容されたのは初めてだ。
全部、あれのせいだ。
あれが、俺を眼中に入れないから。

翌朝、教室に入った俺はいつもと違う空気に気づいた。
こちらから尋ねるまでもなく数名の男女が報告のために駆け寄ってくる。
「篠原くんの席」。
「登校した時から」。
「白い絵の具が」。
「夜中に侵入したのか」。
断片的な情報が頭の中で結びつく。
まあ、そうなるな。
当の篠原は淡々とした様子で、雑巾を持って椅子を拭いている。
俺は「ふうん」と興味なさげな返事だけして自分の席に着いた。周囲がそれに倣い、ざわめきが鎮まるのが分かる。ほどなく担任が教室に入ってきて、いつもの一日が始まる。

篠原への嫌がらせは終業式までの約一ヶ月間、休みなく続いた。そのうち篠原が椅子を拭く光景は当たり前になっていき、誰もいちいち騒ぎ立てなくなった。そのことで篠原が精神的なダメージを受けている様子はなかった。少なくとも外から見ていて分からなかった。始業前には絵の具で汚れた椅子を拭き、昼休みになると深山たちと笑い合う。絵の具の色は日によって違った。二色、三色と混ざっていることもあった。前衛芸術みてえ、と誰かが囃し立てた。意味も分かっていないくせに。
退屈な悪戯の犯人さがしは行われないまま、夏休みに入ろうとしていた。

篠原に小学生の妹がいることを俺が知ったのは、終業式の日の夕方だった。
篠原兄妹が一緒にいるところに、スーパーの惣菜コーナーでばったり出くわしたのだ。
「あ?それ、妹?」と、俺。
「うん」と、篠原。
思えばこれが俺たちにとって初めての会話だった。
「はじめまして。お兄ちゃんがお世話になってます」。
「こら、黙れ」。
「えー、だってお兄ちゃんと同じクラスの人でしょ?名札にクラス名が書いてるもん」。
「そうだけど、おまえが言うセリフじゃないの」。
「なんで?」。
「なんででも」。
「ねえ、この人、かっこいい」。
「そうだろ。お兄ちゃんの中学で一番モテてるんだからな」。
「お兄ちゃん、ずるーい」。
ずるずる話し込むとこちらに悪いと配慮したのだろうか、篠原がやや強引に切り上げたから、会話はそれきりだった。
(そうだろ。お兄ちゃんの中学で一番モテてるんだからな)。
その言葉だけを神様のお告げみたいに何度も何度も何度も再生する。
この世に存在するものでもっとも美味しいものを頬張ったみたいに頬が急に痛くなってきて、鮮魚コーナーの壁面に貼ってある鏡で確認してみたところ、なんと赤面しているのだ。この俺が。この、俺が。赤面。嘘だろ。

半額シールが付いたチキン南蛮弁当を買い、ふわふわした足取りでスーパーの外に出る。
一気に重力がかかってきたように暑い。
ポケットの違和感に気づき、取り出してみる。
赤が、俺の手の中にあった。
回り道になるが橋の上に行き、川へ向かって放り投げた。それが着水するのを見届けずに踵を返した。
何が、「百も承知」だ。
何が、「揃っている」だ。
意味がない。
そんなこと、何の意味もない。
俺はまだ釣り合わない。
何が、舌打ちだ。
何が、「ふうん」だ。
何が、何が、何が。
「なびかない」だ。
あんなにまっすぐな笑顔初めて見た。
この思い、届くな。
今はまだ、届いてくれるな。
妹、おまえによく似てるな。
今度会った時になんて言えば良い。
今度いつ会える。
待ち遠しい。
分かってた。絵の具なんかじゃ満たされなかった。
分かってる。俺は空っぽだってこと。
短い鉛筆を不便に感じないほど書きたいことなんかない。
脇目もふらないほど夢中なものなんかない。
何時間でも笑い合えるほど話をしたい友達なんていない。
篠原が欲しい。
篠原になりたい。
なんだ、おまえ、たいしたことないな。
そう言ってくれ。
そこから始めたい。
残りの絵の具はもう捨てるから。
生きてきた中で一番、これから来る夏が憎い。

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【小説】続・野良猫の詩

拍手ボタンからコメントをくださったハルさんへ。コメント、ありがとうございます。読んでいたらむくむく湧いてきたので7/28投稿分『野良猫の詩』の後日談みたいな続きを書きました。想定外に怒涛の愛情に押され気味な元野良ちゃん。このままいくとヤンデレ路線かな…。

いつも記事への拍手ボタンぽちぽち、押してくれている方、押さなくても見てくれている方、ありがとうございます。

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存外だな。
もっと戸惑いながら落ちてくるんだと思ったら急転直下かよ。よほど色々溜まってたんだろう。これまでの生活でできなかったことや満たされなかったところを一気になんとかしようとしてがっついてくるからペースを乱される。せわしない。落ち着けったら。毎朝ベッドの中で寝ぼけながら「かわいい」なんて言ってこなくていいから、ごはん少々とミルク適量はこっちより早起きして準備しとくべき。本日の毛並みがどうとか体調が変わりないかとか心配してくれるのは当たり前だとしても、そう頻繁でなくていい。気が滅入るくらいにしつこいぜ。いちいち目線を合わせてからする抱擁も、文字通り猫なで声で優しくされるのも求めていない。でも、まあ、顎の下をちょいちょい撫でられるのは悪くないかな。と言っても、おおいに修行不足だけど?不満のはけ口として新しい革靴に粗相をしてみたり、イタリアのなんとかってブランドのスーツに爪を立ててみたりもしたけどちっとも応えちゃいない。ばかでかいソファはふわふわ足元がおぼつかなくって気味が悪いし毛足の長いカーペットは爪に悪い。家に仕事を持ち帰って来ようものなら八つ裂きにする所存。バカか?ぼくが構って欲しい時におまえの手が空いていなかったらこっちが我慢しなくちゃいけないとでも言うのか?ふざけるのも大概にしろ。待てるわけないだろ。これだから甘ちゃんは。

「待ってて。もう少しで終わるから」。
おまえはそう言ってキーボードをタタタン、タタタンしている。
待ってて、だと。それじゃまるでほくが待ち焦がれているようではないか。
もう少しで終わるから、だと。それじゃまるでぼくがあと数分も我慢のできないワガママ放題の元野良みたいじゃないか。
デスクに飛び上がって画面の前に立ちはだかり、しっぽの一振りでコップを倒してやった。
「ああ、もう、仕方がないな。分かった、こんなことはすぐ止めるよ」。
仕方がない、だと。
当然だ。
「お腹が空いてイライラしてるのかな?」。
ハズレだ、バーカ。
「ミルク飲み足りない?」。
ざけんな、当てずっぽうに言いやがって。
そんなに毎時間飲食してたらどっかの金持ちの家の肥満猫みたいになっちまうだろーが。
発想の貧相なやつめ。
「なでなでして欲しいの?」。
なでなで?
ふざっけんなよ。
そんな言葉で表現するんじゃねー!
ぼくがまるでまだ一人前じゃないみたいじゃないか!
「いてっ、いてて、噛むなって。そうだ、写真、写真撮ろう」。
写真。
おまえは最近よくぼくの写真を撮るよな。
そしてそれをどこかに投稿している様子。
たくさんの反応があって、返信するのに忙しい時がある。
不思議だ。
おまえが画面を見てニタニタしていると、お腹の中がモヤっとする。毛玉を飲み込んじまったみたいに。おまえのニタニタ顔が害悪なんだ。誰に向かってニタニタしてんだか。本当にだらしがない。
「さあ、撮るよ。こっち向いて」。
だから、背中を向けた。
そう簡単におまえの手が届かない場所に行って、どこまでも逃げてやる。
案の定追いかけてきたおまえがテーブルの角で足の指をぶつける。ざまをみろ。ぼくを追い詰めようとするからだ。人間風情が。へっ。

絆創膏の箱の裏側にびっしり書かれた文字、商品説明だとか配合成分だとか。読むとはなしに目をやりながら、こんなことって何年ぶりだろうと思う。
小さい頃はよく怪我していたと思う。擦り傷、切り傷、いつの間にか虫刺されが腫れていたり。さいわい大きな怪我はしたことがないけれど、誰かが貼ってくれていたんだな。
子供はそのうちうまく歩けるようになって、危険を察知できるようになった頃には、取り巻きができていた。
おれは無傷でなお丁寧に扱われて、よそ見をしようにも誰かが横から視界に入ってきた。
そして吐き出す。
甘い言葉、優しい言葉、賞賛の言葉、羨望の言葉。
あなたの未来に期待します、あなたは間違っていません、あなたは才能に溢れている、あなたはとても美しい、あなたがいるだけで場が華やかになります、あなたのおかげです、あなたに感謝します。
たくさんの、「あなた」。
おれはまだ何もしていないのに、何ももたらしていないのに。
いったい彼らは「誰に」向かって話をしているんだ?
うわべは何とか取り繕っていたけど、いつだってそんな思いが拭えなかった。
だから、初めてかも知れない。
あるいは、すごく久しぶりな気分だ。
きみはおれにとって面倒な存在だ。
悪戯ばかりで言うことを聞かない。邪魔で、迷惑で、騒々しい。
だけどそれらすべて差し引いてなお余りある、「あなた」じゃなく、この「おれ」のことを見ていることが分かるから、可愛い。
何度も目が合う。滑るような視線でもない、頭の上を通り越えたり、体を貫くような視線ではない。ただの「おれ」しか知らなくて、それを見る。それが、とても可愛い。
今の部下の一人からは野良猫なんて拾うもんじゃないと忠言を受けたけど、おれが拾ったのは野良猫は野良猫でも、この猫。今ここでおれを困らせる一匹の命は、この猫だけ。
外では冗談も言えないおれが、家ではこんなにだらしなく笑っているのが見つかったら。どんな表情をされるんだろうな。それを想像するだけで楽しくなった。
きみがずっと拾われない野良猫で良かった。汚れていて、痩せっぽちで、甘え方を知らない、道行く人から目をそむけられるような存在で、本当に良かった。ありがとう。これからも大切にするよ。

2+

【小説】野良猫の詩

この人、きっとぼくを拾うだろうなあ。

ひとりに飽き足りた目をしているもの。着こなしたスーツ。ひとつひとつの仕草がさまになってる。嫌悪感を抱かせない顔つき、表情。かっこよくて優秀で誰からも指図されたことがなくて憧れられるばっかりで。そしてそのことを一度も責められもしないで生きてきたんだろうなあ。いるよね、持っちゃってるの。産まれながらに備わってるの。そういう人種の最大の悲劇は共感者のいないこと。優しさも思いやりも裏があると思われちゃうんだよね。うん、うん。じゃあ未知だよ、未知。ぼくが新しい扉ひらいちゃうかもね。自分の血とかちゃんと見たことある?まあ、こんな完璧な人間を傷つけようとする輩はいないか。たとえばさ、差し出した料理を皿ごとひっくり返されるとか、おまえだけは許せないとか理不尽に除外されるとか、自分の持てるすべての資産能力なげうっても満足してくれないやつがいるとか、そんな経験ある?ないよね。それ全部全部叶えてあげるよ、これからは。手加減なしだよ。邪魔のない世界には飽きたんだよね。そんな顔だよ。簡単に許されることに、何をしてもしなくても受け入れられることに、疑問を抱いてもらえもしないで、そこにいるだけでいいと言われ続けた暮らしも、今日で終わるね。明日から引っかき傷だらけの毎日が始まるんだ。そうでしょ。それしかないでしょ。生きていくために必要なんだよ。誰にも言えなかったよね。罵倒されたかったし裏切られたかったよね。みんなのじゃなくて誰かの特別になりたかったよね。なんなら足蹴にされたかったし顎で使われたかったよね。濡れた毛を乾かしてあげたかったし傅きたい日もあるでしょ。そうでしょ。それ全部全部叶えてあげるよ。初めて満たされるよ。かわいいって、いとしいって、そんな気持ちで毎日はりさけそうになるんだよ。

うん。
この人はきっとぼくを拾う。
きっとじゃない、絶対。

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【小説】ゆめやうつつや

(「分からず屋と小悪魔」の2人で)
ゆめやうつつや

終業式を終えて学校から帰ると金ちゃんがいない。
書斎、リビング、キッチン、浴室、ありえないけど庭、と探す。見当たらない。再び自分の部屋に戻ると、ポケットからスマートフォンを取り出し、登録してある連絡先一覧をながめた。心当たりは三件ほど。もっとも可能性が高いのはあいつの家だ。今日、学校で会った時はそんな素振りしてなかったぞ。だけど、いや、所詮はそういう奴だ。数度目のコールの後、相手が応答した。
「はい、コトリコーポレート。何かお困り事でしょうか?弊社ではお客様のご要望に合わせて多数の良質なソリューションをご用意しております。庭の草むしりから愛犬のお散歩、平穏な家庭の存続を揺るがす不倫問題から国家機密に関わる重要案件まで何なりとご相談くださ、」
「金ちゃん」
慇懃な物言いを遮ってそれだけを言う。
しばらく沈黙があった。
「はい?何とおっしゃいました?」
「金ちゃん返せさもないとぶっ殺す」
今度は間髪入れず笑い声が返ってきた。
しかも長らく止まるところを知らない、こっちの神経を逆撫でするような引き笑い。
「学校一の優等生が本性不穏すぎるんだけど」
「あれさあ、ぼくの」
「え、金ちゃんいないの?」
クラスメイトであるタカナシはまだ笑いながら、いかにもしらじらしく尋ね返す。
「ぼくはあまり人に、特に同年代から馬鹿にされた経験が少ない。それはぼくの実力のためであったりそうでなかったりするんだけど、要するに慣れない反応されるとはっきり言って癇癪起こしそう」
「ムカつくってことね」
「それだ」
「金ちゃん?いるよ。おれの隣で寝てるんだなあ、これが」
その言葉でぼくはスマートフォンとランドセルを壁に投げつけるや、帽子もかぶらず玄関を飛び出した七月の炎天下。

タカナシの家は何でも屋をやっている。嘘か本当か分からないけど、殺人の請負までしてるとか、してないとか。まあ、小学生のたてる噂だから根も葉もない話だってことはままあるだろう。万が一それが事実だったとしてもぼくはぼくのものを取り返すだけだ。
いつかの時代の白亜の神殿みたいな家はどこが玄関なのか分からない。定期的に変わるから。周辺をぐるぐる回ってとりあえず見つけたスイッチを押す。めでたく正規のインターフォンだったようでぼくは室内に招かれる。
タカナシの部屋へ入るのは初めてじゃない。たけどそんなにしょっちゅうじゃない。約一年ぶりに訪れたその部屋は相変わらず整理整頓が行き届いていて嫌味なほどだ。
「ようこそ、未来のプロフェッサー、シノヤマ・マヒロ」
タカナシはそう言って両腕を広げた。
無論、無視。
タカナシはぼくのことを一方的にライバル視している。以前招かれた時は、秘密の発明品とやらを自慢されまくった。アイデアもたくさん聞かされた。その中に夢現機というのもあった気がするけど今となっては名称は定かではない。普段その人が思い描いている妄想を具現化してくれるんだとか。ただし、妄想とは大抵後ろめたさを伴う。そのために使用を控えられては発明する意味がない。よって、妄想をあまり的確に映し出さないよう自動調節機能も付いているらしい。仕組みについては真面目に聞かなかったから分かっていない。とにかく、おせっかいなのかそうじゃないのか曖昧なその機械が完成間近だと言うので特に熱弁されたから、比較的記憶に残っている。
果たしてタカナシのベッドには金ちゃんが寝ていて、ぼくはひとまず安堵する。
「何がしたいわけ?」
遅ればせながらぼくの怒りを悟ったタカナシは広げたままだった両腕を下ろし、申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「父ちゃんからモデル準備しとくように言われて」
「やっぱり、そうか」
タカナシの父親はコトリコーポレーションの代表取締役でありながら、プロのカメラマンでもある。フェチシズムをテーマにした写真が多く、海外で個展を開くこともあるらしい。ことあるごとに金ちゃんを起用したがって、一言で言うなら煩わしい。そりゃあぼくだっていろんな金ちゃんを見たいさ。だけどそれは他人のフィルターを通したものじゃない、断じて。少なくとも、今は。
「そうそう。父ちゃんな、最近は暴飲暴食の光景を撮りためてるんだよ」
「ぼういんぼうしょく」
「金ちゃん上品な気配のする美人だろ?そういう存在が髪の毛振り乱しながら骨つき肉にかぶりついてるとかさ、そのギトギトした肉汁が陶器みたいな肌質の肘までタラタラーっと流れてんのとかさ。はたまたもっと露骨にグロテスクな感じで得体の知れないどろっとしたものを口に運んでチラッとこっちに流し目送ってるのとかさ、そういうの撮りたいわけ。適役だから」
「待て待て。意味がわかんない。いや、意味はわからなくていいんだけど」
「父ちゃんを代理してまとめると、即ちエロス」
「だからって金ちゃん勝手に連れ出していいことにはなんないだろ」
「え?マヒロの家からは了解もらってるって話だったけど」
「マジかよ。また母さんかな。金ちゃんを有効活用することが大好きだから。そこはぼくにも話を通して欲しいのにな」
ぶつぶつぼやいていると、
「まあ、実質所有者はマヒロの母ちゃんってことになるのかな。金ちゃんはおれが電話で呼び出して、父ちゃん来るまで待っててもらおうと思ったんだけど、寝ちゃった」
信じらんねえ。
ぼくのいないところで。
ぼくのあずかり知らないところで。
誰でもない、金ちゃんに対して苛立つ。
ぼくが同じことをしたら金ちゃんは質問攻めにするくせに。なぜだ?って。
なぜだ、なぜだ、金ちゃん、なぜだ!
深呼吸を繰り返して何とか気持ちを落ち着けたぼくは、金ちゃんの眠るベッドの傍に跪いた。
すよすよ安らかにお眠りやがって。この、この。
タカナシが悪の手先だったらどうするんだ。この分からず屋め。ばか、ばか、寝顔もきれいでかっこいいな、くそ。
恨めしい思いでその髪の毛を指先に巻きつけて軽く引っ張るなどしていると、睫毛が震えて覚醒しそうになるけど、たちまち睡魔に引き戻されていく。
「へんな薬でも飲ませたんじゃないの」
顔を合わせずタカナシに言ってみるが適当にはぐらかされる。
二十分ほどそうしていると家の中が騒がしくなったように思え、振り返ると部屋の入り口にガタイのいいヒゲ面の男が立っていた。タカナシの父親だ。ベッドの上の金ちゃんを見つけると「おお、おお」と謎の呻き声を上げながら近づいてきたが手前でぼくの存在に気がついた。
「おお、篠山さんのところの真尋くんだね。大きくなったね」
「こんにちは。お久しぶりです。おじゃましています」
「君も、見て行くかい?そろそろ薬も切れる頃だろう」
やっぱ盛ってんじゃねえか。
ぼくの不満に気づいたヒゲ面が「大丈夫。美と健康には害がない」と意味不明なことを言う。誰もそんなところの心配をしていたわけじゃない。
悶々していると、金ちゃんの瞼がゆるゆると持ち上がった。操られているみたいなぎこちない動き。見慣れた赤い瞳が金魚の尾鰭みたいに頼りなくふるふる小刻みに震えた後、ゆっくりと焦点を結ぶ。普段の動きをスローモーションで見ているみたいに、それはいつもの金ちゃんでありながらまったく新しい金ちゃんだった。
金ちゃんが非常にゆったりとした動作で上体を起こした頃、ヒゲ面はネクタイの裏から甲殻類を取り出した。
昆虫のような、水辺の生き物のような。シーツに放り出されたそれは、まだ蠢いている。金ちゃんが摘み上げて舌ですくい上げるように口の中へ。ろくに咀嚼せずほとんど一気に丸呑みする。喉仏が異様な出っ張りを繰り返すのを見た。
お次はシャツのポケットから、何やら黒い果実。両手で割ると透明な粘液とともに小さな種が無数に溢れ出す。金ちゃんは一粒も残さないよう舐めとる。だけど液体の溢れかたが速くて間に合わない。ベッドから降りて床に這いつくばる。金ちゃんはまだ眠そうに瞬きを繰り返す。それもヒゲ面が言っていた薬の影響なんだろうか。
開け放たれたドアの向こうからは一頭の獣が現れる。毛が白く、額には真っ直ぐなツノがあって、作り物なのか幻なのか分からない。剥製めいている。金ちゃんが手を差し出すとそれは思い出したように逃亡を図る。だけど金ちゃんの手はもうすでにそいつのツノを固く握りしめていて、首筋に噛み付かれてしまう。ああ、そうだ、ぼくは忘れていた。金ちゃんのやっていること。獣の体は己の流した血で染まっていく。金ちゃんは勿体無いというふうにそれを吸い、さらに噛み付き、舐めまわし、口を開けてかぶりつく。ぼくは自分の喉が鳴る音、心臓の音を鼓膜のすぐ近くで聞いた。金ちゃんが手の甲で乱暴に口をぬぐい、舌舐めずりをする。その瞳はいつも以上に色彩の濃さを増して、視線に捕まりたくないと思う。なぞられたなら、爪の先で引っ掻かれたみたいに痛む。金ちゃんが腰を折ってぼくの肩に額を寄せる。何事か囁かれる気がして耳を澄ませると、血混じりの唾液の粘り着く音と、首筋に穴の空いた感触が、した。甘美というには鮮烈で、痛みと言い切ってしまうにはただ恍惚に過ぎた。一瞬でだめになる感覚があった。ぼくは怖くなった。金ちゃんの背中を叩いて引き剥がそうとしたけどびくともしなかった。膝を折りながら金ちゃんから離れようとするけど追随は振り切れなかった。ぼくはヒゲ面の構えたカメラのレンズが金ちゃんだけでなくぼくの表情や一挙一動を逃すまいと見張っていることに今更ながら気づいて鳩尾から苦しくなる。
急激な吸い上げのせいに違いない、一時的に血液の出が悪くなった場所を金ちゃんの舌が今度は優しく圧迫してくる。ぷっくり盛り上がった穴の周囲を揉みしだくように円を描いて、懐柔でもしようとしているみたいだ。もしかしたら声が出ているのではないか。ぼくはいつしか金ちゃんにしがみついていた。自分が訴えかける声を聞いていた。こんなのは自分じゃない。そう考えようとしても現に感じることは偽れなかった。すり替えられなかった。
シャッターの音が近づく。タカナシが笑う。笑っている。大人みたいに。間隔が狭くなる。それはやがて雨が窓ガラスを叩きつける音になってぼくを現実に引き戻す。

しまった、寝ていた。

金ちゃんは頬杖をついて窓の外を見ていた。
念のため起き上がって今いる場所を確かめる。
大丈夫、ここはぼくの部屋だ。ぼくのベッドの上だ。大丈夫、もう大丈夫。
タカナシ父子も、カメラのレンズも、謎の甲殻類や溢れ出す黒い果実、ツノの生えた生き物なんかも、ここにはいない。気配もない。
「たくさん雨が降って、気温が下がると良いな」
外を向いたまま金ちゃんが言う。肩にかかった髪の毛の束のいくつかがさらさらとこぼれた。きれい。きれいすぎる。
これは、妄想じゃないよな?
「あついから」
振り返るまで安心できなかったけど、それはぼくの知ってる金ちゃんだった。
「金ちゃん、今日、ひとりでどこかへ出かけた?」
「いや?なぜだ?」
「ううん、なんでもない」
「ずっとここにいたぞ」
「うん、知ってた。だめだよ。勝手に秘密をつくったら」
「理解した。ところで、明日から夏休みだな」
「え?ああ、そうか」
「マヒロと過ごせる時間が長くなることは嬉しい」
金ちゃんを見やる。
白い。
赤い。
何も変わっていない。
「今まででいちばんいい夏休みにするぞ」
金ちゃんは暑さにめっぽう弱いくせに、はりきって言う。きっと頭の中はクリームソーダのことでいっぱいだろう。夏と言ったらクリームソーダ。それは他の季節でも変わらない。金ちゃんは目移りするということを覚えない。バカのひとつ覚えみたいに、クリームソーダクリームソーダクリームソーダって。そのうち髪の毛も目も色が変わってしまうぞ。そうしたら、そうしたら、もう遊んでやらないからな。
まあ、いいか。
ぼくは頷きながらもう一度ベッドに体を倒す。
目を開けたら金ちゃんが別人みたいになっているかも知れなくて、ぼくがその考えを捨て切れないせいで、会話はそれ切り。
夏の午後、昼寝なんてするもんじゃない。
これだけぼくをおびやかしておいて一個も罪のない金ちゃんがどこまでも恨めしかった。

タカナシのろくでもない発明品なんか、そのうちぶっ壊してやる。

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【小説】分からず屋と小悪魔

金ちゃん。という名前だからって金時豆が好きとかいうわけではなくって金ちゃんの好物はメロンクリームソーダ。食玩みたいにいかにもメロンクリームソーダメロンクリームソーダしたメロンクリームソーダ。毒みたいな緑の液体に言い訳みたいに真っ白なアイスが浮かんでて、てっぺんから少し傾いたところにこれまた毒みたいに赤く色付けされたシロップ漬けチェリー。

金ちゃんがうちに来たのは今から七年前。ぼくが生まれた年の夏。
ぼくの善良なる両親は金ちゃんがいろんなことを一から学べるようこの家に招き入れ自分たちの庇護のもとに置いた。金ちゃんはぼくのことをぼくがオムツを履いていた頃から知っている、ということになる。それが今後ぼくにとってどのような悪影響を及ぼすことになるのか今はまだ知る由もありません。考えたくもない。
金ちゃんは白い。髪が白い。睫毛も眉毛も白い。肌も白い。陽に当たっても焼けないし赤くならない。化粧品メーカーに勤めるお母さんは金ちゃんの皮膚組織について研究をしている。まだ謎が多いらしい。
金ちゃんの目は赤い。水槽で飼っている金魚のお腹みたいに丸くて赤い。まあ、だから金ちゃんというわけでもない。金ちゃんは銀の次世代ハイブリッドバンパイアだから金ちゃんなのだ。それは型番の呼称なのだ。個体識別のために別名をつけてもいいけど、なんとなくそのまま金ちゃんと呼んでいる。親戚のおばさんなんかもそうだろう。小さいころの呼び名はそうそう変えられない。
金ちゃんは見た目二十歳くらいに見える。ぼくがハイハイしてる時からそうだったからこれからもそうなんだろう。ぼくはいつか金ちゃんの背丈を追い越す日が来るんだろうか?
金ちゃんは「なぜ」ばかり言う。
なぜそうしたいのだ?
なぜそんな顔をする?
なぜそうだと言わないのだ?
なぜ、なぜ、なぜ?
金ちゃんにとってぼくの、ぼくたちの行動は、矛盾だらけで不可解なことばっかりらしい。一番おかしいのはそれを疑問に思わないひとや、少なくとも口にしないひとが多いこと。説明を求めると呆れたような困ったような表情を浮かべること。そしてそれは意地悪な気持ちからくるのではないこと。みんな本当にそうなのだ。

さいきん金ちゃんは衝撃的な事件に遭遇した。
ぼくが初恋に落ちたのだ。
そういえば、なぜ恋は「落ちる」ものなのだろう。他に「落ちる」という言葉を使うときといったら、奈落の底に落ちるとか絶望の淵から落とされるとかあまり良いイメージにつながらないことが多い。誰が最初に「恋に落ちる」なんて言い出したんだろう。
ちなみにぼくの初恋は友達から言わせたら「かなり遅い」ほうらしい。早い人だと記憶が始まったころに落ちることもあるらしい。でもそれってなんだかうさんくさくない?いいけど。
以来金ちゃんはぼくを観察するようになった。尾行はもとより、細かい質問が多くなった。お風呂も毎日一緒に入るようになったし部屋のゴミ箱を漁られるようになった。金ちゃんみたいなことするひとのことストーカーって言うんだよと教えたら、マヒロから話してくれればこんなことはしなくて済むのだがなと舌打ちされた。金ちゃんはさいきん舌打ちが多い。どこで覚えたのだか。
ぼくの初恋の相手がぼくとは五倍以上年の離れた女教師だということは金ちゃんにはすぐにバレてしまった。
その女のどこがいい?と真顔できいてくる金ちゃんは冷やかし目的ではないので、「顔だ」と大雑把に答えた。
回答を得た金ちゃんは思案顔でだんまりしていたけどしばらくして「俺の顔は嫌いか?」と質問を切り替えて来た。なんでそうくるかな。あー、とぼくは唸った。俺は今マヒロを困らせているんだな?と金ちゃんは念を押すように詰め寄って来た。その問いには答えず、
「金ちゃんはね。かっこよすぎるんだよ。いわゆる美形ってやつ。万能的な美だよね。ぼくは生まれたときから金ちゃんの顔を間近で見てるから、かえって正反対のものに惹かれたのかもしれないな」
「みんながマヒロを羨ましいと言ったぞ。俺と一緒に暮らせて良いなあと言っていた。なぜマヒロは嬉しくない?俺の顔では幸せになれないか?みんながマヒロになりたいって思うのに?」
「嬉しくないわけでも幸せになれないわけでもなくて、ようは見慣れちゃってるんだよ。金ちゃんは左右対称だしお肌にはシミひとつないし切れ長の目もすっと通った鼻筋も素晴らしいと思うよ」
「そうだろう、そうだろう。しかも俺はマヒロのことを誰よりもたくさん知っているぞ」
「そうだね。でも、だからってぼくが金ちゃんのことを、金ちゃんがぼくのことを好きになるように好きになるとは限らないんだよ。人間ってそうなんだよ。バンパイアにはちょっと難しいかな」
「む。バカにしただろう」
「ちがうの?」
「確かに、バンパイアはわからない。人間はへんなところでいきなり行動したりかと思えばためらったり、それは必要なことなんだと言い張ったり、急に無気力になったり、もっとニュートラルに自分を信じられないのかと思う。たとえばマヒロは俺の気を引くためにそんなことをしている可能性があると見ることもできる。女教師はただの出演者であってマヒロは無意識のうちに自分を偽ってあの女を好きだと思い込んでいるだけで真の目的は俺をやきもきさせたいだけだろう?現に俺はやきもきしてきたぞ」
「ちょっと何を言ってるのか分からないな」
「分からないわけがないだろう。それも演技だ」
「どうしちゃったの?なんだかおかしいよ、金ちゃん」
ぼくが金ちゃんのおでこに手をあてると金ちゃんはビクッとして三歩後ずさった。信じられないことでも起こったように目を見開いてわなわなと肩を震わせてその後で悔しそうに目を細めた。赤い瞳の輪郭が、暗闇でたった一本の最後のろうそくのように頼りなく震え始めて、潤んできた。言いたくないけど言わざるを得なくて言うときの表情を浮かべる。
「え、英単語を」
「うん?」
「マヒロが試験前に英単語を暗記するだろう。真剣な目で、他のことを無視して。おやつを片手でつまみながら、食べカスが服に落ちても気づかずに」
金ちゃんはどうやらそのときのぼくをつぶさに観察しているらしいと思しき描写がその後も数分続いた。中断させずにひたすら吐き出させる。金ちゃんはうつむいたり身振り手振りをつけたり、英単語を暗記するぼくがいかに真剣で脇目も振らず集中しているのかについて熱弁する。あの手この手で。
最後に本音をポロリと付け足すんだ。
「だから、英単語を覚えるみたいに、俺の好きなところをひとつずつ見つけて、覚えて欲しい」
ぼくは吹き出しそうになるのをこらえる。金ちゃんがめんどくさくてかわいくて。こいつぼくのこと大好きじゃん。だけどここで吹き出したら一週間はヘソを曲げるだろうことが容易に想像できてそれはぼくにとってもありがたいことじゃないので堪える。
「へんな金ちゃん。ひとつも何言ってるのかわかんなかった」
「こんないろいろな気持ちになるとは思わなかったんだよ」
一度素直になってしまえばやわらかいのだ。金ちゃんはしゅんしゅんと音が立ちそうなほど萎れて頭や肩からはぽっぽっと小刻みに湯気を出している。みたいに見える。血が通っていたら目の周りもほっぺたもいろんなところが赤くなるんだろうな。
「ばかだね、金ちゃんは。ちゃんと正解にたどり着いたのに、弱みをさらして」

ぼくは初恋に落ちたりしない。
女教師は単なる出演者。実在しない。
金ちゃんだけ大好き。
金ちゃんが悪いんだよ。
はやくおとなになりたい。
「ひっかけたな。メロンクリームソーダを食わせろ」
「はいはい」
だけどこの気持ちはまだ秘密のままにしておく。
「さくらんぼはぼくにちょうだいね」
だって、いろいろ使いようがあるだろう?
何も分からない分からず屋の金ちゃんは戸惑いながら頷く。
それを見てぼくはにっこり笑う。
よくある日常。
これがほかの誰かのものでなくて、本当によかった。

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【小説】いちゃいちゃしてるだけ

きみを嫌いになった。悲しくなった。自分が自分じゃなくなったみたいだ。治らない傷跡に思い出を隠して縫った。異物じゃないから吸収してね。そのまま埋もれてねって唱えながら。トランクケースを開けたら海につながっていた。ワンルームに海水が流れ込んでくる。いろんな物がぷかぷか浮いて、何ならカモメの声までする。きみはどこまでも頼りがなくて嘘ばかりつく。頑固だし。機嫌が悪くなるとすぐ物を投げる。真夜中に僕を呼び出してお粥をつくらせたこともあったな、そう、あの時は熱が高かった。きみはろくに視線を合わせなかった。テレビをつけたけどおもしろい番組やってなくて名前も聞いたことない山岳地帯に暮らす山羊の親子をずっと眺めていたらきみが言った。海に行きたいって。
「関係なくない?海」と僕。このタイミングで。だってテレビでは、山羊を。「どっか行け、ばか」ときみ。まあ、たいていの理不尽には慣れていたしその時の「ばか」には感情がこもっていなかったからかえってからかいたい気持ちになったんだ。
「ほんとにどっか行っちゃうからな」。「そう言っただろ」。「僕がいなくて生きていけるとでも」。「死ね」。「お粥もつくれない人間が」。
ガゴッ。
これは僕のおでこに、飛んできた器が当たった音。
今度こそビシッと文句を言ってやろうと顔を覗くと潤んだ目は僕をしっかり睨んでいた。
わけがわからない。なぜ僕のことを睨む。そんな理由がどこにある。
二人はしばらく睨み合ったまま膠着状態となった。
そのうちきみの目から漫画でしか見たことない量の涙がぷかぷか溢れて本当に、ぼたぼたと音が鳴るくらいベッドのシーツに落ちたから、まるで僕は自分が殺人鬼にでもなった気がした。だって、急に。きみが泣くから。嫌いになったって言うんだろ。嫌いだなんて言ってないだろ。か細い声に慌てて僕はそう答える。きみは僕よりはるかに混乱しておりこれまで開くことのなかった箱を開けて見せる。

「じゃあ桜でいい」。

僕に対するお伺いなのか、いやいやお伺いなんか立ててくるような人物ではなかった。
獲物を仕留めた肉食獣ってこんな気持ちなのかなって、腕の中ですやすや寝るきみを見て思った。

でも僕は肉食獣になれない。

きみが嫌いだった。すぐに物を投げるし自分の非を認めないし、わがまま。入れ替わってやりたい。それでも僕がどんなにきみを気にかけているか知らない。僕になって思い知ってみろよ。こんなにも離れられない自覚があって、溺れそうになるんだ。嫌いになった演技はそれを強めるだけだった。なんであんなやつお前が面倒見るの。みんなそう言うよ。それも聞いとけよ、僕と入れ替わったら。わかんねえんだよ。勝手に構っちゃうんだよ。僕の代わりに答えとけよ。教えてくれよ。

春夏秋冬。桜でいい、は、きみのせいいっぱいの譲歩だった。駆け引きはやめる。そんなことしてる時間はない。きみがするなら僕はしない。海水を溢れさすトランクケースを足で蹴って閉めたら、すぐに行く。果たしてきみはベランダに立って、僕の帰りを待ちわびていた。エレベーターを待てなくて階段を駆け上がる。トランクケースが角に当たってがこんがこん音を立てる。スニーカーを脱ぐのももどかしくて土足で部屋にあがる。駆け寄るなんてプライドが許さないきみに覆いかぶさる。むぐう、と呻き声が聞こえたけど幻聴だよね。僕の呼吸がうつってきみも激しくなって「いいよね」ってスウェットの下から手を入れたら熱いから嫌だと叩き落とされた。二人は黙って息を整えてどちらかはどちらかのためにまた泣いている。約束はしない。守らなくていいことなんかひとつもないから。腕の中で笑った、きみの声がする。何あのトランクケースは、って。知るか、そんなこと。嫌いになった。大嫌いだ。かぶせるように言い合って僕たちは永遠に入れ替わることのないお互いの体を自分の魂みたいに抱きしめた。

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