【小説】そして明日も

まぶたがひらく。どうか、あなたの目に初めて映るぼくが、嫌悪されませんよう。人はだんだん欲張りになる。少なくともぼくは、あなたに対し、そうなっていく。明日は指先が少しでも動きますよう。唇がぼくの名前を呼びますよう。起き上がり、光景を視野に入れ、認識し、つたなくも笑いますよう。ちぐはぐでも良い、文法の乱れた言葉を発し、空腹を訴え、無意味に唇を舐め、食べたいものが分かりますよう。でたらめな歌を歌い、やがて退屈になり、疲れたなら午睡し、日が陰る頃に目を覚ます。毎日予想外のことが起きて欲しい。ぼくが思いつかなかったあなたでいて欲しい。そんな日は来るだろうか。そんな日だって来るだろう。来るんだとしても、まだ先になりそう。でもぼくは決して希望を捨てたりしないのだ。なぜか?それが、ニンゲンだから。ああ、また、ミス。もう何体目か分からない。惜しかった。ざんねんだ。修正不能のあなたを消去する。重ねた思い出の上で眠りにつく。この記憶はゆうに致死量を超えている。

1+

【小説】リスタート

ごつごつした木の根がのびてきて、ぼくとぼくの大切なものをばらばらに取り込もうとする。だめである理由を正確に伝えないとここから逃げられないのに、まちがうことが怖くて伝えられなくて、貴重な時間はどんどん過ぎてく。

ゲーム・オーバー。

救いのない現実を、どこか美しいものであるように、とらえようとした、ぼくたちへの罰だ。きっとどんな意思も介在していないんだけど。

服を脱いだマネキンの森を、きみとぼくとは疾走してきた。疲れも感じず。ふたりだからどこまでも行けるんだと思った。大量生産されたマネキンの中に、よく知った顔を見かけた気がした。だけどすぐに流れ去った。森を抜けた。

辿り着いた先には何もなかった。途中で思い出を落としてしまったんだ。戻ろうか、いや、過去は危険だ。ここにいたらいいよ。ここがいちばん安全だよ。そう言い聞かせながら、ぼくを寝かしつけたあと、きみはひとりマネキンの群れに帰る。明日のぼくが駆け抜けるための森を大きくするために。やがてぼくもとらわれてしまうんだろうか。いや、そんな日は来ないように思う。確信はないけれど。もし最初から取り込まれることが決まっていれば、こんなにひどい気分で目覚める朝をいくつも用意しないはずだから。

おはよう。

自分が誰かを確認するためだけに発声する。雨の降らない荒野で喉は掠れている。ああ、ほら、まただ。また、この、スタート地点。投げ出された自分の手の先を見る。きみが、いる。まだ眠りの中。あっちを向いていた顔がこっちへ向けられる。予感はあった。

まるで、鏡を見ているようだ。

「おはよ、ぼく」。今度は、きみを起こすために発声する。今日こそきみを連れ出してやる。これが何百回、何千回目でも、ぼくは決意して起き上がる。

3+

【小説】六月の冤罪

気象庁の梅雨入り宣言から三日目の午後三時、アパートのこの部屋の玄関チャイムを鳴らす者があった。警察かな。おそるおそるのぞき窓から外を窺おうとしたけれど、どうも向こうから指の腹で塞がれているようで何も見えない。まっくらだ。かと言って、このまま出たところで事情聴取されて連行されるだけだろう。はーあ、どうしよっかな。この家に来たってことはベランダ側もマークされてるんだろうし、ゲームオーバーかな。抵抗しても意味がないなら、うーん、もう、いいです。

「はい」。
おれは、ジャージ姿のままドアを開けた。
ら。
「え?」。
天使かな。
「あのさ、ぼくに恥かかせないでくれる?」。
天使が、しゃべった。
どこかで見たような。かと言ってこんなに、いっそ凶悪なまでにかわいい子をおれは一瞬だって忘れていられるだろうか、いや無理。じゃ、初対面なんだ。不思議となつかしいのはあんまりその顔や姿が好みすぎておれの頭が麻痺してるせいだ。
「ん?」。
「ん?じゃ、ねえよ」。
「かわいいのに怖いとか最高に好きなんですが」。
「能天気かよ」、と言いながら天使はおれの家にずかずかとあがりこんできた。純白のウエディングドレス姿で。衝動に駆られてドレスをめくると、足元はコンバースのスニーカーだった。
顔面を蹴り上げられて鼻血が滴る。
おれが何をした?いや、したけども。
「アダチの家で余興やるって言ったじゃん。ぼくがジュリエットするから、おまえロミオって設定だったじゃん。待ち合わせ場所指定したよね?時間もちゃんと!それなのにおめーが来ねえからぼく変態だったよ?」。
すこぶる。
「ごめん、すこぶる話が見えない。どういうこと」。
おれがしらばっくれているとでも思ったか、天使は「ぐぐぐ」と言葉に詰まった。
なぜおれがしらばっくれているのか、その裏でどんな言い訳や企みを思案しているか、見当をつけようとしているようだった。
いっさいないんだけども。そんなもの。
「…ひとちがい、じゃ、ないかな…」。
ようやくそれだけ振り絞ったおれのほっぺたにすかさず往復ビンタが飛んでくる。さすがおれの天使、手が早い。
「もういっぺん言えるか?」。
胸ぐらを掴まれたおれは「うー」と唸って考えているふりをしているんだけど、それは天使が考えているような理由じゃないだろうと思う。おれは、どうすれば一秒でもこの時間を延長できるかというそのことばかりを考えていたのだ。

「…ひとを、ころしちゃって…」。
「は?…なんで?」。
「…生きててもしょーがねーやつだったから」。
「…ふうん」。
「お金、ちゃんと、ためられないし。彼女も、つくらないし、仕事も、できねえし」。
「…うん」。
「そのくせ、自分よりがんばってるやつが評価されてんの見て妬むし、救いようのねえやつ…」。
「…」。
「紐で、首絞めた」。
「…うん」。
「…そして、どうしたら逃げ切れるか、考えてた…」。
「…」。
「でも、なんか、もう、疲れて…」。
「…」。
「さっきのチャイムも、警察だと思って、開けた…」。

状況が状況だし、俗世で会う最後の天使かも知れないし。
おれが打ち明けている間、天使はただ黙っていた。
もう言うこともなくなってきた頃、天使がすうっと息を吸い込んだ。

「ばかじゃねえ?自分が何言ってるかわかってる?」。
「うん、ばかなこと言ってる」。
「だよね」。
「はい」。
「死んだら逃げらんないよね」。
「はい」。
「疲れるも何もないよね、死んだら」。
「はい」。
「さらに言えば、自殺って、逮捕されないよね」。
「はい」。
「できねえから」。
「はい」。
「他には?」。
「え?」。
「他に言い残したことは」。
「え、特に…」。
「わかった」。

天使が自分の着ているドレスをびりびりと破り始める。あ、なるほど、ご褒美だな?俗に言うボーナスタイムだな?淡い期待を抱いたものの、その下は半袖シャツだった。

「下は、脱がねえ。おあいにくさま」。
おれの視線で言わんとすることを察した天使はせせら笑う。
「そんじゃ一緒に罰ゲーム受けに行くか。立て」。
「え?」。
「え、じゃねえから。おまえのせいで連帯責任だよ。アダチの誕生日なんだよ」。
ごめんさっきから訊こうと思ってたんだけどアダチって誰。
とは、言える雰囲気じゃない。
「あの、天使ちゃん」。
「ぼくかよ?」。
「お名前、なんですか」。
「好きに呼べ」。
「あの、じゃあ、おれの名前って、なんですか」。
「それぼくが教えんきゃなんねえこと?」。
「いや、答え合わせっつうか」。
「何のだよ」。
天使はおれの手を引いて玄関に向かう。存外強い力だ。
「アダチ、泣いてるから。ぼくとおまえの余興いちばん楽しみにしてたんだからな」。
だからアダチって誰。
「行かねえの?」。
天使が振り返る。
ああ、ほんと天使。
考えるより早くおれの口が動いていた。

「      」。

それを聞いた天使はにっこり笑う。
「そうこなくっちゃ」。
玄関のドアが大きく開けられる。数日間太陽を見ていなかったおれの目が眩しさで一瞬ダメになる。
「そうやって正直に言ってりゃ誰もおまえを怒んないよ」。
だから声だけが頼りだった。
声と、おれの体を前に引くその手だけを、頼りにしていた。

2+

【小説】ハミングのないピクニック

「それほどお腹が空いていなかったのがいけなかった」?

いや、違う。

それほどお腹が空いていなかった時に出歩いたのがいけなかった。

月のない夜に。

ふと、こわいような気がしたんだ。ずっと平気だったことが。どうして平気でいられるのかって。

おれは、なんとなく、それまで食べたもののためにもう一度生まれ直したいような心持ちで草むらを歩いていた。

「痛いです」
みっともなく飛び上がったのは、足元からとつぜん声が聞こえたからじゃない。
月のない夜にもそれがすこし輝いて見えたからだ。
「あなた、今、あたしのこと踏んづけましたよね」
「あん?」
「だったら、拾ってください」
「なんだと?」
「もう一度言います。運命なので、拾ってくださいな」
「あ、はい」

あの時は内心「あさごはん、みっけ!」くらいのノリだった。とりあえずその時は満腹で、だけど朝ごはんはあるに越したことはなくて、都合のいいことにそいつはおれを怖がらないから仕留める必要もなかった。

それがまあ、毛づくろいなんて、されてしまって。孤高の遺伝子が泣くぞ。

崖から落ちる時にすべてを忘れてしまったんだそうだ。矛盾だらけだとしてもおれはそいつが最初に語ったことを信じて、まあそれでいいかって思ってる。嘘でも本当でも。そいつがそういうことにしたかった。じゃあそれが事実だったってことでいい。

おばあさんが死んでしまった次の日、銃をかついだ猟師がやってきて、あの時の恩を返せと言うんだそうだ。いやだと突っぱねるとあっさり諦めて帰るんだが、次の日もまた次の日も来るんだそうだ。

それでね、猟銃を奪って撃ってしまったのよ。なかなかやるじゃないか、心臓か?まさか、左腕一本よ、べつに殺したいわけじゃないもの。まあ、そうだ。そうでしょ?そうだ、おれはその気持ちをとてもよく分かるぞ。殺したいわけじゃないんだ。うん。食べないといけないんだ。食べる?いいや、こっちの話さ。

誰も連れて行ったことのない花畑をなんとなく秘密にしておいたのは、分かっていたから。彼らはおれをこういう目で見る。

(そこへ連れて行ってどうしようと言うの?)

白い花がたくさん咲いたんだ。それを、見せたいだけ。

(嘘をおっしゃい)

ほんとうだよ。

(いいえ、それも嘘。いきなり食べる、つもりでしょう?花だって咲いてなんかいないのよ。あなたが育てた花が咲いたりするもんですか)。

がぶり。

夕焼けから夜になる時がいちばん安心する。
わかるわ。
自分が隠されていく感じがする。
そうね。
もう思い出しているんだろう?
気づいていて?
きみは忘れたりするもんか。
もういいの。
スカートの中に何を隠している?
何も。捨ててきたの。
おれは逃げたりしないさ。
あたしもよ。
追いかけたり食べることには疲れた。
そんなこともあるのね。
いつもだよ。
あなたオオカミには向いていなかったのよ。
そうかもな。
次はきっと平気よ。

おれたちは森で暮らしていた。特別なことじゃない。月のない夜にだけふたりでハミングのないピクニックをした。今までずっと、誰に自慢したこともなかったけれど。

3+

【小説】はじめましてとぼくはいう

その家のドアはいつも少しだけあいていた。こどもの目がひとつ、のぞけるくらい。レモングラスが香って、ぼくは迷わないでいられる。かごに文鳥が二羽いて、まんまるい目でぼくを見ている。呼び鈴を鳴らすと男が迎え入れてくれる。はじめましてとぼくはいう。

お手紙をあずかってきたんです、その、あなたの、たいせつなひとから、それで、ぼく、ここの場所を知って。ぼくがどもりながら経緯を説明する。男は「座っていいよ」と言った。床に座ろうとするぼくへ「椅子へ、どうぞ?」。そのとおりにした。男はハーブティーをいれてくれた。ぼくの向かいに腰を下ろす。そしてようやくぼくを見てくれる。よくきてくれたね。話し出す。ぼくたちは会話をする。未来でもない、過去でもないこと。やがて時はすぎる。男は「もう時間だね」と笑う。その頃には、おたがい自然に笑えるようになっていたので。また会いに来てくれるかな。はい。こんなモーロクに付き合わせて悪いね。いいえ、とても楽しかったです。あと、この香り、好きなので。男は少しだけ寂しそうな顔を見せた。だけどそれは笑顔には変わりなかった。

その家のドアはいつも少しだけあいていた。こどもの目がひとつ、のぞけるくらい。レモングラスが香って、ぼくは迷わないでいられる。かごに文鳥が二羽いて、まんまるい目でぼくを見ている。呼び鈴を鳴らすと男が迎え入れてくれる。はじめましてとぼくはいう。

部屋に通されると、そこには文鳥のように白くて小さな双子がいた。ぼくはいう。はじめまして。女の子はいう。ちがう、あなた、昨日も会った。前も、その前も、そのまた前も。なぜ毎回はじめましてというの?あなたまるで、

そこへ男がやってきてハーブティーを差し出してくれる。悪いね、私の文鳥が、何かきみに言ったのだろう?いいえ、ぼくは首を横に振る。女の子たちは姿が見えなくて、かごの中の文鳥が背中の羽毛にそのくちばしを隠していた。いいえ、ちっとも。だって、そうだろ。おかしな小鳥たち。ぼくがここへ来たのは初めてなのに。それからは優しい時間が流れた。ぼくは男の話にときどき相槌を打った。話は淀みなく続いた。子守唄みたいに。そしてぼくは本当に眠ってしまった。

薄く目を開ける。明け方なのか夕方なのか判別できなかった。時計はないけれど、なんとなく夕暮れ時なんだろうと思った。あたたかかったから。これは、太陽がまだのぼっていない一日の気配ではない。ぼくは唐突に懐かしさに襲われる。蓋をしていたものが、一気にあふれたような懐かしさだ。部屋のドアを少し開いて、向こうから聞こえてくる声を聞き取ろうとする。

おじいさま、ねえ、あの子はなぜ毎回はじめましてというのかしら?あたし、不思議よ。
小鳥の声。
おじいさま、ねえ、そしておじいさまはなぜそのことを指摘なさらないの?あたし、とっても不思議。
これも、小鳥の声。
彼の時間がそのように流れているからだよ。あの子はね、一日終わるごとに命が終わるんだ。そしてつぎ目覚めたときにまた新しく生まれるんだよ。
と、男。
お病気なの。
これは、小鳥。
どちらが?
と、もう一羽の小鳥。
いいや、ちっとも。
男。
お病気なんかではないさ。
ぼくの、男。

ぼくはベッドに戻る。ガーゼにもぐって、今聞いた言葉を忘れるためにもう一度眠ろうと思う。

知っていたのに。

この家のドアがいつも少しだけあいているのも、そしてそれがこどもの目がひとつのぞるくらいの幅であることも、迷わないようレモングラスが香ってきて、かごには文鳥が二羽いて、まんまるい目でぼくを見るんだろう?呼び鈴を鳴らすと迎え入れてくれるのは、女ではなくて男だろう?

ぼくは、知って、いたのに。

男はどれだけ待ちわびただろう。これから先あと何度ぼくのはじめましてを聞かされるんだろうか。そうだ、メモ。メモしておけばいいんだ。この家であったこと、男の話の内容など。それをポケットに忍ばせておけば、見るたびに思い出せるだろう。男に、同じ話をさせずにすむのだろう。

ぼくはふと思い、ポケットに手を入れてみた。指先に折りたたまれた紙の感触があった。取り出してひろげてみる。

てっぺいさん
しゅみはりょこう
とくいなことガーデニング
学生時代もてた
笑うと目がほそくなる
エプロンがにあう
文鳥をかっている
なまえはキラとジジ
どちらも女の子
おしゃべり
話し相手
てっぺいさんは革靴がきらい
汚しちゃっても洗えないから
白いシャツがすき
汚れたことが、わかるから
おくさんは交通事故でなくなった
そのおなかにはおとこのこがいた

そこには、ぼくのものと思われる筆跡で、男に関するたくさんのことが書かれていた。

小さく折りたたんで、ベッドの下へ隠した。それを本当はポケットに入れておくべきなんだろうけど。だけど、ぼくは、好きだったので。男に会うために長い坂をのぼってくるのも。たまにほどけるスニーカーの紐を結び直すことだって。用心しながら電柱を避けたり、塀の上の猫に声をかけて一瞥されるのも。目的の家をみつけて呼び鈴を鳴らす。ドアはいつも少しだけ開いている。ぼくが訪れる頃を見計らって用意された飲み物のにおい。あれは、おかあさんのにおい。男がドアを開ける。はじめましてとぼくはいう。

これ以上の幸福が、あるだろうか。ぼくは知らない。もう一度眠る。また生まれるために。もう少し待っていてね。必ず会いに行くから。たったひとりのあなたに。

2+

【小説】はじまりのあいさつ

あなた、言葉の通じる生き物がきらいなんだってね。言葉が通じない瞬間がわかるから。最初からなければいいんだよね。あるものが壊れることは誰だってかなしいしさみしい。おんなじだよ。ダメになる人間を何人も見てきたよ。世間的には恵まれていてうらやましがられるんだ。時にはあなたになりたいと告げる人さえあらわれる。そうするとだんだんからっぽになって、幸せでなくてもじゅうぶん笑えてしまうんだ。帰り道を忘れてしまうんだ。自分がいつから迷っているのかも。ぼくの素敵なところはあなたなんかこれっぽっちも好きじゃないところ。ただ都合はいいかな。ぼくは雨風を凌ぐ屋根が欲しい。あなたは言葉の通じない生き物をそばにおきたい。不都合はないよね。あたらしいミルクはもういらないよ。何を差し出されなくてもぼくはここにいる。むずかしくない。ただの契約だ。しいて条件を提示するなら、寝ぼけて噛み跡をつけちゃうくらいのことは我慢して欲しいんだ。それから、名前をつけてくれ。あなたの好きなやつでいいから。

3+

【小説】ゆきのこども

夜を一針ずつ縫っていく
これがぼくの仕事
朝になるとぐうぐう眠る
右手の指は藍色に染まってる

次に目覚めたら探そう
これはきみが生まれた夜

お母さんはたっぷり泣いたあと
きみのことをじっと見下ろし
その一度に一生分の愛を込め
雪の中に置き去りにした

きみがこの世で最初に見たものは
自分に向かって降りかかる雪だった
それは誕生してすぐに
ばらばらになったきみの兄弟姉妹

この世界はね
かなしいの
みんなが私たちを見て
きれいだねって言い合うくらい

だからすぐ溶けてしまう
ようにしているの
そんなわけないじゃない
そんなわけないじゃない

きみは雪の声を聴くことができた
それはまだ誰も獲得していない能力で
もしそのまま少年になることができて
望むのならばどんな人の子にだってなれた

数日後きみは歩き出した
野犬がきみを襲おうとしたので
雪の言葉で文句を言った
雪は神さまのものだから野犬は消えた

きみは五歳ではじめて人間に会った
それは知らない言葉で喜びを表現した
男は有名な学者で
きみを街へ持ち帰った

きみにはあたたかな
ベッドとスープがあった
ミルクとフォークがあった
本とソファーがあった

きみの前歯がぐらぐらし始めた頃
きみのお父さんが逮捕された
ある場所からこどもの死体が
いくつもいくつも発見されて

きみは被害者として
保護されそうになった
だからきみは逃げた
逃げる場所はあの森しかない

ベッドを知ったきみに洞穴で眠ることはできない
ミルクを知ったきみに川の水をすくって飲むことはできない
フォークを知ったきみに獣を仕留めることはできない
本を知ったきみに雪の声は聞こえない

そんなわけないじゃない
そんなわけないじゃない

雪はきみを覚えていた
冬のある日ある地域では雪がおかしな動きをした
天から地ではなくて地から天へ降ったのだ
それはきみを軽々と持ち上げて空高く連れてった

きみはもう見えない
木苺が見ていたのに
きみはもうここにいない
冬眠のくまだって春を待つのに

ニュースが流れ
きみは忘れるための儀式にかけられる
独房の男だけがきみを少し思い出した
長い拷問の果てに夢を見ながら

こんな夜でも一針
あんな夜でも一針
ひとりの夜は一針に過ぎない

それ以上になることがない
それ以下になることもない

きみがここへ来てぼくを手伝うのなら
かわりにぼくが行って見てこよう

きみが会えなかったお母さん
きみを守れなかったお父さん
きみに巡り合わなかった初恋の人
きみを知るよしもない未来の伴侶

そうだ、
なんならお気に入りの本をお土産にしよう
あの学者の本棚にあるものにはすべて
何度か目を通しているんだろう?
なあ、何がいい?


……
………

困ったな
無視しながら泣くなよ
いや、泣いていい
泣いていいんだ
今夜は地上で雪を見られる
ぼくにとって生まれて初めてのことだ

6+

【小説】かつて星屑だったもの

汽車はずっと走っているのに、夜ってこんなに長いんだ。
「まるで誰かさんの言い訳みたいだな」。
そう呟いたら狸寝入りから飛び起きて「いえいえ、そんなことありませんよ」ってむきになる。
でも昨日のおまえは?
という質問には咄嗟に言い返せず詰まったあとで改まり「あれはですね、仕事」「ふーん?」「仕事の一環。そう、演技なの」「へーえ?」「そう、だってそれが仕事だから!つくりもの。まがいもの。ね、私情は一切はさんでません。ね、分かりますよね?分かってて言ってんですよね?」、こっちが黙ってるとおまえはどんどん早口になってしまいには泣きそうになるから大の男がやめとけよって慰めてやる。
おまえを選ぶ奴なんていくらでもいるだろうにどうしてこんな意地悪な年上なんかに惚れるかなあ、我が恋人ながら残念だ。もったいない。
「もったいないなんて言わないでください、おれのほうが、おれのほうが、ありきたりの人間なんですから」。
そう言っておまえは座席のリクライニングシートがきしむぐらい全身でのしかかってくるから一発殴ってやった。
小さく息をついてもう一度窓の外を見れば、さっきまでふたりがいた街が光の数珠になって、ぼくたちが捨ててきたものの多さを考えさせる。考えられないからしばらく目を閉じた。だけど光は追いかけてきて、顔ごと背けた。そしたらたぶん良いように解釈したおまえがへにゃへにゃとだらしなく笑った。
(こいつ、ほんと、ばかなんだなあ。)
ある程度の距離まで走ったらおまえを駅に置いて別れるつもりだったけど突如としてぼくの心理を読み取る能力を身につけたおまえに感づかれて阻止された。
今は手首に冷たい手錠。
もう片方はおまえの手首。
鍵はおまえの内ポケットの中。
用意周到にもほどがある。
本当はもっと別の使い方を予定してたんですけどねえ、って悔しがる変態。そんなのおまえ次第だろうが。囁けば耳朶まで真っ赤になって大声で返事をする。
なあ、終わりの気配を感じているのはぼくだけなんだろうか。さんざん馬鹿をやって眠った男に質問を浴びせていると涙が出てきて、またも狸寝入りのおまえに気づかれる。ただし今度は目を開けないまま、ぼくの頬の濡れた部分を正確になぞるから、もう何も怖くなくなってしまう、本当、だめな大人。ほんと、だめな、逃避行。
ぼくたちは光の鎖を断ち切って、無名になれる居場所を求めている。
だけど思うんだ、居場所なんか他所では見つからない、今いる場所がそうなんだから。思うんだ。おまえがいれば、そこが居場所なんだ。少なくともぼくにとってはそうだ。
光の尾を引く願いにも似た祈りにも似た思いが気づかれないよう息をひそめる。
いつだって大げさな男はこんな時だけは何も言ってくれない。
ぼくはこうして人間になっていく。

1+