【小説】はじめましてとぼくはいう

その家のドアはいつも少しだけあいていた。こどもの目がひとつ、のぞけるくらい。レモングラスが香って、ぼくは迷わないでいられる。かごに文鳥が二羽いて、まんまるい目でぼくを見ている。呼び鈴を鳴らすと男が迎え入れてくれる。はじめましてとぼくはいう。

お手紙をあずかってきたんです、その、あなたの、たいせつなひとから、それで、ぼく、ここの場所を知って。ぼくがどもりながら経緯を説明する。男は「座っていいよ」と言った。床に座ろうとするぼくへ「椅子へ、どうぞ?」。そのとおりにした。男はハーブティーをいれてくれた。ぼくの向かいに腰を下ろす。そしてようやくぼくを見てくれる。よくきてくれたね。話し出す。ぼくたちは会話をする。未来でもない、過去でもないこと。やがて時はすぎる。男は「もう時間だね」と笑う。その頃には、おたがい自然に笑えるようになっていたので。また会いに来てくれるかな。はい。こんなモーロクに付き合わせて悪いね。いいえ、とても楽しかったです。あと、この香り、好きなので。男は少しだけ寂しそうな顔を見せた。だけどそれは笑顔には変わりなかった。

その家のドアはいつも少しだけあいていた。こどもの目がひとつ、のぞけるくらい。レモングラスが香って、ぼくは迷わないでいられる。かごに文鳥が二羽いて、まんまるい目でぼくを見ている。呼び鈴を鳴らすと男が迎え入れてくれる。はじめましてとぼくはいう。

部屋に通されると、そこには文鳥のように白くて小さな双子がいた。ぼくはいう。はじめまして。女の子はいう。ちがう、あなた、昨日も会った。前も、その前も、そのまた前も。なぜ毎回はじめましてというの?あなたまるで、

そこへ男がやってきてハーブティーを差し出してくれる。悪いね、私の文鳥が、何かきみに言ったのだろう?いいえ、ぼくは首を横に振る。女の子たちは姿が見えなくて、かごの中の文鳥が背中の羽毛にそのくちばしを隠していた。いいえ、ちっとも。だって、そうだろ。おかしな小鳥たち。ぼくがここへ来たのは初めてなのに。それからは優しい時間が流れた。ぼくは男の話にときどき相槌を打った。話は淀みなく続いた。子守唄みたいに。そしてぼくは本当に眠ってしまった。

薄く目を開ける。明け方なのか夕方なのか判別できなかった。時計はないけれど、なんとなく夕暮れ時なんだろうと思った。あたたかかったから。これは、太陽がまだのぼっていない一日の気配ではない。ぼくは唐突に懐かしさに襲われる。蓋をしていたものが、一気にあふれたような懐かしさだ。部屋のドアを少し開いて、向こうから聞こえてくる声を聞き取ろうとする。

おじいさま、ねえ、あの子はなぜ毎回はじめましてというのかしら?あたし、不思議よ。
小鳥の声。
おじいさま、ねえ、そしておじいさまはなぜそのことを指摘なさらないの?あたし、とっても不思議。
これも、小鳥の声。
彼の時間がそのように流れているからだよ。あの子はね、一日終わるごとに命が終わるんだ。そしてつぎ目覚めたときにまた新しく生まれるんだよ。
と、男。
お病気なの。
これは、小鳥。
どちらが?
と、もう一羽の小鳥。
いいや、ちっとも。
男。
お病気なんかではないさ。
ぼくの、男。

ぼくはベッドに戻る。ガーゼにもぐって、今聞いた言葉を忘れるためにもう一度眠ろうと思う。

知っていたのに。

この家のドアがいつも少しだけあいているのも、そしてそれがこどもの目がひとつのぞるくらいの幅であることも、迷わないようレモングラスが香ってきて、かごには文鳥が二羽いて、まんまるい目でぼくを見るんだろう?呼び鈴を鳴らすと迎え入れてくれるのは、女ではなくて男だろう?

ぼくは、知って、いたのに。

男はどれだけ待ちわびただろう。これから先あと何度ぼくのはじめましてを聞かされるんだろうか。そうだ、メモ。メモしておけばいいんだ。この家であったこと、男の話の内容など。それをポケットに忍ばせておけば、見るたびに思い出せるだろう。男に、同じ話をさせずにすむのだろう。

ぼくはふと思い、ポケットに手を入れてみた。指先に折りたたまれた紙の感触があった。取り出してひろげてみる。

てっぺいさん
しゅみはりょこう
とくいなことガーデニング
学生時代もてた
笑うと目がほそくなる
エプロンがにあう
文鳥をかっている
なまえはキラとジジ
どちらも女の子
おしゃべり
話し相手
てっぺいさんは革靴がきらい
汚しちゃっても洗えないから
白いシャツがすき
汚れたことが、わかるから
おくさんは交通事故でなくなった
そのおなかにはおとこのこがいた

そこには、ぼくのものと思われる筆跡で、男に関するたくさんのことが書かれていた。

小さく折りたたんで、ベッドの下へ隠した。それを本当はポケットに入れておくべきなんだろうけど。だけど、ぼくは、好きだったので。男に会うために長い坂をのぼってくるのも。たまにほどけるスニーカーの紐を結び直すことだって。用心しながら電柱を避けたり、塀の上の猫に声をかけて一瞥されるのも。目的の家をみつけて呼び鈴を鳴らす。ドアはいつも少しだけ開いている。ぼくが訪れる頃を見計らって用意された飲み物のにおい。あれは、おかあさんのにおい。男がドアを開ける。はじめましてとぼくはいう。

これ以上の幸福が、あるだろうか。ぼくは知らない。もう一度眠る。また生まれるために。もう少し待っていてね。必ず会いに行くから。たったひとりのあなたに。

SNSでもご購読できます。