【小説】六月の冤罪

気象庁の梅雨入り宣言から三日目の午後三時、アパートのこの部屋の玄関チャイムを鳴らす者があった。警察かな。おそるおそるのぞき窓から外を窺おうとしたけれど、どうも向こうから指の腹で塞がれているようで何も見えない。まっくらだ。かと言って、このまま出たところで事情聴取されて連行されるだけだろう。はーあ、どうしよっかな。この家に来たってことはベランダ側もマークされてるんだろうし、ゲームオーバーかな。抵抗しても意味がないなら、うーん、もう、いいです。

「はい」。
おれは、ジャージ姿のままドアを開けた。
ら。
「え?」。
天使かな。
「あのさ、ぼくに恥かかせないでくれる?」。
天使が、しゃべった。
どこかで見たような。かと言ってこんなに、いっそ凶悪なまでにかわいい子をおれは一瞬だって忘れていられるだろうか、いや無理。じゃ、初対面なんだ。不思議となつかしいのはあんまりその顔や姿が好みすぎておれの頭が麻痺してるせいだ。
「ん?」。
「ん?じゃ、ねえよ」。
「かわいいのに怖いとか最高に好きなんですが」。
「能天気かよ」、と言いながら天使はおれの家にずかずかとあがりこんできた。純白のウエディングドレス姿で。衝動に駆られてドレスをめくると、足元はコンバースのスニーカーだった。
顔面を蹴り上げられて鼻血が滴る。
おれが何をした?いや、したけども。
「アダチの家で余興やるって言ったじゃん。ぼくがジュリエットするから、おまえロミオって設定だったじゃん。待ち合わせ場所指定したよね?時間もちゃんと!それなのにおめーが来ねえからぼく変態だったよ?」。
すこぶる。
「ごめん、すこぶる話が見えない。どういうこと」。
おれがしらばっくれているとでも思ったか、天使は「ぐぐぐ」と言葉に詰まった。
なぜおれがしらばっくれているのか、その裏でどんな言い訳や企みを思案しているか、見当をつけようとしているようだった。
いっさいないんだけども。そんなもの。
「…ひとちがい、じゃ、ないかな…」。
ようやくそれだけ振り絞ったおれのほっぺたにすかさず往復ビンタが飛んでくる。さすがおれの天使、手が早い。
「もういっぺん言えるか?」。
胸ぐらを掴まれたおれは「うー」と唸って考えているふりをしているんだけど、それは天使が考えているような理由じゃないだろうと思う。おれは、どうすれば一秒でもこの時間を延長できるかというそのことばかりを考えていたのだ。

「…ひとを、ころしちゃって…」。
「は?…なんで?」。
「…生きててもしょーがねーやつだったから」。
「…ふうん」。
「お金、ちゃんと、ためられないし。彼女も、つくらないし、仕事も、できねえし」。
「…うん」。
「そのくせ、自分よりがんばってるやつが評価されてんの見て妬むし、救いようのねえやつ…」。
「…」。
「紐で、首絞めた」。
「…うん」。
「…そして、どうしたら逃げ切れるか、考えてた…」。
「…」。
「でも、なんか、もう、疲れて…」。
「…」。
「さっきのチャイムも、警察だと思って、開けた…」。

状況が状況だし、俗世で会う最後の天使かも知れないし。
おれが打ち明けている間、天使はただ黙っていた。
もう言うこともなくなってきた頃、天使がすうっと息を吸い込んだ。

「ばかじゃねえ?自分が何言ってるかわかってる?」。
「うん、ばかなこと言ってる」。
「だよね」。
「はい」。
「死んだら逃げらんないよね」。
「はい」。
「疲れるも何もないよね、死んだら」。
「はい」。
「さらに言えば、自殺って、逮捕されないよね」。
「はい」。
「できねえから」。
「はい」。
「他には?」。
「え?」。
「他に言い残したことは」。
「え、特に…」。
「わかった」。

天使が自分の着ているドレスをびりびりと破り始める。あ、なるほど、ご褒美だな?俗に言うボーナスタイムだな?淡い期待を抱いたものの、その下は半袖シャツだった。

「下は、脱がねえ。おあいにくさま」。
おれの視線で言わんとすることを察した天使はせせら笑う。
「そんじゃ一緒に罰ゲーム受けに行くか。立て」。
「え?」。
「え、じゃねえから。おまえのせいで連帯責任だよ。アダチの誕生日なんだよ」。
ごめんさっきから訊こうと思ってたんだけどアダチって誰。
とは、言える雰囲気じゃない。
「あの、天使ちゃん」。
「ぼくかよ?」。
「お名前、なんですか」。
「好きに呼べ」。
「あの、じゃあ、おれの名前って、なんですか」。
「それぼくが教えんきゃなんねえこと?」。
「いや、答え合わせっつうか」。
「何のだよ」。
天使はおれの手を引いて玄関に向かう。存外強い力だ。
「アダチ、泣いてるから。ぼくとおまえの余興いちばん楽しみにしてたんだからな」。
だからアダチって誰。
「行かねえの?」。
天使が振り返る。
ああ、ほんと天使。
考えるより早くおれの口が動いていた。

「      」。

それを聞いた天使はにっこり笑う。
「そうこなくっちゃ」。
玄関のドアが大きく開けられる。数日間太陽を見ていなかったおれの目が眩しさで一瞬ダメになる。
「そうやって正直に言ってりゃ誰もおまえを怒んないよ」。
だから声だけが頼りだった。
声と、おれの体を前に引くその手だけを、頼りにしていた。