【小説】人魚の楽園

同級生が人魚になった男子高生の話。

ぼくと暮らす人魚は仲矢という。

高校二年の一学期に人魚になった。上半身はそれまでの仲矢だけど下半身が違っていたから、まあ付き合いづらそうな人も中にはいて(そっちが大多数だったんだけど)、それからぼくと一緒に暮らすようになった。

自転車で片道十五分かけて行ったとこにあるホームセンターから大きな盥を買ってきて縁側に置いている。仲矢は大抵そこにいてぼくが勉強したりゲームしたりぼんやりしているのを見ている。

仲矢、へいき?
ん、少し暑い。

一日の会話がそれきりということもある。

人魚ってもう少しロマンチックなものを想像するんじゃないかと思うがそのへんは割と普通。特別じゃないかわりに呆れるほど普通ってわけでもない。どこにだっていそうな感じ。

おまえはさ、ちょっと狂ってるよね。一見そうとは分かりづらいんだけど。
どうだろ。
絶対そうだって。今だってへんだよ。
へんって?
もっとおれを気持ち悪がるべき。
その期待には応えない。だって。

(「だって」、そのつづき、なんだろ?)。

同級生が人魚になったこと以外に変哲はなかったんだけど、毎夕来ていた三毛猫が寄り付かなくなったのはさみしかったな。それを仲矢に打ち明けてから、三日くらい経った頃か。

月のない夜に仲矢が言った。

「なんか、もう、かえろっかな」。

呟いただけなのに、その声がいつもより響いて聞こえてぼくは思わず顔を見た。

「どこにだよ。そんな場所ねえじゃん」。

自分の声が、怒ってるようにきこえなかったか、少しだけ気になった。

「仲矢。おまえの帰るとこなんかねえじゃん」。

繰り返さなくてもいいのに繰り返した。

「そうだよな。おれの帰るとこなんかないよな」。

そう言って仲矢は、ふはは、と笑った。

その夜はなかなか寝つけなかった。ぼくは自転車の荷台にくくりつけた盥に金平糖をいっぱい積んで走る夢を見た。進めば進むほど盥から金平糖が散らばって、追いかけてくる何かにぼくの居場所を教えてしまう。慎重になる余裕もなくてただ振り返らないことだけを意識した。ペダルが錆びついたように重いんだ。気づけば田んぼに仰向けになっていた。向かい合った太陽が、黒い影に隠れる。手を伸ばしてその影を視界から退けようとする。うまくいかない。影は何かを隠している。それが太陽に重なる。まんまるい。ボール。ああ、バスケットボール。息が苦しくなる。喉の奥から金平糖が湧いて出てとまらない。甘くないとげとげが痛いのに声が出ない。ごめんな、ってその一言が、出てこない。影が笑う。ふはは。

「青春って、こういうこと?」。

はしゃぐ仲矢を荷台に乗せて自転車をこぐ。
夜が明けていく坂道を海に向かって走る。
世界がまだ始まっていないような、ぜんぶ終わってしまったような。
問題だらけなのに、一周回って、もう何の心配もいらないって思えた。

「海、怖いとこだよ。へんな生き物いっぱいいるし。そいつら毒とか持ってるし」。
「かもな」。
「食べるもんわかんなくなっても堤防付近来ないようにね。ほら、釣り上げられたら話になんないじゃん」
「ふはは」。
「だけど、お腹空いてどうしようもなくなったら、あの岩場に来るといい」。
「犬の鼻?」。
「仲矢の好物なんでも置いといてやるよ。なんだっけ?たこ焼き?あ、うまい棒とかのが良いかな。湿気って食べれないか」。
「おまえさあ」。
「うん?」。
「おれのせいでさ、自分のこと責めんなよ」。
「え?」。
「言うほど好きじゃなかったんだわ。バスケットボール」。

仲矢の声はあまりにあっけらかんとして、無責任だ、とすら感じる。

「みんながすごいねって言うからやめなかっただけ。もっとすごいやつなんていっぱいいるし。だけど後戻りできないんじゃないかな、って」。

自転車が小石を踏んづけて、タイヤがみるみる張りを失ってく。
それでもぼくは、ペダルをこぐのをやめない。
決定的に。

「むしろ、誰もきずつけずにやめるきっかけができて、それはそれでよかったなって思ってる」。

決定的に、許されたいだけ。

車椅子に乗って現れた仲矢には誰も声のかけ方が分からなくて、みんなで見えなくなったふりをした。

「てか、食いもんのこととかで気い遣ってもらわなくても結構ですから」。
「仲矢、ちょっと天狗なとこあるから仲間はずれにされないか心配」。
「大丈夫でしょ。海はひろいし。どっかにはおれの楽園くらいあるって」。

人魚の楽園。

か。

その日ぼくは仲矢が潜っていった海を何時間も見ていた。たぶん、なんだけど、タイミングがちょっとずれちゃっただけなんじゃないかな。生まれ変わりって信じる人もいるでしょう?普通は一旦死んだあとに別の命になるんだけど、仲矢はそのタイミングがずれて、生きている間に「生き変わった」んじゃないかな。ぼくは思う。波音はいつまでも耳に残って、受験勉強中も就職面接の最中でも消えなかった。大学入学を機にぼくは島を出てビルの多い街ですっかり暗くなるまで働いている。港まで見送ってくれた友人たちには「おまえなんか三日で帰って来るから」なんて散々言われたけど、かれこれ三年が経つ。島に帰る気は、当分起こりそうにない。

無いものが何も無い街でぼくはふと思い出す。
波の反射や、盥で金平糖を運ぶ夢のこと。
太陽に重なったバスケットボール。
ぼくと違って日に焼けた肌の仲矢が息を吸う。
景色が屋上に巻き戻される。
風。温度。におい。全部ただしく。

「ねえ、一生の思い出つくってやろっか」。
「え?」。
「おまえいっつもつまんねえ顔してっからさ」。
「…なに」。
「うっとうしいんだわ」。
思い出した、仲矢だ。こいつの名前。
「生きてておもしろい?」。
こいつの存在感。
「その顔じゃ無理でしょ」。
こいつの笑顔。
はい、無理です。
足早に立ち去ろうとしたおれに仲矢は言う。

「一生の思い出。おれのこと後ろから押してくんない?失敗しても、絶対誰にも言わないから」。

吊革につかまって車窓から外を見ると、つくりものみたいなピンク色がもうすぐ夜を散りばめようとしていた。家々の窓はすこし光って、すこし暗い。誰かがいる。傷つけながら、愛しながら、許しながら、約束をしている。海の中って、案外こんなかんじかな。ぼくは考えて空を見る。そこに誰かの目があってこっちを向いている気がして、「あっ」、やっぱり目が合う。

あの日屋上で仲矢の背を押したおれが、やっと見つけてもらえたって、安心したようにこっちを見ていた。