【小説】いちゃいちゃしてるだけ

きみを嫌いになった。悲しくなった。自分が自分じゃなくなったみたいだ。治らない傷跡に思い出を隠して縫った。異物じゃないから吸収してね。そのまま埋もれてねって唱えながら。トランクケースを開けたら海につながっていた。ワンルームに海水が流れ込んでくる。いろんな物がぷかぷか浮いて、何ならカモメの声までする。きみはどこまでも頼りがなくて嘘ばかりつく。頑固だし。機嫌が悪くなるとすぐ物を投げる。真夜中に僕を呼び出してお粥をつくらせたこともあったな、そう、あの時は熱が高かった。きみはろくに視線を合わせなかった。テレビをつけたけどおもしろい番組やってなくて名前も聞いたことない山岳地帯に暮らす山羊の親子をずっと眺めていたらきみが言った。海に行きたいって。
「関係なくない?海」と僕。このタイミングで。だってテレビでは、山羊を。「どっか行け、ばか」ときみ。まあ、たいていの理不尽には慣れていたしその時の「ばか」には感情がこもっていなかったからかえってからかいたい気持ちになったんだ。
「ほんとにどっか行っちゃうからな」。「そう言っただろ」。「僕がいなくて生きていけるとでも」。「死ね」。「お粥もつくれない人間が」。
ガゴッ。
これは僕のおでこに、飛んできた器が当たった音。
今度こそビシッと文句を言ってやろうと顔を覗くと潤んだ目は僕をしっかり睨んでいた。
わけがわからない。なぜ僕のことを睨む。そんな理由がどこにある。
二人はしばらく睨み合ったまま膠着状態となった。
そのうちきみの目から漫画でしか見たことない量の涙がぷかぷか溢れて本当に、ぼたぼたと音が鳴るくらいベッドのシーツに落ちたから、まるで僕は自分が殺人鬼にでもなった気がした。だって、急に。きみが泣くから。嫌いになったって言うんだろ。嫌いだなんて言ってないだろ。か細い声に慌てて僕はそう答える。きみは僕よりはるかに混乱しておりこれまで開くことのなかった箱を開けて見せる。

「じゃあ桜でいい」。

僕に対するお伺いなのか、いやいやお伺いなんか立ててくるような人物ではなかった。
獲物を仕留めた肉食獣ってこんな気持ちなのかなって、腕の中ですやすや寝るきみを見て思った。

でも僕は肉食獣になれない。

きみが嫌いだった。すぐに物を投げるし自分の非を認めないし、わがまま。入れ替わってやりたい。それでも僕がどんなにきみを気にかけているか知らない。僕になって思い知ってみろよ。こんなにも離れられない自覚があって、溺れそうになるんだ。嫌いになった演技はそれを強めるだけだった。なんであんなやつお前が面倒見るの。みんなそう言うよ。それも聞いとけよ、僕と入れ替わったら。わかんねえんだよ。勝手に構っちゃうんだよ。僕の代わりに答えとけよ。教えてくれよ。

春夏秋冬。桜でいい、は、きみのせいいっぱいの譲歩だった。駆け引きはやめる。そんなことしてる時間はない。きみがするなら僕はしない。海水を溢れさすトランクケースを足で蹴って閉めたら、すぐに行く。果たしてきみはベランダに立って、僕の帰りを待ちわびていた。エレベーターを待てなくて階段を駆け上がる。トランクケースが角に当たってがこんがこん音を立てる。スニーカーを脱ぐのももどかしくて土足で部屋にあがる。駆け寄るなんてプライドが許さないきみに覆いかぶさる。むぐう、と呻き声が聞こえたけど幻聴だよね。僕の呼吸がうつってきみも激しくなって「いいよね」ってスウェットの下から手を入れたら熱いから嫌だと叩き落とされた。二人は黙って息を整えてどちらかはどちらかのためにまた泣いている。約束はしない。守らなくていいことなんかひとつもないから。腕の中で笑った、きみの声がする。何あのトランクケースは、って。知るか、そんなこと。嫌いになった。大嫌いだ。かぶせるように言い合って僕たちは永遠に入れ替わることのないお互いの体を自分の魂みたいに抱きしめた。