no.186

きみにはわかりっこない。そのことを希望や絶望って呼ばないで。だれともわかりあえっこない。そのことが天国や地獄とつながったりはしない。一度決めたら動かせない。ぼくは冷たいって言われる。それなりに探したこともあった。なぜ同じ時に泣けないの。なぜ同じものに喜べないの。先生の上には真っ黒な墨で言葉があって、それは破裂した瞳みたいだった。分解されてなお集団を見張る強くて不器用な何かの化身だと。ぼくは立ち止まる。まだ流れない。ぼくは歩き出す。やっぱりまだ流れない。血も汗も涙もこの体から出て行かない。一滴も。風が吹いて聞きなれた声が耳の裏でまた囁く。おまえは冷たい。そう。それが、どうした。悲鳴を聞かせたこともないのに。

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no.185

どうしたらいいか分からないんだ。そう言ってきみが引き出そうとする答えは本当はぼくにとって都合のいい言い訳で、それをぼくに答えさせることで楽になろうとしているね。だけど責めるつもりはない、きみはいつもひとりですべて被ろうとするから。雨は。いつか見た星みたいにたくさんの雨は地上に降ってすべての伝言を消し去ってしまう。もうすぐ会えなくなるね、そうしたら名前も、気持ちも、忘れて、それで二度と苦しむことはないのかも知れないけれど、それだけになる。それっきりに。切り刻んだ手首の細かな溝から緑が次々と芽吹いて、次はどんな花が咲くかなって考えているあいだだけ双子みたい。それはどんな色のどんな名前で、あたらしいぼくたちに呼ばれるんだろう。誰もしらない物語を見届けるまで、この恋を愛になんかできない。

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no.184

旅立たなければならない。ここは淡くて甘い。堕落で失う程度のものはもう無いけれど、それにしたってここを発たなければならない。会うひとに会うためではなく、得るものを得るためでなく、その先に何かあってそこへ進むのではなく、泥酔して欄干から身を投げるようにして。眼下の海はいつしか線路に姿を変えるだろう。幻は手品のように量産されて笑い声も掻き消されるから真偽は確かめようがない。大勢が口を揃えて言うことばに、首をかしげることはまちがっている。だったらそれがまちがいじゃない場所へ行くんだ。ただしいもまちがいも。美しいも醜いも。さみしいもうれしいも。憎いも愛も。誰にも委ねることはなかった。それなのにいつからかぼくは委ねた気になっていた。了解が欲しくて頷いて欲しくてさもなくば馬鹿だって言われたくてずっとその目を見ていた。夢はいつも無責任。幸せに死ねる保証なんてどこにもない。だけど死ぬ。ぼくはいつか死ぬんだ。これが恩寵でなくてなんだろう。神さまは、いる。あちらはぼくのこと、なんにも知らないかもしれないけれど。月が沈む。太陽の後を追って。星は誰かに匿われたまま。世界を回す手のことは、まだ見えない。

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no.183

ひとは目に見えないものを馬鹿にすることがある。目に見えるものを過信することがある。目に見えないから「無い」と思うことがある。「無い」ものを「ある」というひとは異端に思われて恐ろしいし不愉快だから排除したりする。目に見えるものに価値を与えないひとはそうでないひとにとって愚かしく見える。そうしながらひとは目に見えない、無数の、名前もないものによって生かされたり死なされたりする。説明のできないものはあってはいけないとする。ひとは確かなことの証明に実存を挙げる。証明とは他人へ対する行為であるから、自分に対しては本来必要でないにも関わらず、それがなければ自分さえ納得させられないひとがいる。自分を他者化して判定を待つみたいに。ひとはいつも許されたい。認められたい。排斥されたくない。誰かといたい。ひとりでいたくない。惨めな思いをしたくない。できないことをできるひとを認められない。ひとに備わる条件すべてに縛られて何か呪っていないと呼吸ができない。きみはぼくのこころを馬鹿にする。ぼくだっていつか誰かの何かを貶したのかもしれない。だけどそれを認めるひとがいたとしたらそのひとは貶されっぱなしにはならない。ぼくの埋められない溝を、きみの認められないぼくを、拾って美しいと呼ぶひとだってあるのだ。ひとはばらばらになれない。願いながらつながっていく。みんな馬鹿なのかなって思うよ。きっとみんな馬鹿なんだ。何も知らないくせに、さあ。

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no.182

ありがとうがさようならにきこえる夜。でたらめなようでそうではない夜。きみがぼくを見ていた。今のではなくて遠い昔の。(と言っても地球の歴史から見たらそれは瞬きにも劣る時間かもしれない)。ぼくはふと、きみに産まれた気になる。錯覚。半分はまだ夢の中にいるってこと。きみはぼくの、まだ今のぼくでないあのころのぼくを見ながらミルクを飲んでいる。たくさんのお砂糖。ぼくは思う。いつか見たのではなかったか。この光景を。誰の視点。誰かの視点で。ぼくを見るように誰かを見ているひとの姿を。それはひとりの青年だった。窓辺に座る母を見つめる、父の視点だった。ぼくは熱の放しかたを知らないで涙を落としていた。ずっと会えなかったみたいだ。一緒にいなかったことはないのに。たった今会えたみたいだ。時を超えて嘘みたいに。朝陽よ、まだ待って。願わくばもう一晩、この幻を繰り返して。泣いたっていい。ずっと切れ端だった。笑ったっていい。結ばれることもあるって知らなかったんだ。

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no.181

今ここでおまえを拾う。いつか私を救うかも知れないから。ふりかえるな、ふりかえるな、終わりあるものはいつも良きものに見えるもの。誤るな、誤るな、それはやがて形を変えるもの。引きずられるな、引きずられるな、それは回復したらやがて飛び立って戻らないもの。それでもいいか。おまえにとっての私がそれでもいいかと、ずっと誰かにたずねたかった。できなくて寝顔に語りかけた。おまえはたまに意地悪で頷く。あたかも夢のつづきみたいに。私はおまえが思うほど軽々しく憂鬱なのではない。そう反論したところで滑稽に映るだけ。だから黙ってただそこにあろうとしていつも失敗をする。おまえはいつも、胸が苦しくなるほどの褒賞をくれる。身に余って歌になる。他人の唇からこぼれ落ちて、どこかの出会わぬ子どもの悪夢を切り裂く光にでもなるんだろう。なるんだろう。私には今、そうとしか思えないのだ。決してそうだと告白はしないが。

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no.180

この手が届いたら消えてしまう
遠くの不安定な稜線をなぞる空の輪郭
僕たちの影はあの日に舞って帰る
だから記憶は鮮明になる
ありもしない思い出を重ねて色濃く
本当の会話は見えない糸になる
だけどそれはしばらく固く絡みついて
忘れただけの僕たち首を傾げる
あちらこちらで号砲が鳴って祝杯
いなくなって初めて名前がついた
伸ばした手の震える指先が今みつかって
まるでかわいそうなものみたいに愛される朝

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no.179

きみがとても大切だから早く消してあげたい。明け方に巻き取られるイルミネーションの檻から。名前がなければ見つけられなかった感情なら霜の下で永遠に眠らせておきたい。繰り返された夕焼けは増殖をカモフラージュして何か食べようとしていたの。そのことに気づかないで悪を笑った幼稚な浅はかさ。人工物の上層階でスケールを盾にして大自然があぐらをかいている。子どもたちの夢や希望は試験管に詰められ査定を待つ。どんな介入にも左右されない真実なんてこの世界にないから昨日も明日もかわいい嘘がつけるってことにもっと感謝しなければ。もう目覚めることのないきみがただ眠っているだけだってどこまでだって自分に信じさせられるって口先だけでも放たなきゃ。蕾開いて光解き放つ。ありもしない束縛を言い訳にはもうできない。すべて平等に孤独で有限。方法を捨てたら遭難はしない。積み重ねで紡ぎ出した正解が明日には裏切るって、教えてほしかったら教えてあげよう。夜明けより早く。ぼくのかわいいきみに。さあ目をあけて。

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no.178

いつか、どれかは最後になるんだ。球体のダイス、クリスタルのルーレット、絵の無いカード、掴めないダーツ。弾き出された確率は夕日が沈んでもゼロにならない。ほぼ確定の事実。こめかみにあてた銃口。躊躇い傷の指先。それでいいか?今でいいか?加工された声が問いかけてくる。かき混ぜられて最初の答えを忘れてしまう。ヴァージンは間違いを知らなかったのに。どうか、どうか誰か決めておくれよ。おいおい、そんな、ご冗談。毎日本気を出すなんて所詮無理に決まってるけれどせめてやる気がないときは寝て回復を待つんだった。後悔も恐怖も見せたくなくて深い森に暗号を隠しに出かけなきゃ。致命傷の罠をくぐり抜けて。あたりまえでいることの手枷足枷を求めて。比較では得られないことばかり。だから誰とも支え合いたくない。探り合いに変わるから。臆病で良い。深みのないままで良い。冷たいことを悟られたくないために棒にふるなんてそれこそ順序の矛盾。まだ残っていれば。仕方なく。思った通りの惨劇が始まろうとしている。緞帳がするすると動き出す。ゆったりと怪しげな音楽。目隠しされた子どもたち。いろんな時代の僕たちだ。好きなものだけ食べて生きていけると信じていた、少なくとも疑いはしなかった、もうどこにもいない、だけど記憶から抹消のできない、厄介で愛おしい僕たち。

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no.177

遠い国の緑の景色の絵葉書はただ手の中。視線と心は東京の夜景に奪われている。舌の上に負った火傷はいつまでも消えないで欲しい。名前も知らない清掃員の背中が流れていく。競馬場で駆け足するサラブレッドが。眩しい駅。離発着する機体。霞もしないツリー、タワー。自分の体だけ移動して、骨の器に血の水槽。魂はダメージ受けないで運ばれていく。無垢でしたたかなまま。向かい合った女の子はいつかの僕。すれ違ったおじいさんはあの日の君。何も手に残らない心地良さはいつまでも忘れられそうになくてこのままひとりぼっちになるんじゃないかと思うよ。複数の笑い声もか細い囁き声も僕が許さないなら触れることは叶わない。何に怯えていたの。何を奪われた気でいたの。そんな形でもどこかで繋がっていたかっただとか眠いこと言うなよ。永遠に会うことのない僕の子どもが黄色い線の上に立っている。山手線は絡まるゆりかご。目に見えないあやとり。無臭の雑踏。明日には変化する広告。たくさんの未知なるもの。あのひとも、そしてあのひとも。足し算と引き算で切なくなれる。透明でいて単純だ。事は、そう、透明でいて単純なんだ。贈り物のマフラーに顔を半分隠していると、ほら、あたたかい。半分だけでいられることはなんてあたたかいんだろう。この距離を変えたくない。空は繋がってなんかいない。僕たちが動いた分だけ切り取られる。直線で切り取ってパッケージに詰めたら独房に差し入れて、もう少し身代わりを頼んでみよう。お願いだ、お願いだ。

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