No.692

ぼくを拾った冷たい手がいつか本当に冷たくなって、あれは冷たさじゃなくあたたかさだったと気づく。

真実はなぜ発覚を遅らせるのだろう。あえてのように。ぼくがぼくに夢中だったせいだろうか。死ぬまで居残るつもりだろうか。

ひとつの音もきこえなくなった朝、完璧に生まれてくるものはない。ほくがきみに差し出したもの。受け取ったきみが完璧にしていた。

ひとりでは何もなし得ない。呪うくらい。涙するくらい。眠りから覚めようと思うとき、いつも像が結ばれていた。本当にあるかどうかに関係なく。信じ抜くかどうかにだけかかっていた。

暗闇に囲われたワンルーム、視線の先に青の灯台。知るためじゃない。知らされているのは、ぼくたちの存在。放っておいてもらえずに、だけど許されているのはぼくたちの実在。

(しみてもいいかい?)

知ってる、懐かしい声がする。知ってる、ぼくは、これの、名前以外はぜんぶ知ってる。

(いいよ。しみこんでいいよ)

目視を怠り、ぼくは答える。どうせ何も見えないのなら。命しかない夜に、きれいごとの覚悟を放り投げて。

2+

No.691

みんなで明日を聴いていた
野良猫たちが集まって
にんげんの男の子がひとり
ねこへ戻れなくなってしまったんだ

なぜか?
ひとがひとりが減ったからだ
野良猫は補充要員だった
この世ではあまり知られていないが

反対車線で
水中で
通りすがりに
ザラザラのロープで

ひとが減るたびにいっぴき
野良猫が消えていく
ごめんねみんな
ぼくおまえたちを忘れてっちゃう

野良猫たちは返事する
なーうなうなうなーう
忘れなくちゃうそだよ
それでだいじょうぶだよ

二本足で駆けていく
男の子は振り返らずに
月のような瞳で
蕾のようなほっぺで

1+

No.690

空から星がすべり落ちる夜、だいじものは変わることもあると気づいた。さよならを悲しむ人がいるけれど、さよならさえ言えずに会えなくなる人って案外おおいよ。今夜も、明日の夜もだ。また会おうね。って、手を振って永遠に別れていく。汚れたぼくは冷たく清潔なシーツにくるまって、つけっぱなしの液晶画面が照らし出す横顔を見ていた。ぼくが見ているおまえの横顔は、内面の一番外側なんだ。にじみ出る、とか言うけれどそうじゃない。内面そのものなんだ。懇願するカウントダウン。間に合わなければぼくたちは終わる。そんな仮定で見つめていたら、最後の1秒で視線が合った。そのうえ、あなたは笑った。ぼくを見て笑った。ずっと愛していると言わんばかりの。憧れてたんだ、解析しなくても分かる。おまえの目はすごいな。すごいんだな。人間はすごいや。液晶画面がにじんでぼやける。悪い夢を見たんだと仕方のない嘘をついた。奇跡が来ようと来まいと関係ない。ぼくは明日もこの部屋で目覚める。

「野良猫の詩」

3+

No.689

つい昨日だったことがもう百年前になったんだ。恋は事故で愛は覚悟だ。あほか。おまえと会わなけりゃ乗るはずもなかったオープンカーの助手席でそっぽを向いた。新しい港と街が見えるライン。ほんとうに相性いいの?相性、ばかげてる。万一そんなものがあったとしても、いいわけがあるか。後部座席からミモザが舞い上がった。初めての味は美味しくないけど不味くもない。煙草なんか吸っていいのかなあ、優等生が。口では言うけど取り上げはしない。茶化してくる横顔に向かって煙を吹きかけたつもりで噎せた。ぼくの好きな横顔がぼくをからかって笑うのでダッシュボードで火を消してやった。未成年を拉致していいんですかね、公僕が。口にして初めて圧倒的な解放が吹き付けてくる。初夏の海へ向かうんだ。通知表も、おつかいも、宿題も、ごみ出しも、留守番もそのまま置いてって。未来へは丁重に断りを入れて。風に吹かれて、青を捕まえに行く、記録しない記憶、社会のルールを守らない共犯者と、糾弾されても構わない秘密をつくりに行く。

2+

No.688

星をつかまえるんだ
永遠になんて頼らずに
終わりが来ると知るんだ
あの日にちゃんと始まったんだから

願っただろう
祈っただろう
差し出すことさえした
それがなけりゃ鼓動もないのに

きみの針は振り切れがちだ
ぼくの抑制にも敗北せずに
マナーを知りながら崩して座る
ああ、靴底の暗号がよく見えるよ

背中合わせに呼吸を合わせ
切れ目のない罵声の応酬
誰にも険悪の真相を見抜けないさ
ミルクに蜂蜜を混ぜるくらい簡単なこと

すり替わっても気づかない
撫でたのち大胆に触れても
気付いたときの彼らに共通した表情
盗まれたときに持っていたことを知るんだ

4+

No.687

気づかないふりをしてきた
前のめりの体をつなぎとめたもの
あと一歩を踏み出したら続かなかった
衝動をやり過ごさせたもの

今には今の風が吹く
咲かなかった花で冠を編もう
誰もきみにささげなったもの
きみが誰からも欲しがらなかったもの

時々とてももどかしい
時々とても幸せになる
誰もきみに懐かないでいて
きみが誰にも懐かないでいてくれること

お互いにわかっていたね
ぼくらまちがってる
口に出して確かめる必要もないくらい
ぼくら鮮やかにまちがえてきた

つないだ手が血で濡れていた
きみは無言で語りかける
貝殻をのぞいてた頃と同じ目で
諾否はぼくに委ねられた、

夜に立ち向かうサーチライト
すべてを照らせていると思っている
だからあんなに屈託無く明るいんだ
ぼくらは越えずにくぐることを選んだ

3+

No.686

えー、だって冷食は手料理でしょう。屈託のない笑顔で言いながら解凍前の唐揚げを弁当箱に詰めていく。反論を待っているのか、心底そう思っているのか。どうやら後者だったようだ。話題は次へ。自転車のサドルが。すずめが。きのうの飛行機雲が。スーパーで。新しい家が。あ、空をみて。そう言われて顔を上げるが何もない。くまなく目を凝らすがやっぱり何もない。目を細くして睨むとやっぱり笑っている。「聞いてないかと思った」。うん、そうだ、ぼくも聞き流してるつもりだった。「これってさ、愛だね」。愛とかそんな簡単に言うなよ。「かんたんでしょ」。そういえばおまえは出かけることをピクニックするという。それがぼくと出かける時だけの言葉だと知ったとき、いとしい気持ちと申し訳ない気持ちが同じくらいの大きさになって、言葉にならなくて、涙ばかりこぼれたんだった。いつも笑ってるおまえはその時だけはいつもと違う顔で「わるくない、わるくない」と教えてくれたんだった。そういえばぼくも、きのう。空を見たまま話し出す。はなうたが相槌に変わる。なるほど、たまには立場逆転も悪くない。

3+

No.685

夜が終わらない限りそばにいるよ。そんな約束をしたせいで、太陽の芽を摘まないといけなくなった。熱いと言うほどではなく、ほんのりとあたたかい。寝坊した朝のゆで卵のような、忘れられそうな、ぬくもりを抱えている。もしそれを摘まずに残しておいたら、ぼくに新しい道を示してくれるものかもしれない。もしも怯えずに生かしておいたら、やがてぼくを溶かして別の生き物に変えてくれるものかもしれない。だけど約束したからね。したからには果たすのだからね。ぼくはもう子どもじゃない証拠に、夜が明けても離れられない理由を、定義もなければルールもない、くしゃくしゃの愛のせいにすることを覚えた。

3+

No.684

人を救えなくても、世界を変えられなくても、おいしいものを食べたい。だれかが困っていても、ひとが飛び降りていても、ほかほかの焼きたてパンを食べたい。入り江からどんどん遠ざかっていく背中を横目に、加速するアクセル音をききながら、フルーツジュレにスプーンを突き立てたい。金属バットの鈍い音、絆創膏もないのに新しい傷をつくるひと。心はずっと透明なままで、ぼくは、泣きもせず微笑みもせず、ただ、おいしいものを食べたい。きみがぼくを見捨てようとして、でもうまくいかなくて、せめて嫌いになろうとして、どうしても好きなまんまで、同情されながら、自己嫌悪にさえ陥りながら、ぼくを奪えず失恋をする。いいね、興奮する。だけど咀嚼音は拍手ではない。きみがひとりで眠る夜、ぼくだけが知るこのきもちが恋や愛じゃないわけじゃないんだ。

3+

No.683

きみになら分かるよね、そんな目でぼくを見るな。あなたになら伝わるよね、そんな手でぼくにさわるな。何も共感を得たくて秘密を明かしたわけじゃない。雨が降る夜、ビニール傘ににじんだネオンの青に照らされたぼくを、曇天に眠る三日月に恥じたくなかったんだ。(愛し愛されてみたいんでしょう?)。ある特定の答えを信じて疑わない、質疑応答に向き合いたくなかったんだ。ひどい、きみのために、私を傷つけるの?(ああ、)まさか、あなたの満足のために、俺のことを見捨てるの?(ああ、切実に、黙れよ)。久しぶりに全速力で走った後はにせものしか欲しくなくて、ぬいぐるみとだけ手をつないで日付変更線をまたいだ。薬もないのに遠出なんかしたせいで、ぼくは腹部を切り開いてしまう。痛い、きっとそう言いたかったのに。ほろほろ真綿が転がり出てはSOSを跳ね返して光るだけ。

3+