no.164

人を捨てることには慣れているんだと、まるで自分が捨てられたみたいな目をして君は言うんだね。色が変わる瞬間はいつまでも切ない。憧れの女の子が男の子を産んでいたこと。知らなかった。壊れた時計が直っていたこと。知らなかった。山の頂に月が隠れたこと。知らなかった。僕の知らないところで世界は平気で不穏だし幸福。何不自由なく過不足なく円になる。きっと僕でない誰が欠けてもそうなんだろうけど、それでも。握った手が、手を、強く信じたために失った、ともしび、消える、何もかもを置き去りにすることをためらわないまま。月の下で音楽もないまま踊る、君を産んだかも知れなかった。あの時踏み出したなら。あの時視線を逸らさなければ。断ち切ったすべて風によって戻される、浅い眠りの果ての柔らかな光の中、君を呼んで良いの。僕を呼んで良いの。

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no.163

きれいなものにふれていたいな。そう思うことはわがままなの。おもいどおりになれたらいいな。そう願うことは地に足がついていないの。たくさん夢を見たんだ。ピンクや青やオーロラ、お菓子のトリコロール、お金がなくては見ることも叶わなかった風景。その光景の一部になるためなら睡眠を削るくらいなんてことない。誰もが幸せな世界はとても昏くて怖いことだと考えたんだ。ずっと知ってたみたいに湧き上がってくる。あさを何回むかえてもリセットされなくて諦めたんだった。これは来るべくしてきた、遠い誰かの思いなのだと。理由のつかないことって大抵が、そう。誰かがどうしようもなくなって空に放り投げた。落下地点のいちばん近くにいる誰かにあたって、そのひとのものになる。初恋だってそうだと思うんだ。説明されることを嫌うものってのは。優しいことを邪魔だって言いたくないし好きだからって理由だけでたくさんのものを捨てたいし負かしたいし傷つけたい。順番や思いやりなんて言葉も知らなかった頃にかえってスカートの裾をひらひらさせたい。自分だけが味方だった、他の誰もが花に見えて仕方のなかった、あの頃だって悪くなかった。

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no.162

幸せになったら終わりそうで怖いんだ。だからいつまでもそうじゃないふりをして君を怖がらせないといけない。いろんな形があるんだとしても必ずしもすべてに頷いてもらえるだなんて思っていない。線路の上はあたたかいな、いつも人と電気の匂いがする。誰かが何かを届けたかった頃の。剥がれ落ちた瓦礫の匂いも。崩れるものは再生を予感させるからではなくて今その瞬間に何もないから安心させる。遠い空に祈っても目の前の瓶は割ることができない。そういうあたりまえがあるってことを。もっとあたりまえに飲み込めるようでなければ生きてはいけない。胸が痛いなら目を閉じろ。願ったことだけが起こるんだと言い聞かせて。そうすれば星がいくつも流出する。夜の闇のほころびが隠そうとしたのは僕、それとも。

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no.161

私がここにいること
無くなった手の
理由は香りに消える
逃げずに知ること
名前をつけもしなかった
愛とか
置かれた場所で失うのなら
光とか
神さまって呼ぶ暇もなくて
暗号の形でいつもそばにあった
夢とか希望とか
言葉に置き換えたときに
削ぎ落とされるもの
その責任を取りたくなくて
新しいひとりを選ぶの
何度だって
逃げ切れもしないで
雲より高い場所
感じたなら信じるんだよ
生きていることも
ここにいないことも
何に繋がらなくても
誰も知らなくても
ひとりになりきれはしない
悩んでも拒んでも
誰かにとっての私はどこかへ通ずる
どこへでも行けるのと同じくらいに
私にとってすべてはどこかへ繋がる
いま引きとめないのならもう会えないんだ

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no.160

ちいさな棘がかわいいならまだ抜かないで。青い血が流れたら君に星座って名前をつけるよ。へたくそなスピカ。往来に溶け込んで澄み渡っていく。それを聞いた後と前とで何かが違っているんだよ。ぜったいに。ぜったいに。新しい光。古い光。きみが愛したものを次へ回して。まだ誰もふれたことのない僕だけを見ていてよ。倒錯した言葉で意味のないことばかり囁いて。明日の朝はこれまでのどんな日より明るい朝だ。

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no.159

送れなかった手紙の束だけが僕のここにいることを教えてくれる。手に余る重みと切実な筆跡。どんな悪事も時と一緒に流れるなら何も考えずにしたいことをしたらよかった。誰も傷つけない生活にはゴールがない。簡単な言葉を差し出しながら理解をはねのけたい。緑のカーテンを透かして届いたもの。午後二時の空が本当に伝えたいことは僕が感じ取ったこととまったく違うかもしれないのに、同じだったと信じることができる。それが人の強さであり脆さの正体だった。あなたが大切にしているものは良い匂いがするね。今ここにあるよ。

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no.158

揺れる
ドレープのはざま
きみと出会いたいよ
一度迷子になってから

耳と視界をいっぱいにして
時を忘れるくらい
それだけでいい
それだけでいいから

簡単を恥じない
ありふれたものへ溶け込むこと
つけられた名前で呼ばれること
ありうる世界を生きることを

首を横に振ること
死ぬなよって台詞に
もったいぶってはにかめ
僕くらい救ってみせろよ

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no.157

どう生きなかったせいで、きみは何を呪うんだろう。明滅する人工的な青色の中で、どこへ沈もうとして挫けるんだろう。きみの抉られた深い傷ほど、ぼくに安らぎと深い眠りをあたえてくれるものはない。夢の中でもまだ追いかけたい。果てしない風景の中を何かに縋るふりしてどこまでも走りたい。笑われたって。奪われたって。搾取されるたび、いつまでも終わらないものの名前を知ることにつながるだけ、今だってそうだろう?

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no.156

君の歌を好きだって言ったらメンヘラだって笑われるんだ。引っ張って緞帳ごと世界消したいのにそれもステージの上の一人芝居なのかな。絶対安全、溺れることのないプールで誰を待とう。その時間、夕焼けが辺りを囲んでいく瞬間、まるで自分が透明になっていくような感覚、誰にも分かられたくない。分かるわけはない。何も刺し貫いたことなんてないのに。新しいケーキ屋さんで何を買おう。苺のミルフィーユ恐怖症。同じように潰れて擦れたものが隙間からはみ出していたんだ。君はそれを今日のおやつも美味しくいただく。時間を重ねてはいけないふたりなんだと思う。どちらかが無理をして心のどこかで不気味がるような関係はいつか破綻する。でも君に言わせれば破綻は避けて通るものではない。信じるものを決めたくなくて音楽は左へ抜ける。過去から吹く風に押されて。手を伸ばしたくない。時空や世代を超えなくても今ここにあるんだとしても。あと少しが縮められない。躊躇う先にある体がまさにこの時、血の通っていたとしても。憶病者。どういたしまして。君は僕を愛している。馬鹿だよねって問いかけに何と答えたらいいの。この手でつかまえられないものほど無責任なものはない。

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【小説】Untitled

アンは英語のunからとって名付けられた。だけどそのことを本人も周囲の人間も気づかなかった。知る由もなかった。
アンには絵の才能があった。才能というのは相対的なものととらえられがちであるが絶対性があって時代や環境に左右されることがない。アンの母は自らは才能に恵まれなかったが才能の在り処を察知する能力に長けていた、それをどう使うかは人によるが。
私がアンと出会った時、彼は同世代の少年たちの平均よりはるかに低い水準で生活をしていた。身体能力や知能に関しても同じことが言えて、アンは絵筆でしか自分を表現することがなかった。しかしそれは同時に、絵筆による表現を確立していたとも言える。手段として多くを備えていながら表現を行わない人間もいる。かと言ってどちらが人間性に優れているか、劣っているか、という話をしたいのではない。
アンがいかに可愛らしいかということについてのみ話したい。
まずアンは見た目が可愛い。義手の先に取り付けた百の絵筆でキャンバスに描きつける。肩につけた装置を顎でチョン、と触れる操作により、手首の位置で回転することができ、百の色を飛散させながら踊るように描く。思いがけず絵の具が頬に当たった時、その時、アンは笑う。硬質な素材だと思っていたものが、実は軟体であったみたいに、ふわっと、飛べるはずのない生き物が飛んだものを見たみたいに、その都度私は馬鹿のようにいちいち新鮮な気持ちになって目頭をおさえる。
そしてアンには着衣という概念がないから外出時は私が選んだ服を着せる。外では絵を描かないので絵筆は全部はずして置いていく。突起になった手の先を見てアンは毎回ひどく不安そうだ。街路樹の下を歩くことを、ウインドーに映る街や自分を、憂鬱に思わないよう、随所にごほうびポイントを設ける。真冬でも大好きなレモンシャーベットは、アンのコートに時々垂れる。
アンは私を呼び止める。私が私につけた名前で。本当ではない名前で。
そのときに私は知るのだ。まるで知らなかったみたいに。
知っていたくせに。知っていたくせに。

「アン。マフラー。する」。
「何色にしようか」。
「それを。いい」。
「これはコートだよ」。
「アン、同じ色。する。いい?」。
「ああ、この色か。なぜ?」。
「あなた。すき。この色を」。
「そうか。それは知らなかった」。
「アンは知ってた」。

アンについて思うとき、なぜ答えを決めたいのかと思う。なぜ選択肢の前で立ち止まり続けることはできないのかを。表示できない形のまま納得することを。何故できないのかを。
私が逃亡中にアンの家に入ったことはまぎれもなく偶然であったし留守があるなら他所でも良かった。しかし押し入ったのはアンの家であったし二人目はアンの母であった。
似ていると思った。私が勝手に。
老婆を殺害したことが負であるならばアンの母をそうすることで正の方向に値が引き戻されるのだと思った。絶対値は釣り合わないだろうが、一旦正へと戻る。そしてベクトルは正へ向いたままで区切られる。それを期待した。私はつまり悔いていた。あんなに憎んだのならばわざわざ手にかけなければ良かった。そっと離れるべきだった。私は自分が思っていた以上にまともで、発狂などしていなかった。だから最初から壊れていかないといけない。その過程が今になって恐ろしかった。簡単なことではないのだ。何も起こっていない時間に戻りたいとさえ思った。たとえそれが実質の最悪であっても。

アンといると私は知るのだ。私がいなくて生きていけないものは無い。それは手を汚さなくても誰もが生きていける世界。色彩は自由に混ざり合って良かった。綺麗になるために理由はいらなかった。暗闇は駆け抜けても良かったしそのままうずくまっても良かった。光は溢れるから手につかんでも良かったし見ぬふりをしても良かった。ただし何を言ってもアンが首をかしげる。「何があってももう大丈夫だから」と、私の口癖がうつって。

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