【小説】Untitled

アンは英語のunからとって名付けられた。だけどそのことを本人も周囲の人間も気づかなかった。知る由もなかった。
アンには絵の才能があった。才能というのは相対的なものととらえられがちであるが絶対性があって時代や環境に左右されることがない。アンの母は自らは才能に恵まれなかったが才能の在り処を察知する能力に長けていた、それをどう使うかは人によるが。
私がアンと出会った時、彼は同世代の少年たちの平均よりはるかに低い水準で生活をしていた。身体能力や知能に関しても同じことが言えて、アンは絵筆でしか自分を表現することがなかった。しかしそれは同時に、絵筆による表現を確立していたとも言える。手段として多くを備えていながら表現を行わない人間もいる。かと言ってどちらが人間性に優れているか、劣っているか、という話をしたいのではない。
アンがいかに可愛らしいかということについてのみ話したい。
まずアンは見た目が可愛い。義手の先に取り付けた百の絵筆でキャンバスに描きつける。肩につけた装置を顎でチョン、と触れる操作により、手首の位置で回転することができ、百の色を飛散させながら踊るように描く。思いがけず絵の具が頬に当たった時、その時、アンは笑う。硬質な素材だと思っていたものが、実は軟体であったみたいに、ふわっと、飛べるはずのない生き物が飛んだものを見たみたいに、その都度私は馬鹿のようにいちいち新鮮な気持ちになって目頭をおさえる。
そしてアンには着衣という概念がないから外出時は私が選んだ服を着せる。外では絵を描かないので絵筆は全部はずして置いていく。突起になった手の先を見てアンは毎回ひどく不安そうだ。街路樹の下を歩くことを、ウインドーに映る街や自分を、憂鬱に思わないよう、随所にごほうびポイントを設ける。真冬でも大好きなレモンシャーベットは、アンのコートに時々垂れる。
アンは私を呼び止める。私が私につけた名前で。本当ではない名前で。
そのときに私は知るのだ。まるで知らなかったみたいに。
知っていたくせに。知っていたくせに。

「アン。マフラー。する」。
「何色にしようか」。
「それを。いい」。
「これはコートだよ」。
「アン、同じ色。する。いい?」。
「ああ、この色か。なぜ?」。
「あなた。すき。この色を」。
「そうか。それは知らなかった」。
「アンは知ってた」。

アンについて思うとき、なぜ答えを決めたいのかと思う。なぜ選択肢の前で立ち止まり続けることはできないのかを。表示できない形のまま納得することを。何故できないのかを。
私が逃亡中にアンの家に入ったことはまぎれもなく偶然であったし留守があるなら他所でも良かった。しかし押し入ったのはアンの家であったし二人目はアンの母であった。
似ていると思った。私が勝手に。
老婆を殺害したことが負であるならばアンの母をそうすることで正の方向に値が引き戻されるのだと思った。絶対値は釣り合わないだろうが、一旦正へと戻る。そしてベクトルは正へ向いたままで区切られる。それを期待した。私はつまり悔いていた。あんなに憎んだのならばわざわざ手にかけなければ良かった。そっと離れるべきだった。私は自分が思っていた以上にまともで、発狂などしていなかった。だから最初から壊れていかないといけない。その過程が今になって恐ろしかった。簡単なことではないのだ。何も起こっていない時間に戻りたいとさえ思った。たとえそれが実質の最悪であっても。

アンといると私は知るのだ。私がいなくて生きていけないものは無い。それは手を汚さなくても誰もが生きていける世界。色彩は自由に混ざり合って良かった。綺麗になるために理由はいらなかった。暗闇は駆け抜けても良かったしそのままうずくまっても良かった。光は溢れるから手につかんでも良かったし見ぬふりをしても良かった。ただし何を言ってもアンが首をかしげる。「何があってももう大丈夫だから」と、私の口癖がうつって。