【雑記】毛嫌いの弊害

わたしふと思ったんだが、好きなことは好きでよくってそれは疑いようのないことなんだけど、嫌いなものの中でも「毛嫌いする」ってのは時として弊害になるんじゃないかなと。人生において。「食わず嫌い」もそうだな。

というのも、わたしはいわゆる文系で、学生時代も文系科目が全体成績を引っ張ってくれていたわけだが、理数系もできたらいいなとは思っていた。しかし、まあ、苦手ではあった。その延長でExcelとか表計算ツールまで苦手だった。が、さいきん使うようになって気づいた。これさあ。理数苦手なひとほど使うべきじゃね?うん、そうだね。

これから先、言うまでもないことを言いますよ。

こういうツールってそもそも得意な人はまあ普通に使うだろうから良いんだけど、苦手な人こそ使うべきなんだよ。だってさ計算とかめっちゃしてくれるし(語彙力)!今なら関数だってね、もうほとんど何も知らなくても「ああ、それね。ちょっと貸してみ」みたいにやってくれるでしょ?そのさりげなさ、イケメンかな?!Officeソフト擬人化シリーズとか出たら絶対Excelインテリメガネ系なりそうだけどあえてさりげなさイケメンキャラであって欲しいわ。

ん?なので、理数というでかすぎる枠組みに放り込んでしまうのはもったいないんだよ。これは何もExcelのことだけを言うんじゃなくて、意外と私達は必要以上にでかい枠組みで何かを忌避したり嫌悪している。

イチゴのつぶだって顔近づけてよーく見ればひとつひとつ違うんだよ。暇人って言うな。超忙しいからな。同じように、たとえば、雪って漢字にすると一文字になるんだけど、あの結晶ってひとつひとつ違うというじゃない?

「日本人だから」とか「ゆとり世代だから」とかってひとくくりにされたら「違う」って言いたくなることもあるわけでしょう。「埼玉県民は」とか「那覇市民は」とか言われたら、そんなんじゃない、って。「ジャニオタは」とか「韓流ファンは」って言われたら、褒められる内容に対してはまあ良いとしても(そんなもんだ)、貶される言葉に対しては「いっやあ?どうだろ?そうかなあ?」って首をかしげたくなるじゃないか?

そういうことだよ。

どっちの立場にもなりうるのよ。でさ、もったいなかったり恐ろしかったりするのは、相手が「ちがうんだ!」って言ってくれるならまだ再考の余地あるけど無反応だったり「そうだね」とかって返してきた場合だよな。

だってそのままの認識でこれからも生きていくことになるんだもん。もしかしたら違う見方ができたかも、そんで、あたらしい世界がひらけたかもしれないのに、「そうだね」で閉じるんだもん。

ほんともったいねーなー。リスキーだなーって思う。自戒含めての話。

でさ、わたしが何を書きたかったと言うと、「毛嫌い」の「毛」って何ってことなんだよね。ちょろっと調べたらそのままらしいね。毛のこと。動物たちの世界では毛並みで好き嫌いを判断するからだそうだ。「あいつボサボサの毛並みしてんなあ。きーらいっ」ってことか?ちょっとかわいい。

しかし、ここまで書いといてなんだが「好きなものが増えすぎる」のも困りモノだと思っているのもまだ事実なんだけど忙しいからここで終わるね1249文字。

2+

【雑記】お祈りにお金はかかりません

ときどき自分の書いたもの読んで「あー・・・やばい好き・・・」ってなるからあれだと思う。(ま、毎回じゃないからなっ///)。この傾向は時が経つほど強まる。数週間前のとか数年前のとか読んでて。なので私はずっと老後の自分が読むための詩集をつくってんじゃないだろうかと一瞬思った。人間生きていくためには思い込みか絶対的な成功体験のどちらかがないと難しいと思う。後者はむずかしくても前者って割りとすぐじゃん?呼吸するように手を出すんだよ、何においても。

少し話は変わるんだけど、この年になったからというのもあるんだけど、逃げ出さないことも悪だと思うんだよ。私ほんとそれを思うことがある。「立ち向かっていれば」「これを乗り越えられれば」って一見いいふうに聞こえるじゃん?向かい風にチャレンジする俺かっこいいじゃん?でもそれの危ないとこって「乗り越えさえすれば」って考えてる部分だと思うんだよ。耐え抜くことや乗り越えることが目標になってるのね。でも実際そればかりじゃないじゃない?そのやり方だと努力がむくわれなかったときに「あれだけやったのに」「なぜだ」ってなるのねきっと。でもそれって当然っちゃ当然で「工夫」をしてこなかったからじゃん?

たかい山の上にケーキがあります。

ごめん、だっさ。自分で言っててこの例えは無いなと思ったけどまあこれで進める。ざっくりと。

たかい山の上にケーキがあってあなたがそれを食べたいとする。

で、登山するって一つの方法ではある。でもそれがあなたにとって「最適」とは限らないでしょ。もしかしたら誰かにおんぶしてもらってもいいわけだし、なんならヘリで飛んでってもいいわけなのね。でさ、そのときに登山してる人がヘリで飛んでったひとの文句を言うのは違うと思うの。だってさヘリを出せるってことはそれなりの資力か人脈があったわけじゃん。影響力でも詐欺力でもなんでもいい、とにかくヘリ1つ動かせたわけでしょ?それはもうその人のスキルなので、楽をしているから悪だって考えではいけないはずなの。

なに書いてたんだっけ。

なので、大切なのは「工夫」とか「自分用カスタマイズ」ってことなのだと思う。がんばった「から」むくわれる「はず」とか、努力した「から」成功する「はず」って、頑張ってるようでなんか違うよ。そこには思考が無いもん、ひたむきではあるけどもね。

そういう危険性をね、ふと重く受け止めるわけですよ、何があったわけでもないけど。軽やかに自分の望みをかなえていくひとっているでしょう?そういうときに「なんだあいつラクしやがって」って思う人になりたくないなと思うんだ。

あとね、単純に危ないわけですよ。「頑張れば」「これを乗り越えたら」そういう耐久性たらればは人を死に至らしめるよ?実際。危ないと思ったら逃げればいいし、あ、無理。と思ったらまず無理ってことでいいじゃない?だって無理なんだもん!自分がそう言ってるんだもん。それを打ち消して「いや、もう少し頑張ればなんとかなるはず」って、向上心強いようで自分の声を無視しやがってるってことだから最低だからな。

私はほんと思う。自分以外に大切なやつなんていてはいけないよ、一人ひとりが自分自身を大切にして安心して満たされてはじめて他人のこと周囲のことなんだよ。
もうほんと思う。
死ぬって言うくらい良いんだよべつに本当に死ななければ。いやでも本心から死にたいならいいのよべつに、そういう人だっているのだから。そうじゃなくて本当はあれがしたいこれがしたい、でも生きることができない。あれが邪魔をするあいつが怖い、とかそういう理由で死ぬのならだよ。

悩める優しい人たちがみんなしあわせになってほしい(結論)。

8+

【雑記】餅は餅屋とはよく言ったもので

さいきん必要があって2件ほど画像を外注したのだけど(1件は直接、1件はココナラ)、まじで思うことは餅は餅屋だなって。めちゃくちゃ完成早くて「うわっ」となる。自分でできないことはささっと誰かに任せてしまったほうがいいなってつくづく思う。ネットとか、それこそココナラなんて分かりやすいよね。「これができます」って形で売り出しているのだから。それに比べたら実生活(という言い方で相応か分からないけども)で知り合う人間や人間関係なんてほんと分かりづらいし理不尽なことばっかだなって思うよ。通じ合えるわけないじゃん、あんな手さぐりでデタラメで。個人みんなタグついてカテゴライズされてればそれは効率よく必要とする人に届くんだろうけども、あまりにも。あまりにも、手さぐり。じゃないの?で、こういうこと書いたら絶対文末に「こんなこと書いてる俺やばい、へへ」みたいなお茶濁しが必要になってくるんでしょ(?)濁さないからね、本気でそう思ってるから、わたし。そんな2018年4月。無茶だよ生身の人間なんて、わかりあえん。

と書いた一方で、生身の人間と生身で会うことによって得る情報量ってものすごいものがあるよな、とは、心底思う。分かっているのだよ。インターネットがいくら膨大で、世界だとしても、生身の人間が持つ情報量というのかな、生きてる感すごいよな。それも本心。とりあえず、みんな、自分の好きなところどんどん伸ばすべき。ひとりよがりでもいいので。それが結局世の中をまるくおさめていくんだと思うんだ。

誰かが何かに我慢してるっておかしいし歪んでいると思うの。火事で焼け落ちろとか天災でどうにかなってしまえとか。そうならないためには自分を押し殺さないことだと思う。本当にそう思う。誰かにほんとうに優しいひとは自分にいちばんやさしいひとだよ。ずっと見てきたでしょ?ほんとそうなんだから。

今すっごくレモネードを飲みたい。

みんな他者へ甘すぎ。だからって「ひゃっはー!撃ち殺すぞー」っていうふうになれって言うのではなくて、「ふーん」程度でもいいよなって思うんだよ。自分に優しくない人とか自分を毛嫌いする人に対してまでご機嫌とらなくてよくね?それで何かが破壊されるのならついでに破壊しちゃえばいいじゃん、邪魔なので。

と、思うから絶対あれとこれはしない。って決めといて、選択肢を殺してしまうと他の生きるべきものが息を吹き返すから、結果的に平和でまったくもって素敵なんだよって話。たぶん。

2+

【雑記】ちゃまろいど

雑記ふたつめ。

合わないだけかもしれない。またすごく抽象的な話し方になるんだけど(意図的)、いまそれをやったら他人から「なあに、それえ?」みたいな目で見られたり、なんなら「なあに、それえ?」って口に出して言われたとしても、やめる必要はまったくないってことですね。なぜなら新しいものはつねに最初は「なあに、それえ?」だから。そんな対応されたら「おっ」と思っていいんだよ。しゅん、ってならずに。「いま新しいことしてる」くらいに感じればいいんだと思う。だいたいは井の中の蛙でもうすでに誰かがやってたりするんだけど。それでも。

時代や環境や人間関係が変わるだけで世界がガラッと変わるなんてあたりまえだし珍しくもない。ひとつの場所で「うん無理!」ってなったら移動しちゃいなよ。だって、そういうのってぜんぶガチャですから。ガチャってガチャガチャのことね。ガチャポン?地域によって言い方違うのかな。わからんけども。

だってさわたし今でこそペーパードライバー卒業してて運転たのしい、くらいになってるんだけど、それでもいまだにおかしいと思うよ。

人間なんかがなんであんなあぶないもの運転して許されるわけ?

そりゃ死亡事故も起きますよって話でしょう。どれだけ自動車がすぐれていても、それを操縦するのが、感情があって、その日の気分でムラがあって、イライラすればせかせかする、くよくよしてれば視野狭窄になるっていう操縦主として未熟な、あまりに未熟な生き物が、人を死に至らしめる機械を公道で操作する?

わかりませんね。

◯年後…

「おばあちゃま、むかしはにんげんがクルマを運転してたって話ほんとう?」
「ああ。そうだよ」
「やだー、こわーい、なんでそんな時代があったの?自動運転技術があるのに」
「昔はね、自動運転技術なんてなかったんだよ。今と違って人間が運転していたから追突事故や人身事故もあったし、ひどい時はひともなくなったんだよ」
「きゃー!」
「しかも、自動運転技術が怖いとさえ言われていたんだ」
「なぜなの?ねえ、おばあちゃま。その時代の人たちは考え方が傲慢だったの?人間のほうが機械より有能であると認識されていらっしゃったの?」
「そういうことになるかねえ」
「人間なんて、暗くなったら目が見えなくなるくせに?自動運転技術ならビジュアルに頼らず、視界の悪い道路でもなんら問題はないというのに?」
「そうだねえ」
「どうかしてるわ、おばあちゃま」
「そうだねえ」
「ねえ、おばあちゃま」
「そうだねえ」
「おばあちゃまったら」
「そ、う、だね…」
「ママー。おばあちゃまロイドが壊れちゃったみたい。新しいの買ってー」

てな未来もありでしょう。
設定とかオチが意味不明だけど。

私達が、ほんの数十年前の日本をふりかえって「奇妙だ」「間違っている」と感じる出来事に対するように、未来に生きる人々は私達を「奇妙だ」「間違っている」「理解できない」と評するだろう。

どんなだろうなあ、未来は…。

いや、おめでたいことに、きみたちだって騙されているのかもしれないぞ。

実はわたしは今年100歳を迎える老人で、数年後に発売スタートされるおばあちゃまロイドの試作品のひとつ…なの…かもしれ…なひ。

プツッ

1+

【雑記】すきこそものの

好きなことについてたまにぐるぐる考える。まったく同じ環境で、境遇で、育ったふたりがいたとする。だけど好きになるものも嫌いになるものもそれぞれで、それってなんか本当にすごいと思う。優しくされてもその人を好きになるひとと「下心あるんだろ」って疑念を強めるひととがある。逆に、意地悪なことをされてもその人を遠ざけるひとと「なんでそうなの?」って歩み寄るひとがいる。捨てる神あれば拾う神ありではないけれど、この世界に誰からも無関心のひと・もの・ことって存在するのかな?そんなものがあったら私たちは見つけられるんだろうか?もし見つけられたとしたら自慢できるような気がする。誰に?誰かに。

そして、好きなことなら人間何があってもやり通すものだから、行動にうつせないんだったらそれは好きとは言わないんだ、という言葉に苦しめられるひとも多いのではないだろうか。好きなことは消えていかないし無視できないものだから大丈夫(あるいは問題ばかり)とは私も思うが、それって極論すぎやしないかとも思う。いいわけとは違うんだけど、なかなか踏み出せないことってあるんじゃないだろうか。こんな言葉をきいた。

好きでも嫌いでもないことにはそもそも悩まない。

そうだな。離れようと思って離れられなかったり、やめようと思ってやめられなかったりすること。だけ、では、なく。離れないと思っていたのに離れてしまって、やめないと思っていたのにやめてしまったりする、しかもそれをずるずる引きずっていつまでも覚えている。続けているひとが羨ましい。続けられなかった自分がうらめしい。その段階でもまだあなたはそれを「好き」なのではないかな。きっとそうだよ。嫌いであったらべつの好きなことにかまけていたり、そもそも思い出したりしないはずだし、うじうじ悩んでしまうのも妬んでしまうのも、まだ好きだからだよ。

と、思うなあ。

なのでさ。まずは認めたらいいと思う。悩んでいる時に何が苦しいのって、無理に嫌いになろうとしているからではないかな。好きだって認めればいいんだと思う。

で、どうする?ってところからスタートすればいいんだと思う。

いやいや「で、どうする?」って何が?ってなると思うんだけど、だから、向き合い方っていうのかな。従来のやり方じゃ自分に合わなかったんだよ。だから、それ以外のやり方で、あなたはあなたの中にある好きと向き合う必要がまだあるんだと思うよ。

具体的にどうしろって提示できないんだけど、そもそもこの話がとっても抽象的なところを、いい加減な感じでさまよっているからね。

とにかく、自分の本心を認めないのはいけないよ。気づかないのは仕方ないのだとしても、分かっていて認めないのは罪だよ。たぶんそれは何かに役立つことがあるとして神様からもらったものだから、自分自身で抹消を試みるのは良くないんだとほんとうに思うよ。なぜってそれは必ずしもあなた「だけ」に役立つとは限らないからだ。あなたに与えられた才能だとか特徴だとか何かに対する「好き」という気持ちは、ただしく育くめばやがて何かに、誰かに、つながったりしたものだよ。だからこそあなたはそれを好きだったはずだし、捨てきれなかったんだよ。

もうね、あれだよ。そうでないと説明がつかない領域だと思うんだよ。科学とか心理がどうとかいうひとが書けばまた別の見方になるんだろうってことは分かるよ。解釈なんだよ。だから、自分がいつまでも嫌いでいるもののこと、案外あなたは好きなのかもしれない。そう仮定するとしっくりくることって想像以上に多いんでない?そして、そのほうが良いでしょ。考え方としては。それだけ。ほんとそれだけ。

1,497文字。原稿用紙3.7枚分。

1+

【雑記】妄想と考察のはざま

| ू• ̀ω•́ )✧

安易に顔文字を使うようなブログじゃなかったはずだ。そして意味はない。

きのうからの自分勝手な考察のつづき。

私も以前そうだったから間違ってたなあってのが身にしみて分かるんだけど、嫌なこと我慢したりつらいこと頑張って乗り越えてもその先には特に何も無いよって分かっておいてほしい。

「いやいやいや好きなことだけしてろってか?そんな無責任なこと言われちゃたまんねーよマジでおい?」って言いたいんでしょ?分かるよ分かる。
「好きこそ最強ってちょおま夢見てんじゃねえよwww綺麗事やめろまじwww」って言いたいんでしょ?だよね!

さいきん私の中で野次を飛ばすキャラがチャラい率は、花見に行ったらもう散り始めだった率に匹敵する。

でもどうだろ?それこそ綺麗事じゃないかな?
好きなこと押し込められる自分の抑圧みを自己制御できてるとか統制できているとか表現で社会人としての成熟度に連結させて偉そうにものを語りたいんでしょ?ふざけんな幼稚なんだよ。委ねてれば楽だもんなあ?

好きが強い。実践する人はさらに強い。
これは事実なんだよ。
近い未来にもっとそうなってくると思うな。

好きのサイクルってもっと、ちょう、大事に、尊んでいたほうがよくて、ほんと強いんだからな。さようならわたしの日本語さん・・・。

好き→続けられる→得意になる→もっと好きになる→もっと得意になる・・・。

この繰り返しだから。

できること<<<すきなこと

なんならこうだから。

青春を描いたフィクションでさ、小説でも映画でも良いんだけど、大抵この構図にみんな萌えてるんじゃないですか?

・才能があってデキるやつ(ニヒル)
・元気ハツラツ大好き!主人公(天真爛漫)

このツーペアがどんちゃんやったり衝突したり仲間になったり理解しあったり、そこなんでしょ?少年漫画とか特にそうでしょ?知らんけど!

でさ、結局前者は後者に敗北するんでしょ。

好きは強いんですよ、ほんとに。

足の早いウサギと足が遅いけどウォーキング大好きなカメがいたらさ後者が有利なんだよ長い目で見れば。
好きなものを好き好きやっている人を見るとどんな才能ある人もめげちゃうよな。

しかもさ、わたし思うんだが、その椅子はもう譲ったほうがいいと思うんだよ。ウサギにとってもカメにとっても。ウサギはウサギにとって本当に好きなことを見つけられる確率が高まるわけじゃん?走ることに固執しなければさあ。もしかしたら料理の才能あるのかもしれないし、あんだけ耳が長いのだから盗聴の才能あってスパイとかやれるんじゃないかな?あーでも白いから目立っちゃうか。まあそれは置いといて、そしたらカメも不毛な争い仕掛けられなくて済むわけで「ウサギさんはウサギさんの好きなこと頑張ってるな。ぼくも頑張ろう」って思って相乗効果があるのかもしれないじゃん。なんなら異なる才能を持つ者同士コラボとかして倍々ゲームで周囲の人に何らかの貢献することになるかもしれないじゃん。

そう思うと「嫌いなことでも頑張る」とか「苦手を克服する」って、さも良いことのように語られてるけど無駄なんじゃないかな。まあ小学生くらいまでは基礎的学力という意味である程度我慢して取り組む姿勢とか必要なんだろうけどさ、思春期あたりからはもう真逆になってくると思うんだ。

好きなことだけやって生きていけるほど人生あまくないぞってのは逆で、好きでもないことやってうまくいくほど人生あまくないぞってのがこれからなんじゃないかな。

ほんと思う。
だから他人の言うことなんか「うっせえ、ばーか」で良いんだよ、受け入れられなかったらさ。
だってそいつ俺じゃないじゃん?

なんならこんなこと書き散らしてる私だって無責任なんだからな。
いいだけ書いといて「好きなことだけやってたら自己破産したじゃねーか!」って言われても救済できないし、本当だめなんだよ。自分で考えて試して生きていかないと。

好きなこととは押し込めても押し込めても低反発枕のようにはねかえってくる性質を持っているので心配しなくていいとは思うんだけどね。

今日はここまでで1,528字。
原稿用紙3.82枚。

最近なんでこんなやんややんや反抗的な文章書いているかというと真面目な文章書くシーンが増えてきたからだと思う。
学生時代にちかしい感覚。
つまり、自分の思い通りにいかない世界も自分を知るのに役立つってことだな。

あと、私の書くことはたいてい自分に対して向けられているものなので、「なに偉そうに語ってやがる」よりも「おっ、いつもの一人芝居始まったな」が正しい見物の仕方であることをここに書いておこう。

無理なことだらけだけど無駄なことは案外少ないかも?
オセロみたいに、こう、ぱらぱらっとひっくり返る瞬間になったら「あー今まで不利で良かったー」ってなるんだろう。
そのためにはひっくり返す瞬間を自分でつくらないとだけどね。1,995字。おわり。

1+

【雑記】楽園の消え方

考えていたこと。

好きなものってなんで消えちゃうんだろうな。蛍かな?

私が思うには「消えた」というより「身に溶けた」のではないかな、ということである。

生涯それを続けていく人だって確かにいる。だからと言ってそういう人々に比較して好きな気持ちが劣っていたのではないか、とか、もうこれから先自分は何も楽しめないのではないか、とか、思う必要性などまったくない、それどころか無駄だと思っている。むだむだ。

例えば私は小学校4年生くらいまで絵を描くのが好きだった。書きながら思い出したけど、そうだった。

幼稚園生のころから、友だちと遊ぶ時間よりも黙々とお絵描きしている時間が長かったし、弟を主人公にした漫画はCampusノート17冊に達したし、引っ越しした友達と文通する際にも封筒の中いっぱいにイラストを描いて送り合っていた。家にパソコンが届いたらマウスを使ってお絵かきをしていた。ほうほう、そうだった。書きながら思い出した。

でも今は、詩や小説っぽいもの、文章を書くほうがメインになっている。
「絵を描くのが好きだった自分」が消えたわけでなくて、その上に今の自分がいる。ミルフィーユみたいに層になってる。

もしも並行世界が存在したとして「文章ばっかの自分」と「もともと絵を描くことが好きで今は文章メインで書いてる自分」がいたら両者は似て非なるものなんだろうなと思うんだ。
どっちが良いとかの話ではなくて。絵を描くときのイメージとか描き出し方っていうのは、意識していなくても文章を書く時の何かにつながっていて、ひっくるめて私が書き出す文章になる。

絵を描くことにおいては、もう満たされて、この身にしみていったんだと思う。

千の風になってあの大きな丘を吹き渡っていますじゃないけども、ミルフィーユ層を抱えた自分だからこそ生み出せるもの、たどり着ける場所が、誰にでもあるんだと思う。私だけの話じゃなくて、みんなそうなんだと思う。

番組名忘れたけど「オリンピック選手より才能あったあの人は今?」みたいなテレビ番組をちらっと見かけたのね。同じ教室に通っていて成績(タイムとか優勝回数とか)も良かったあの子はなんであの競技をやめちゃったんだ?みたいなやつ。で、やめた理由は経済的な問題であったり当人のモチベーションが消失したり別競技のほうが楽しかったんだよね、とかさまざまにあるんだけど、その人はその人でべつに普通に生活してるのね、当たり前だけど。才能って、純粋にスキルのことだけじゃないんだと思った。その才能を抱えて生きていく才能、とでも言いましょうか。自分の才能との相性ってことだな。たとえばすっごい才能あったとしてオリンピック行かなかったとしても、コーチなど指導者になってその人の才能を発揮させる人もいるわけでしょう。いやいややるからにはオリンピックって思うものなのかも知れないけど、その人にとってはオリンピックに出るためにその才能があったんじゃなくて、指導者となるためにその才能があったのかも知れないでしょう。あるいはいっそその競技にかすりもしない人生を送っていたとしても、やっぱりそれは「その競技において才能があった人によるその競技にたずさわらない人生」なんだよ。ずっとオリンピックとか競技の話してるとか絵とか歌とかもそうでない?スポーツよりは個人で続けやすいという特徴はあるのかもしれないけど。

なので「これが何のためになるだろう?」って考えずに、好きなものは好き。で良いし、「気づいたらこれやっちゃってるなあ」っていうものがあれば、それは「好き」以前に天性であったりするので、まあ続けていけばいいと思うんだ。

何もかもする気分にならない、俺はもう無だ・・・。

みたいな気分になっても、間隔の問題であって、ただしゃがんでるだけかも知れない。ジャンプするためにはしゃがむでしょ。だから「しゃがんでるなあ」って感じつつ、あほのようにホゲ~っとする時間を過ごすのも良いと思う。

わたしは全然心配をしていない。
何にも興味を持てない状態を続けられるほど人間って高度じゃないって思うんだ。

自分が原始的に好きだったものを思い出したり、ホゲ~っとしたり、とことん傍観者になってみたり、広い場所行って寝転ぶとか。

何かを好きな自分でないと好きになれないって呪いかもしれないのでそういうのから適当に解き放たれて楽になればいいと思う。

そうしたらあなたの前にまた新しい楽園があらわれるでしょう。

あやしげな勧誘っぽくしめくくる。
おわり。

4+

【雑記】やさしいひとりのつくりかた

わたしさいきんになって「これは最強だな」って自分の中で基礎を固め始めたワードが3つあってそれは何かというと今から書きますね。

1. 他人じゃなくて自分の期待にこたえる
2. おまえ俺じゃないじゃん
3. うるせーばーか

こんな感じ。

ふざけていると思わないでほしい、思ってもいいけど一つずつどういう意図か伝われば良いと思う。少しでもいいから。

まずは1つ目の「他人じゃなくて自分の期待にこたえる」ということです。

ん、ちょっと待って。
なんかおかしいなと思ったら、ここまでなんで敬語で書いてるんだろう?
ここから、いつもどおりに戻す。

まず大前提として「人は自分のことしか考えていない」という事実を認めてほしい。
「いやいや、おまえ自分のブログだからつってさ、そう極論でものを語るなよ、え?他人の利益を優先して考える人やボランティア精神旺盛な人だっているだろうがよ」って言いたくなる気持ちも分かる。
しかしわたしはそういうの信じてなくて、いや信じてないっていうより「もう一皮むけるでしょ」って思っていて、結局「自分が満たされるから」でしょ。
他人が喜ぶ。すると自分が嬉しい。なぜなら自分が感謝されてるから。自分が認められてるから。自分がいてよかったな自分かわいいい!
ってなるから。
多少語彙的ニュアンスで違和感あってもだいたいそうだと思う。
そしてここが割と誤解されているなあと感じるのは「自分かわいい」精神が悪どくとらえられがちだという点だ。「結局自分が可愛いのかよ!」の言葉に代表されるように自分の満足を最優先させたり、そうでなくても重視すること自体が悪と見られる風潮があるのではないかな?日本人の文化的に?知らんけど。
そんな中でわたしたちがんばって生きているので「自分かわいいって思っちゃだめ。少なくとも出しちゃだめ。オブラート、オブラート」って思うかも知れない。
まあ確かに度が越せば傍迷惑だろう。
(話それそうー。いつもの悪い癖で話それってって「で、なんだっけ?」な展開になりそうー。軌道修正。)
えーと、だから。
自分かわいいって思っていいと思うよ。
だって自分がつらいとき誰が一番つらいかっていうと自分じゃん?
そりゃそうだよね、考えるまでもないよね、もう、実際バリバリの当事者だから。
共感とか相談役とか名乗るやつら現れてもそいつら最終的に十字架背負ってくれないじゃん。
会社とかイメージすると分かりやすいよね。当たり前だけど使えなくなったら守ってくれないじゃん。
なのでね、自分かわいいと思って良いと思う。というか、そうしないと割合というかバランス的におかしいんでない?
したがって、周囲からの圧力であったり期待であったり羨望であったり、なんらかの言動を期待するまなざしが自分に対して向けられているような状況になっても、だ。もしそれを「したくないな・・・」って思っているのならしなくていいし、というか、してはいけないし、「だけど自分はこう感じているな」だったらそれに従えばいいんだよ。
これが「1. 他人じゃなくて自分の期待にこたえる」の理由です。

ここまで書いたら「2.おまえ俺じゃないじゃん」の意味もだいたい同じだなって分かってもらえると思うんだが、本当にそうだよ。
説明要らないんでないかな。
だって自分に刺さったナイフで痛いのってナイフ刺さってる自分でしょ。誰かが引っこ抜いてくれたり治療してくれたとしてもその間ずっと痛いのって自分じゃないか?
あと、自分の進路だの決断だのに口出して来る人ってわかりやすく悪どいならまだしも本人でさえ無自覚のうちに親身ヅラしてるから要注意な。
その人はその人の経験や見識から提言してるに過ぎず、あるいは世間一般的なものかもしれないなー、ようは無根拠で無責任なんだよ。ひねくれて言っているんじゃなくて「根拠もないし責任もない」ってことです。そのまま。他人の助言に従って行動したとするよ。失敗したり「こんなんじゃなかった」ってなった時に、助言者が責任とってくれますか?とらない、というか、とれんでしょう。
それは海で生きる(海でしか生きられない)魚に対して「川マジ最高!川で暮らそう!だっておれ川ちょう好きだもんね!いいとこだよ、来いよ!」って言ってるようなもんで(それはそれでちょっとかわいいと思いながら書いている)、だからそういうふうに言われたら「おまえ俺じゃないじゃん」って言い返していいと思う。
気まずい雰囲気ならそっと離れるだけでもいいと思う。鵜呑みにしたり洗脳される必要はない。
「なんか言ってることわかんねーけど川楽しそうだから川でも生きられるかもしんねー。行ってみっか」って感じるなら、それはそれで行けば良いけど。

最後は「3.うるせーばーか」である。
これはできれば心の中だけで言っておいたほうがいい。
もう大抵みんな語りたいだけ。押し付けたいだけ。百歩譲ってそれが親切心だったとしてもだよ、おまえはおまえの人生しか生きていないわけだしましてや俺のソムリエじゃないだろ?ってことなんだよ本当に。(おっいい例え!っていま自画自賛したけどどうだろ微妙かな)。
もうね、その人が仮に100回転生してる命だったとしてもだよ、私ではないんだ。
同じ時代同じ世界を生きているんだとしても、厳密に、まったく別個なんだよ。
それは希望でありワクワクでありいいことなのかもしれないけど弱ってる時は流されてしまうんじゃないのかな。
もしもあなたに友人が多くてたくさんの人が優しい声をかけてくれる時があっても心の片隅では「うるせーばーか」と言えるスペースは残して置いてほしい。な。

それがなくなったら委ねるだけになってしまってあなた簡単に飲み込まれるよ。

以上、ためにならない講座であった。

書いてる本人だけ頭の中すっきりまとまったんでしょ、とでも思ってるのならば答えはノーだ、とだけ最後に書き記しておこう。

なんなら太字に装飾したっていい、答えは、ノーだ。

ここまで2,454文字。原稿用紙6.1枚。

きみとわたしは有益な時間を共有したと言えるんだろうか?
答えはイエスであってほしい。

5+

【雑記】あいほんのゆううつ

私はiPhoneを高く評価しておりVodafone時代から一切浮気などしていないしiPhoneと同期が取れたら便利だろうなという思いから、ああそうさ、iMacまで買ったよ。もちろんiPadも所有済みである。気づいたら身の回りがりんごマークまみれになっているんだったな。それはそうと前も同じようなこと書いた気がするがあえてまた書くとiPhoneって「あいほん」では予測変換されないってのが本当にツンデレとしか思えなくて「はあ?」って時と、まあ時間に余裕があれば「かわいいな、おまえ(ニヤニヤ)」で済むんだけどじゃっかん謎だな。これだけ主人の意図を読んで、時は読みすぎて「ちょ、ちょ、先走りすんなよな!」ってくらいに予測変換大好きなiPhoneがさ、もう「あい」まで打った時点で出てきても良いくらいの性能を持っているiPhoneがさ、「あいふぉーん」ってしないとiPhoneって表示しないの意地悪でないかな?って思ったんだよ。「私の名前は『ほん』じゃなくてよ?まだおわかりにならないの?」とでも言っているんだろうか。それとも「僕の名前は『ふぉーん』が正式だぜ、『ほん』なんて野暮ったくて返事するのも癪だね!」とでも拗ねているんだろうか?いずれにしてもいまいましいかわいらしい。とか書いてるうちに「あいほん」でも「iPhone」って出るようになったから単に学習してなかっただけかあるいは・・・?(ここから作者はゆめのせかいへ・・・)。

果たしてGoogle先生はどうだろう?と思って「あい」まで入れたらまずこの時点では何も出てこない。これも謎だな。Google先生ともあろうお方がだよ、「あい」、ここまで入力したらそれはもうユーザーの大半はiPhoneの情報を知りたいんだろうと予測する程度の能力はありそうでないか?なにゆえ頑なに提示を拒むのか?と思いきや「アイホン」検索ヒット。
ははあ、なるほどなるほど。
Google先生はiPhoneより一枚うわてだったというわけだ。私の名前は「ほん」じゃなくってよ、な美少女iPhoneちゃんをたしなめつつ「いや、きみはアイホンでも検索可能なのさ。ふふ」と言い聞かせる大人の余裕もあったってわけだ?くー、渋いな。Google先生イケメン紳士かよ惚れる。

そしてすべてが私の妄想であり勘違いであり私自身のスキルの及ばないところであり何故きみはここまでこんな文章を読めたのだろう?

答えは間違いなくきみが私の文章を好きだからに他ならない。
しかし時として裏切られる。
学習しないのは誰しも同じなのであった。

そんなきみにありがとうの意味を込めて米津玄師のアイネクライネをおすすめしたい。(アイで検索し過ぎた結果)。

やってた作業に戻ります。ここまで1,160字。原稿用紙2.9枚を読むだけの時間をきみはこの記事に注いで私を喜ばせたのだった。立派な貢献活動だ、活力をありがとう。

4+
Scroll to top