QUARTETTO#3『夜におねがい』

シリーズまとめ⇒QUARTETTO(カルテット)

死んでくれたらいいのに。

あなたの姿を思い浮かべると、そう思わずにいられなくなる。

たとえば雲ひとつない青空の日。
滅多にしない深呼吸。澄んだ何かを肺に満たして、少しでも和解できた気がしたんだ。
だけどふと視線を下げると、血管の浮いた手から、まだ長さのあるタバコが投げ捨てられる。
笑い声とともに橙色の火がジュッと鳴って、植え込みのツツジの花弁がほんの少し焦げた時に。

(ああ、死んでくれたらいいのに。)

たとえばまっすぐな雨が降る日。
ぼくにとって雨の日はそれだけで特別だ。あなたに会えた日と同じ天気だから。降ってくる雨粒がビニル傘に打ちつけられて、道路標識や看板広告をいい具合にぼかしてくれる。
これなら大丈夫、これなら大丈夫だって思えるんだ。
自分で自分にかけるおまじないの声が、あなたの声にすり替わって、魔法は確信に近づいてく。
(だいじょうぶ)。
だけど次の瞬間、速度を下げずに追い越してったワゴンが、ぼくの膝から下をぐっしょり濡らしてしまった時に。

(どうぞ、死んでくれたらいいのに。)

ねえ、あなたの愛するものが、こんなにみじめな思いをしていて、しかもそれはいつか、あなたのことも傷つけるかも知れないんだ。

ぼくひとりなら目をつぶって耳をふさげばよかった。ぼくひとりならしゃがみ込んで動かなければよかった。ぼくひとりならどうにかなった。ぼくひとりならどうにでもなった。

だけど、もう、ひとりではなくなってしまった。

まわりを見渡せば、ケーキフォークさえもあなたを死に至らしめる凶器に見える。誰にでも届くところにあって、それなのにカウンターのむこう、あなたは無防備に笑ってる。やめろ。いっそ。汚いセリフが喉からこぼれそうになる。ぼくを苦しめたものが、あなたを苦しめることがあるかもしれない。ぼくの知らないところで、ぼくの手の届かないところで、ぼくの見ていないうちに、ぼくが想像もしなかったような手法で、あなたを泣かせるかもしれない。

死んでくれたらいいのに。死んでくれていたらどんなにかやすらげるのに。だってこんなに苦しいのなら。だってこんなに不安になるのなら。

あなたには心底かすり傷ひとつつけたくなくて、そのためになら死んでもらうしかないと、

『顔を上げて、私の愛しいサイコパスめ。』

反射的に顔を上げたとき、ジーンズに降った涙がパタパタと音を立てた。

やば。ぼくまた寝言を?
うん、強烈なやつ。普通にしゃべってるみたいに。
ひどいな、起こしてくれればよかったのに。
やだよ、きみの本音は滅多に聞けないから。
ぼくはいつも本音で話しているつもり。
私に対してはね。だけどきみ自身に対しては、どうだろう。
ぼく自身に?
ねえ、きみは私より子どもだから知らないだろうけど。
怒るよ。
はは、ごめんごめん。だけど年下なのは事実だろう。
それ以上にバカにされた気がした。あなたいまだにそういうとこある。こっちだってもう成人したんだけど。
気のせい、気のせい。
で、なに。今なにか言いかけた。
ああ、きみは子どもだけら知らないだろうけど。
そこから再生しなくても。
ひとって、自分へ向ける愛以上の愛を他人に向けることはできないと思うよ。
つまり?
自分をいじめ抜くのは、よくないよ。誤解しないで、同情ではない。私は自己防衛しているだけ。
無理ですと言ったら?
その時は、助け合うしかないね。

あ、柑橘系だ。
初めてだった。
あなたからぼくに触れてくれたのは、たぶんこれが初めてだった。
あなたはいつもぼくにさせた。
ぼくに先にさわらせた。
ぼくの決意を確かめるように。
ぼくが後悔することのないように。
裏返せば自分が悪者にならないように。
ぼくの愛する、あなたが悪者にならないように。

(きみにむりなら、わたしがかわりにやってやろう。)

初めて手に入れたという実感がわいた。
奪われるのは気持ちのいいことだ。
手に入れることと奪われることはほとんど同じだった。
嘘みたいに涙がこぼれた。
もったいないくらい体から涙が出てった。

体が反応してしまったので責任を取っていただきたく。
どうしよう、まだ外は明るいよ。
カーテン閉めればなんとか。
若気の至りに相乗りして昼夜逆転させたくないんだよね。
そこをなんとか。
腰痛が。
いたわるから。

押し問答していると、夜という名のあなたの猫が割り込んできてぼくの腕をひっかいた。
どうやら神さまのお許しが出なかったようだ。
ぼくたちの世界では夜がいちばんの神さまなんだ。

お菓子が作れる会社員×喫茶店店主の年の差シリーズその3。
その1:あいにきたよその2:タルトを焼くよ