QUARTETTO#19『人影』

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※アオイ視点。

1日の営業終了後に店内を片付けていると、リツくんから着信が入った。

「リツくん?…周り、なんだか賑やかだね?」
『うるさくてごめん』
「ううん」
『アオイさん。今日の夕飯なんだけど、もう何か準備してた?』
「まだ。どうしようかなって、今ぼんやり思っていたところ。どうしたの?」
『まだなら良かった。今日、会社の飲み会に出るから、夕飯要らないよって連絡。連絡遅くなってごめん。ほんと、急だったから』
「なるほど、それで賑やかなんだ」
『ハレが、たまにはお前も来いってしつこくて』
「ふふ、ハレくんの言う通りだよ。きみはいつも直帰するから。ちゃんと連絡くれてありがとう」
『ごめんなさい』
「ぜんぜん」

その後もリツくんは『あいしてる』とか『明日はぼくが腕によりをかけて作るから』とか長々と話しているのでこちらから「切るよ」と告げた。

リツー、恋人との長電話はよ終わらせろやー。

この声はハレくんだ。

えっ恋人?
えー、やだ、ホントにいたんですか?
ほら、いるって言ったじゃん。
ショックー。
なあ写真見せて!
電話かわって。
黙って聞いてれば失礼な奴らだな、ふざけんな絶っ対やだ。

周囲とリツくんのやりとりを聞きながら思わず笑ってしまう。

『帰りは遅くなると思う。待たずに先に寝ていてね』
「うん。楽しんでおいで」
『あと、お昼のお弁当ありがとう。ごちそうさま。美味しかった』
「どういたしまして」
『じゃあ、そろそろ切るね』
「うん」
『アオイさん』
「なに?」
『ほんと好き』
「はいはい」

名残惜しそうなリツくんから切ることはなさそうなので私から通話を切って電話を離す。

片方だけあったまった耳に手をやる。

リツくん、ちゃんと会社員なんだなあ。
もちろん知ってることだけど、あらためて思う。
私は私といるリツくんだけ見てるけど、仕事をしているリツくんもやっぱりリツくんで、色んな人に囲まれて生きてるんだ。

最近気づいたんだけど、リツくんと離れていてリツくんのことを思う時、私の脳裏には学生時代のリツくんが浮かぶ。

いつまでもそれが変わらなくて、不思議だなあと思いつつ、私は自惚れ屋だなとも思う。

青春も将来もそっちのけで、私のことしか考えられなくて、なんとか手に入れようとしていた、あの頃のきみ。

まあ、かわいかったこと。

✳︎

今夜は黒猫の夜も姿をあらわす気配がなかったので、自宅アパートと逆方向へ歩き出した。

たまには外へ飲みに行こう。

最近は店と自宅の往復だったから。顔なじみの常連さんと恋人のリツくん。親しんだ存在はあたたかくて安心できるけど、こういう日があっても良い。

足取りは軽い。

六月の月は大きくて、あと少しで夏が来ると分かる風が吹いている。
今年は花火大会あるかな。
去年は雨で中止になったんだ。
ついてないね、残念。そう言う私に、
(雨で嬉しい、アオイさんとこうしていられるから。花火なんかどうでも良い)。
あの夜のリツくんの幸せそうな表情や声が蘇ってきて頭を振った。いけない、いけない、依存してる。

この通りを歩くのは久しぶりだ。
無意識のうちに避けていたけど、今となってはすっかり変わってしまって、別の通りを歩いているみたい。案外平気なものだ。

看板、通行人、流れる音楽。
ああ、でも、変わらないものもある。
老舗のお饅頭屋さん、ハンコ屋さん、路地。
ここを最後に歩いたのはいつだっけ。
いつ、誰と、だっけ。

「よお、アオイ」。

それ、は、いきなり現れた。
私は無視して歩を進める。

「ひどいな、待って」。

横目で建物の窓を見る。
案の定、私はひとりだ。
確信を得た私は立ち止まり、この世にいない彼の顔を見上げる。

「立ち去れ、ニセモノ。彼が私を苦しめるはずはない」

おお、信頼されてるもんだ。でも今の、まさか本気で言ってる?苦しめるよ。お前がおれを苦しめたように?たしかにあの日は随分と酔っていたとは言え、おれなりにだいぶ思い切ったよ。アオイなら分かるだろう?それを、「あり得ない」だって?「悪い冗談」だって?ひどいこと言うよな。ショックのあまりマンションの踊り場から足を滑らせちゃったよ。地面がどんどん近づいてきて、怖かったなあ。酔いなんか一気に冷めちまった。アスファルトにぶつかった後もすぐに死ねなくて、本当に痛かった。痛いし、ぐちゃっとした感触とか気持ち悪いしさあ。こんなことになるならお前のことなんか好きにならなければ良かった。

アオイ、自分がやったことの責任感じてる?

「おまえなんて幻覚だ。もう、私の前に現れないで欲しい」。

おまえがいつまでもおれを忘れないせいだ。本当は後悔してるんだろう?あの時の返事だって半分冗談なんだろう?おれをからかったんだ。もったいぶりやがって。ほんとうはおまえはおれのことが好き。そして今でもおれのことが好き。だから忘れてない。違うか?

「違う」。

いいや違わないね。まだ認めないか。なあ、アオイ。おれはおまえがのうのうと生きてることに対してどうこう言いたいわけじゃないんだ。そうじゃなくて、認めろって言いたいんだ。

「認める?何を?」。

まともに会話してはいけないと分かっていながら、私はそう尋ね返す欲求に勝てない。

幻覚でもいい、妄想でもいい、心のどこかで、

「リツなんか、どうせおれの代わりだろ?」

正当な報復を待ってたんだ。

✳︎

ふいに目の前で指が鳴らされ、私を覆っていた透明な人影が消えた。

音や色が戻ってくる。

正面に見知らぬ青年が立っていた。

リツくんやハレくんと同い年くらいで、だけど身長はずっと高い。
今の私でなければ、威圧感さえ感じたかも知れない。
指を鳴らした手と反対の手にはディスカウントショップの黄色いビニール袋を提げて、表情の読み取りづらい顔で私の顔を覗き込んでいる。

「大丈夫ですか?」

ああ、生きてる。
この子は、今ここに生きてる子だ。

掛けられた言葉は短いのに、手当てするような声に、赤の他人だということもそっちのけで癒されてしまう。

「ありがとう。理由は聞かないで」
「どういたしまして。聞きませんよ。だから安心して」
「…ありがとう」
「良かった。心ここに在らずって感じで、気になったから。指鳴らしたの迷惑じゃなかったようで」
「迷惑どころか、」

救われた。

ほっとすると同時に涙が出てきた。
いくらなんでも彼の前で泣き出すのは迷惑だ。
早く行こう。

「じゃ、ほんとうに、ありがとう」

立ち去ろうとした私の腕を彼が掴んだ。
その勢いに驚いて振り返ると、掴んだ本人も驚いたようでパッと手を離す。

「痛くしてすみません。あの、俺のところ、来ませんか」
「え?」
「あ。俺、個人で飲食店やってて。落ち着くまで休んで行ったらどうかなと。唐突にすみません。ナンパとかじゃないです。ちょっと、ほっとけない気がして」

(あれ?彼って、もしかして)。

私が考えを巡らせているのを独自に解釈してしまったようで、彼は見た目に似合わず狼狽えた様子を見せた。

「あ、べつに怪しいお店とかじゃないですよ」
「ふふ。誤解してないよ」
「あの、失礼ですけど」
「ん?」
「成人、されてますよね?美味しいお酒、すすめちゃって大丈夫ですか?」

お酒が大丈夫かって?
まさかこの歳になってそんな質問されるとは思わなかった。
くつくつ笑い出した私を見て、彼も不器用に笑う。

「きみの名前、当てようか」
「まさか」
「うーん、天気に関係しそう」
「あ、すごいです」
「晴れ?」
「って雰囲気ですか?言われたことないですよ。…知り合いには、一人いるけど」
「じゃあ、雨だ」
「怖い」
「当たった?本当に?」
「はい。名前の最後が雨という漢字です」
「そうなの。すごいまぐれだ」
「その勢いで当ててみて」

たった数分前に出会ったばかりなのに、私たちはすっかり打ち解けている。
私のほうはおそらく彼のことを知っている、間接的に。

「当てずっぽうで良い?」
「当てずっぽう以外にどうやるんですか」
「はじめまして、ジウくん」

え?

彼は私のことを、それこそ幽霊でも見るように見ている。

「おい、嘘でしょ?」
「あたり?ふふ。私、勘が冴えてる」

(そうか、彼がハレくんの!)。

一人でこの通りを歩くなんて間違ってたと、思ってた。
さっきまでは。
でもジウくんの驚愕に満ちた顔を見上げて、そうでも無かったかなと思い直した。

その日が良い日か悪い日かなんて、明日になる時にしか分からない。

✳︎

あと5分で日付が変わるという頃に帰宅した私は、玄関ドアの前で帰りを待っていた恋人に抱きしめられる。しばらく無言でぎゅーっとされた後、リツくんはようやく力をほどいた。

「おかえり、アオイさん」
「ただいま、リツくん」

(リツくん、スーツ姿のままだ。どれくらい、ここで待っていたんだろう?)

声には出さない。

「アオイさん。ぼくからは何も聞かないけど、あなたから何も言わなくて良い?」

リツくんの声。
落ち着いて見せようとして、少し切羽詰まっている。
それが新鮮で、私はすぐに安心させたくない。

「うん、私は大丈夫だよ。リツくんは?」
「ぼくも大丈夫」
「なら良かった」
「と言うのは、嘘。本当は不安で死にそう。アオイさんから、ぼくの知らないお酒の匂いするせいだよ。許せないな、ぼくを送り出せて安心したんだ?」
「不安ごときでリツくんは死なない」
「あなたのこと、疑いそうになる」
「きみの好きにして良いよ」
「ねえ」
「うん」
「もし疲れてなければ、ぼくのお願いを聞いて欲しい」
「わがままの間違いじゃないの?」

言い終わる前に唇に噛みつかれる。
私が飲んだお酒、私が食べた料理、私が他の誰かと交わした言葉、ぜんぶを知りたがって舌が動く。
溢れた唾液も顎から舐め上げられ、首筋に歯をあてられた。

「噛みたい」

いつでも致命傷を与えられるその箇所が、どくどく脈打っている。

「…リツくん、は好き。でも、痛いのは、いやだ」

ふっと息が触れて、食い込んでいた歯が離れた。
謝るように舌が噛み跡を往復する。

「本当に噛まれるかと、少し不安になった」
「ごめんね。ぼくも、噛んでしまうのではと不安に」
「リツくん」
「良かった。思いとどまることが、ちゃんとできて」
「リツくん、ごめんね」
「あなたに捨てられたら、ぼくには何も無いんだ。ほんとうに、なんにも、だ」
「酔ってる」
「これがぼくの本当の姿だよ」

リツくん。
かわいそうに、こんなに、いっぱいいっぱいになって。
つらいね。
さみしいね。
ずるい恋人にはぐらかされて。
かわいそうに。
かわいそうでかわいい。
もう大丈夫、私が解放してあげる。
いますぐに。
いまからすぐに。

✳︎

リツが後ろ手にドアノブをひねる。
鍵は、あいていた、当然。

二人の体は重なったまま部屋の中へ消える。

誰も知らない長い夜の始まりが終わったところ、まだ。

(すぐ嫉妬するきみ、あの頃とほとんど変わらなくてかわいい。いや、変わらないどころか悪化してるよ)。

(あなたがいま何考えてるかなんて手に取るように分かってるから、優しくしないね。されたくもないだろうけど)。

後にはわるいオトナとわがままなコドモの人影だけが残る、共用廊下の蛍光灯の下。

その日が良い日か悪い日かなんて、明日になる時にしか分からない。

✳︎

翌朝ふたりして仲良く寝坊した。