QUARTETTO#18『えそらごと』

※アオイ視点

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一緒に暮らし始めて間もない頃は、お互い「え?」と相手へ問いかけることが多かった。
相手のしていること。言ったこと。それまでの生活の中では知らなかったこと。意外だったこと。
そうするの?え、そういうやり方?
うん、ぼくはそうなの。
しかもそれが一度説明されただけではピンとこないような「え?」で、私はよく思う。
きみといると毎日何かが新しい。きみといたら過去がどんどん過去になる。

リツくんからもらったかすみ草が枯れてきたので、花屋へ出かけた。
開店までには間に合うだろう。
お店に到着するや色とりどりの花が目についたけど、やっぱり最後はかすみ草の上で視線が留まるので、それを買うことにする。
直感は大切だ。
(これを直感と言えるのだろうか?)
この先いろんな花をいろんな場所で見かけるだろうけど、かすみ草は特別なんだろうな。見かけるたびにきみを思い出すんだろうな。

「贈り物ですか?」
「いいえ。部屋に飾ろうと思っています。人からもらった時に飾ってて、結構なじんでいたので」
恋人と言うのもわざとらしい気がしてただ「人」と言った。
だけどそう言う時に私の頭にはリツくんの顔が浮かんでいる。
(あの時はずいぶん申し訳ないことをしたな)。
思い出すだけで胸が痛む。
一応仲直りはしたけれど、あの瞬間確かに痛んだリツくんの胸を手当てしてあげることはもうできない。
「そういえばつい最近もかすみ草を買われていった男性がいましたよ」
「へえ」
「スーツ姿だったので会社帰りでしょうね。恋人にプレゼントするんだとおっしゃってました」
「・・・へえ」
(リツくんは私のことを「恋人」と言ってくれたのか)。
お店の方は手を動かしながら、さらに話してくれる。
「素敵ですよねえ。なんでもない日にかすみ草をプレゼントするなんて」
「ええ。そうですよね」(=とてもかわいい子です)
「始終にこにこされていたので、お相手の方への愛が感じられました」
「・・・さぞかし喜ばれたと思います」(=本当に本当に嬉しかった)
「背が高くて、かっこいい方だったので」
「・・・はあ」(=ああ見えて甘えん坊です)
「こっちのほうがテンション上がっちゃって、おまけでラッピングまでしちゃいました」
「青色のリボン?」
「はい!・・・あれっ、どうしてご存知なんですか?」
「いえ、真っ白なかすみ草には、青色のリボンがよく似合う気がして」(汗汗汗)
「ですよね!私もそう思います!」
おまけをもらった気持ちで花屋を出る。
リボンをつけてもらったかすみ草を抱えて。

店に戻ったら大きなコップを2つ用意し、それぞれにかすみ草を活ける。半分は閉店後に持ち帰ろう。せっかく結んでもらったリボンだけど、とりあえず丁寧にほどいてテーブルの上に置いておく。帰る時にもう一度結び直そう。

今朝はうっかり寝坊をしてしまって、リツくんのお弁当を作ってあげることができなかった。
本当にごめんと謝ると、ぼくのせいでアオイさんを寝坊させることができたんだから嬉しい、と言ってふにゃりと笑った。
「なんならもっと寝坊させることもできたんだけど、アオイさんが困るから」
リツくんはそういうところがある。
悪びれもせず、恥ずかしがりもしない。
いろいろ思い出してしまいそうだったのでとりあえずベッドを抜け出し、身だしなみを整えた。
「せめておにぎりだけでも作らせて」
「え?」
「ん?」
最近は「え?」と聞き返す頻度も減ってきた。
一緒に過ごす時間が長くなってきて、習慣などがだいぶ共有され始めていたから。

だから久々にリツくんの「え?」を聞いて、いったい何が彼にとって新しかったんだろうと、わくわくするような気持ちで問い返した。

「いま、何が、不思議だったの?」。

ベッドの上で体を起こしたリツくんは「信じられない」という顔をして私の手元を見ている。

「や、おにぎりって、作ってもらえるものなんだ。って」。

どうやらリツくんはおにぎりを作ってもらった記憶がないようだ。
そういえば私、ごはんやお弁当を作ってあげたことはあっても、おにぎりは作ってあげたことがない。

「リツくんは丸と三角どっちがいい?」
「え?」
「四角とか星型は無理だけど」
「選んでいいの?」
「もちろん」
「両方って言っちゃだめ?」
「だめじゃないよ。じゃあ、1つずつ作るね」

リツくんはまだ少し疑うような表情をして私の手元を見つめていたけれど、出来上がったおにぎりを見ると「本当だったんだ」と感嘆のため息を吐いた。

「小学校の遠足で、ほとんどの子がおにぎり持ってきてて、お母さんに作ってもらったって言うんだ。ぼくはそんなはずがないと思ってて。うそつき呼ばわりした。でも、ほんとだったんだ。なんか・・・悪いことをしたな」
「言われたこと、もう忘れてるよ。これからはいつでも作ってあげる」

お店に売られているおにぎりしか見たことのなかったリツくんは、ぽーっとした顔で「うん」とうなずく。

これまでにもリツくんは私が当たり前だと思っていたいろんなことに「え?」を発してきた。

たとえばお風呂上がりに寝巻きに着替えたとき。

「え?寝るためだけの服を持っているの?」
「え?そんなに珍しいかな?」
「珍しいし、丁寧でびっくりした。寝巻き・・・パジャマ?」
「そう」
「よく眠れる?」
「意識したことがないけど、たぶん」
それからリツくんもパジャマを買ったけど、なんだかんだで着なくなった。

他にも、リツくんが高熱を出した時。

閉店後に帰宅した私が浴室を覗くとリツくんがお風呂に入っている。
「え!」
急いでお風呂から上がるよう指示して、せめて微熱になるまで安静にするよう強く言いつけた。
「熱を上げてしまったほうが早く下がる気がして」
「体力が下がっている時に危険行為だよ」
その夜はつきっきりで看病した。
リツくんはときどきうわ言で私の名前を呼んだ。
私だったら別人の名前を呼んでしまっていたかも知れない。
悪い大人だからだ。
でもリツくんは私の名前しか呼べない。呼ばないんじゃない。呼べない。
熱い手を握り返しながら、私がこの子を守るんだと誓った。

こんな感じで、リツくんの当たり前は私の当たり前と、というより世間の常識からもちょっとずれているところがある。
最初の頃は「一般的、平均的な感覚というものをなるべくさりげなく教えてあげねば」という気負いもあったけれど、最近では「リツくんのほうが正しくないか?」と自問することも増えている。

そもそも私はリツくんを制裁役として認識していた。人を傷つけたのにもう報復は望めない。時間を経ても緩和されない苦痛から逃れるための制裁役として。だけどリツくんはそれに勝った。私のしょうもない思惑に打ち勝って、今に至る。

カウンタの下で目覚めた黒猫の夜から「最近のアオイつまんなーい」と言われてしまった。
「リツのことばっか大事にする。平等じゃない。嫌いじゃないけど、つまんない」。
拗ねてしまっているので抱き上げて、額や背中に頬ずりしてあげる。
「そうかな?そうなのかもね。夜の方が私よりも私のこと分かっているんだろうね」
いつもより長く頬ずりを続けていると、夜は少し機嫌を直してくれた。
「今日のお昼ごはんはアオイのねこまんま食べたい」
「ほんとに?あれでいいの?あんなので?」
「好物だよ。最近は猫缶ばっかだから飽きた」
「ハレくんがたくさん持ってきてくれたからね」
「あいつ、すぐ数で勝負しようとする」
「夜。ハレくんは良い猫缶を選んできてくれたよ」
「アオイの手料理のほうがうまい」
「口の上手な猫さんだ」

夜はリツくんと同じくらいの時期に我が家に転がり込んできた。
リツくんと面識でもあるのかと思って聞いてみると伯父だと言う。
そんなこともあるのかと話を聞かせてもらった。
聴き終わる頃には「ありそうだ」と思えていた。

「あ、今日はお花が飾ってある」
「かすみ草っていうんだ」
「なんかアオイみたい」
「まさか」
「ほんと。リツもそう思ったと思う。だからあの日買ったと思う」
「あの日はね、ベランダから投げられちゃったよ。私のせいでもあるんだけど」
「リツ、アオイに捨てられたらアオイのこと殺して自分も死ぬんだってたまにおれに言うよ。本気の目だよ。あんなやつ物騒だよ」
「そうだね」
「おれにしとけよ」
「私が猫ならきっとそうした」
「ほんとに?」
「うん」
「浮気しない?」
「しないよ。夜だけ大好き」
その言葉に夜は満足してくれたようだった。
尻尾の先が機嫌よく揺れている。
「でもアオイが猫ならリツも猫として生まれてそうだから面倒だな。結局あいつからは逃げらんないんだ」
「ふふ、そうかもね」

夜とそんな話をしているうちに営業時間が来る。
風が気持ちいいので店のドアを半分開けたままにした。
気ままな夜は散歩に出かけてしまった。お昼には帰ってくるからねこまんまよろしくと言い残して。
ひとり残された私は特に急いでする作業もないので、テーブルに頬杖をついた。
五年前の雨の夜、学生服のリツくんが立っていたあたりに目をやる。
今は紫陽花に乗ったいくつもの雨粒が朝の光を受けてキラキラ光っていた。
あの眩しさに負けないよう、強くなりたい。
そう思った矢先、紫陽花の奥を黒いスーツ姿が過ぎる。
油断していた、鮮明すぎる。
わざと焦点をぼかして、直視してしまわないようにした。

右耳の後ろから自分の声がする、(自分だけ幸せになろうなんて)。
左耳の後ろから彼の声がする、(おれが許すわけないだろう?アオイ)。

焦点をぼかすだけでは間に合わずテーブルに突っ伏して、手探りで何かを探す。
何か、は、なんでも良かったと思う。
チョコレートならがむしゃらに口に詰めただろう。
ハサミなら手の甲に立てただろう。
電話なら時報にでもかけたかも?
だけど私の指先に触れたのはリボンだった。
こんなものあったっけ?
顔を上げてすぐに「ああ、かすみ草の」と気づく。
花屋さんに頼んで、後付けしてもらったものだ。
黄色いリボン。
私の中のリツくんのイメージ。
雲間を待たず貫く太陽。

「おにぎり、おいしかった」。

リツくんは帰って来たらきっとそう言う。
それだけを信じて、それだけを待ち望んで、手の中のリボンをおまもりみたいに握りしめてた。
ふたつのちいさな花束が飾られた、しずかな店のいちばん奥で。