QUARTETTO#16『ハレノヒト』

※権化(リツの同僚)視点

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自分の名前を辞書で引いてみたことがある。

1.晴れること。気象用語では雲量2〜8の状態。
2.晴れやかなことや場所。転じて、正式の場所。華々しい栄光の場所。
3.疑いの晴れること。

ハレ。
それがおれの名前だ。

小学生の頃は、どちらかというと引っ込み思案なほうだった。音読の声が小さく、クラスメイトからしょっちゅうからかわれた。

中学生になっても引っ込み思案なところは変わらなかった。だけど、笑いに種類のあることを知る。そして、自分がクラスメイトから受ける笑いが嘲笑とは違うことに気づいた。

ではどういった笑いだったか?
好意だ。
おれは単に「笑われている」という事実だけで、恥ずかしい、傷つきたくないと感じて引っ込み思案を深めていたけど、実際は好ましく思われていたんだ。

それを知ったのは中学二年生の時。おれとは違う、別の種類の笑いを受けているクラスメイトを見た時だ。彼が受けているものは笑いの中でも嘲笑と呼ばれるものだった。おれが受けているものとはまったく違っていた。

おれは少しずつ変わった。おれが変わるとクラスメイトから向けられる目も少しずつ、でも確実に変わっていった。おれは冗談を言うようになり、馬鹿笑いも増えた。学校はおれにとって楽しい場所、自分を肯定してくれる場所になった。

ああ、これが本当の自分なんだと思った。どおりで生きづらかったわけだ。音読する時ももう緊張しない。なんならわざと漢字を読み間違えたりして笑いを取れる。もちろん嘲笑ではなく好意に満ちた笑いだ。

『ハレって、しょうもねえやつ』。

友達は口ではそう言いながら、ますますおれに話題を振ってくるようになった。

初めて付き合ったのは、中学生二年生の夏休み前。名前も知らない子だったけど、たまたま告白を目撃した友達数名から「え、今の告白だったの?あの人から言ってきたの?まじかよ、ハレ、すげえじゃん!」みたいな反応を受けたから「じゃあ」という感覚で付き合うことにした。
どうやら彼女は学年で一、二を争うほどかわいくて、これまで何人もの男子がフられたみたいだから。
「え、そうなの?知らない」。
本当に知らないから知らないと答えたのだけど、「またまた」とか「さすがハレ」とはやし立てられ、悪い気はしなかった。

交際は受験勉強が始まる前まで続いた。
いろんなところへ二人で出かけて、たくさんの写真を撮った。
だけど別れたその日に写真データはすべて削除した。
これだけは捨てたくないと思えるものは、ただの一枚もなかった。
おれの笑顔はどれもこれも、後日写真を見るクラスメイトに向けられたものだったから。
隣できれいに微笑んでる彼女も、似たようなものだったろう。

第二志望だった高校に入って、少しは勉強に身を入れようと思った。
極力目立たないよう振る舞っていたけど、あまりうまくいかなかった。
もてはやされると有頂天になりがちだったし、付き合う子もやっぱり見た目や華やかさで選んでた。

高校生ともなると中学生のころとは比べ物にならないくらい、個人差が出る。

あの子はきれい。あの子はそうじゃない。
あの子は経験豊富。あの子はきっとつまらない。
あの子は自慢できる。あの子は連れ歩けない。

勉強を頑張っても塾通いのやつらを差し置いて一番にはなれなかったから、女子からの人気で一番になろうと思った。そっちのほうが簡単に思えた。簡単に思えるってことは特性があるってこと。

そうなると必然的に、ライバルとなる同性のことも観察するようになる。

こいつは大丈夫。こいつはここがだめ。
こいつはいけてるけど、まあおれのほうが上でしょ。
こいつはダークホース的な?早いとこ潰しとこうか。
こいつはイキってるけど経験浅そう。
こいつは性格いいけど顔はおれのほうが上。
こいつは顔いいけど性格はおれのほうがよさげ。

人の粗探しをしては、安全のスタンプを押していく。
もはやゲーム感覚。
こんな性格だから親友なんてできなかったけど、もとから欲しくなかった。

どうせみんなうわべで生きてると思ってた。

ある日の国語の授業で、おれはいつものように漢字を読み間違えてクラスメイトから好意に満ちた笑いを浴びていた。
中学から始めた「教科書の読み間違えによる好感度アップ術」は、もはや特に意識せずとも行えるものになっていた。
そんな方法をとらなくても他の方法でいくらでも好かれることは可能だったし、でも、まあ癖みたいなもんだった。
マリオのコインみたいな。取らなくても命には関わらないけど、まあ取れるだけ取っとこうか、みたいな。

盛り上げたおれの次に当てられた哀れな男子生徒が、まだざわざわしている教室で立ち上がる。

今までどこに身を潜めていたのかと思うくらいには身長があった。

「 」。

出始めの一行を聞いた時、どうして周囲が沈黙しないのか不思議でならなかった。

と同時に、今まで彼の存在に目も向けていなかった自分に不信感さえ抱いた。

(いったい何を見ていた?)

彼の読み上げる一節一節が流れるようだった。目の前に情景が広がっていった。なんだこれは。もっと、聞きたい。その声を聞きたい。もっと、もっと、もっと、「はい、もういいよ」。教師が止めてしまう。余計なことを。

おれが目を向けた時、彼は着席した後だった。いくつもの頭の向こう、ようやく見えてきた彼はなんと、机に突っ伏して眠っていた。

「ねえ、クラスにあんなやついたっけ?あいつ、名前なんていうの」
隣の女子に話しかけたら「え。いまさら?ハレ、ひっど」と笑われた。
たしかにひどい。

それからと言うものおれはなんとかして彼の声を聞く機会がないものかと策略した。
のほほんとした国語教師が「今日は誰にあてようかな」と思案しているときは「日付が出席番号の人!」と提案してみたがことごとく外されてしまう。
こっちはシンプルに日付のつもりで提案してんのに「なるほど。じゃあ今日は15日だから、1と5を足して〜」なんてひねりを効かせやがる。
そうじゃないだろ15だろ!
と声を荒げたくなったけど、その後の弁解が難しいと思って歯ぎしりするだけ。

そんなある日おれは思いがけず彼と二人きりで話す機会を得る。

どしゃ降りになった放課後、彼は傘立ての前で立ち尽くしていた。
「お、なにしてんの。どれパクろっかな〜て考えてるとか?」
心臓がバクバクしていても割と普通に喋れるおれは、その時も自然に声をかけることができた。
彼はおれの冗談にニコリともせず、
「パクられた」。
と告げてきた。
「あ、そっちかー……。うーん、ご愁傷様。どうせ透明のビニール傘だろ?また買い直せばいいじゃん?」
「大事に使ってた」
「あ、あー……じゃあ、戻ってくる、かも?」
おれはリュックから取り出しかけていた折りたたみ傘をリュックの底まで押し戻しながら首をかしげる。
「あれ、おれの傘もパクられてんな……マジかよ」
傘立ての前でぼーっと立ち尽くしていた彼が、はっと顔を上げた。
「本当に?何色?どういうやつ?」
「え?あ、えーっと、黄色っぽい、あ、いや、青だったかなー?赤?いや、赤はないな、あんま覚えてないなー」
めちゃくちゃうろ覚えな発言だが、そもそも傘立てなんか使ってないんだから、実在してはたまらないのだ。
彼はうちのクラスのだけでなく隣のクラスの傘立てや靴箱の上まで手を乗せて探してくれる。
そこ、届くか?やっぱデカイな。
しばらく後、ぽかんと見守るだけのおれに、
「ごめん、見つけてやれなかった」。
と申し訳なさそうに報告する彼。
「えっ?あ、いやいや探してもらって悪い……!」
ぶっちゃけそんな親身になってくれるとは思ってなくて驚いた。
きゅんきゅんが止まらないおれに気づかず彼は髪をかきむしった後、キリリと顔を引き締めて、
「おまえみたいに注目を集めるやつは持ち物が狙われることも多そうだ。今度からは、折りたたみ傘にしたほうが無難だとおれは思う」
仕上げにアドバイスまでしてくれるサービス精神。
なんだこれ?
「えっ。あ、はい」
最初から折りたたみ傘持ってきてますリュックに入ってます!
とは言えずに黙りこくるおれのことは気にせず、彼は一歩踏み出すと雨雲を見上げた。
「降り止みそうにないな」とか低く呟いて、背中のリュックを体の前に担ぎ直す。
「ちょ、待って待って待って。今出る?今出ちゃうー?」
思い切り良すぎんだろこのどしゃ降り見えない?今じゃないだろー?とその肘を掴んで止めた。
「仕事間に合わない。弱まるの待ってたけど、かえって時間くっちまった」
「へ、仕事っ?」
バイトじゃなく仕事という言葉に違和感を覚えて繰り返す。
「家族でスナック経営してるの。おれ、買い出し担当」
「マジかよ。すっげーな」
「すごくないよ。おつかいだから。言われた店で言われたもの買ってくるだけ。幼稚園生でもできる」
「お店に出て接客とかもすんの?」
「基本はお袋と姉ちゃんがやるけど、まあ人手が足りない時は」
「お酒とか詳しい?」
「うーん、詳しいの基準があれだけど、クラスメイトよりは?」
「私服?制服?」
「ジレ」
「何それちょー行きたいんですけど!」
「おこさまは立ち入り禁止」そう言って彼は、へらっと笑った。
(やばい超かっこいい……)。
きゅんきゅんする。
たぶん隠しきれないくらいおれの目は輝いている。
「じゃあさ、まずは友だちになってください!」
何が「じゃあさ」かは不明だけど、今にも雨の中駆け出してしまいそうな彼を引き止めたくて、思ったままを口にした。

一瞬目を見開いた彼は、もう一度へらっと笑ったかと思うと、

「やだよ。おまえ、うわべばっかで、なんかめんどそうだもん」。

それだけ言い残して雨の中へ飛び込んでいった。

救ってやろうとか思ってた。
引き上げてやろうと思ってた。
あいつの学生生活ちょっとは充実させてやろうとか自惚れてた。

ばか、おれ、ばかか、おれー!

一周回って心地よくなってくるほど圧倒的敗北感の中で、おれは、折りたたみ傘の存在も忘れて雨の中へ踏み出していた。

大学生になったら携帯ショップとかホストクラブのバイトを転々とし、いちばん長くお世話になった居酒屋で今の会社の人事にスカウトされた。

高校時代の彼とは、その後なんの進展もなかった。クラスの中でも外でも交流はなかったし、卒業式にもどんでん返しは訪れなかった。

だけどおれは少し成長した。
まず、人の粗探しをやめた。だって、その人のことなんかその人にしか分からないから。憶測でラベリングするのは良くない。

あと、笑いを取ろうという意識もやめた。確かに笑ってもらえるのは嬉しいけど、それで自分の行動が左右されるのは良くない。読める漢字はそのまま読めばいいし、頑張れるところは手抜きせず頑張ればいい。頑張れないならプライドが高すぎるか、本当は自信がないかのどっちかだ。

今おれは自分自身に素直に生きているつもり、でも、悪癖はなかなか完全には消せないもので、まあだから悪癖って言うんだ、たまに出てしまうことがある。

そしてそれを見抜くやつも必ず現れる。
いつの時代も。

「リツー。今日のお弁当、見せてー?」
電話当番を除いてほとんどの社員が出払ったフロアで毎日わっぱの弁当箱をひろげる同僚。
同棲中の年上恋人を愛してやまないリツくんである。
「うるさいの来た」
露骨に迷惑そうに顔をしかめるが、弁当箱の中身を絶賛するとそこそこ嬉しそうな顔になるってこと、おれは知ってるんだぜ。
「いっやー、もう毎回言ってるけどアオイさんの手作り弁当マジやば。アオイさんがリツのこと頑張れ頑張れって応援してるのがすっげえ分かる。てかお米一粒一粒が叫んでない?リツくん、ファイト!リツくん、ファイト!って。ちょ、リツも耳を澄ませて。聞こえてこねえ?シュプレヒコールやべえんだけど」
「やめろ、食いづらいから」

へらっと笑うその横顔が、高校時代、雨の中へ飛び出す直前の彼の横顔に重なって、「ああ、ここでもまたか」と思うんだ。

おれを敗北させるのは、自分への頓着を捨てた人物。
いつでも一点に集中して、他人からどう見られようとあまり気にしていない彼らだ。
無愛想かと思えばときどき無防備に笑って、ああ、こういう世界だよと思う。

おれが生きてるのは、生き抜きたいのは、こういう世界だ。

「なあ、リツー」
「なんだよ、ぼくは今アオイさんの弁当と対話してんだから喋りかけんな」
「またアオイさんの店に行っていい?あの空気感に癒やされたい。あの空気感にすっぽり抱きしめれて、よしよしされたい」
「なんか聞き捨てならない。権化には部長がいんだろ。そっち行けや」
「いや、そういうんじゃないっていうか。おれは世界を信じたいの。優しいところだって、これからも大丈夫だって。ただいちゃいちゃしたいなら断然部長だけども」

リツは何か言いたげに横目でおれを見ていたけど、言いたかったであろうことは結局何も言わなかった。

そのかわり「いちいち許可取らなくて良いし」と言ってくれた。

「アオイさんの店はアオイさんのものだ。権化が行きたいと思ったら、ぼくの許可なんか取らずに行ったら良いんだよ。ぼくがどうこう言うとこじゃないだろ、それ」
「うっ、リツー!ありがとう!」
「まあ、どういたしまして」
「あ、そうだ。お店にいる黒猫ちゃんにもこの前持ってった高級猫缶持ってくね。ご無沙汰のご挨拶も兼ねて」
「さすが。でもあいつ最近舌が肥えてきたから違う猫缶にしたほうが良いかも?」
「かしこまりましたリツくんからアドバイスいただきましたーありがとうございまーす!べつの猫缶はいりまーす!」
コールうるっさ、と言いながらリツはまたへらっと笑う。

「おまえほんと面白い、ハレ」
「えっ、ハレって言った?いまおれのこと名前で呼んだ?初めてじゃない?やばい漏れる」
「漏らすな」
「もっかい呼んで」
「え、ハレ?」
「それそれ!」
「……ハレ」
「きたきた!こいこい!」
「ハレ黙れ」
「リツから名前呼びプラスの命令口調、いただきましたー!foooooしびれるー!」

リツが笑いすぎて咳き込む。
責任を感じて背中を叩いてやっていたら鳩尾にグーパンされた。

嘲笑でもなければ特別な好意でもない。
ただ込み上げてきたから笑ってしまう。そんな笑い方を見せてくれる人と、おれはこれからも出会っていく。

出会っていきたい。

「ぼくの許可なんか要らない」、そう言ってもらえたはずが、後日アオイさんの店に行った時、番犬のように待機していたリツに入店からしっかりマークされたわけだけど。