QUARTETTO#15『必然の恋人』

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上から降らせるキスが好きだけど、下からすくいあげるキスもいい。
いつもと違う角度から、あなたの瞳が濡れているのを見られるから。
ぼくたちいま晴れた空の下にいるんだって、疑ってたって分かるから。

たまに思うんだ。
運命ってあるのかなあ、って。
以前はしょっちゅう使った言葉だ。運命の人だ、とか。これは運命だ、とか。
運命という響きが魔法めいて強固な感じがしたし、自分の意思じゃないところで物事が勝手に決まってるって、信じてさえいればいいから、安心するでしょ?
でも最近は必然だったと考えることのほうが多くなった。

針を巻き戻して、あの雨の日を再生する。

降りつける雨とびしょびしょのスニーカー。
『おまえはなんで泣かないんだ。』
退屈そうに言い放った父の顔が、脳裏にこびりついていた。拭うのも億劫なほど。
軒下にどれほどの幅もないなんてことお構いなしに、雨はバカみたいに降り続いた。
濡れないために身を潜めているぼくのほうがバカじゃんって自嘲した。
ぼくが濡れたところで、誰も心配なんてしていないのに。
「入る?」
最初は無視した。
しかし声の主はすぐに立ち去らず何度か声をかけてくれるので、ぼくはしかたなく振り返った。

(ただいま)。

そんな台詞が唐突に出てしまいそうだった。それくらい待望されていた。と、錯覚してしまうような眼差しだった。

(ずっと、ずっと、ずっと、きみを待ってた)。

あなたの目はぼくに訴えた。
本当は別の誰かを待っていたんだけど、その時ぼくは「待っててくれたんだ」と錯覚をした。

(ずっと、ずっと、ずっと、ここに帰りたかった)。

運命だ。
事件だ。
衝撃だ、来世まで残る記憶だ。
つま先が動いて、膝が動いた。
上半身が。
心臓が。
あなたに持っていかれて、運命さえ含んだ、それは強烈な必然だった。

イントネーションが独特な取引先担当者からの電話をようやく置いて、パソコン画面で時刻を確認する。
お昼休憩に入ったところか。
気づけば他の社員はランチへ出かけた後だった。
鼓膜に残る憂鬱な残響を早いとこどうにかしたくて、鞄からいつもの藍染を取り出した。
開ける前に、深呼吸。

『ふう、やっとこの時間が来たぜ〜。厄介な取引先の電話で荒んだ心がじわっと和むタイム〜。巾着袋の中には何があるかって?言わせんなよ愛妻弁当。あ、言っちゃった〜!はあ、ぼくの年上恋人まじで完璧。可愛いんだか綺麗なんだかどっちかにしろマジで身がもたねえ。あ、夜はこの限りじゃありません☆ほほう、木の香りがする弁当箱の蓋を持ち上げると本日の中身は?わーお、盛り付け方丁寧すぎてマジビビった!鶏もも肉の照り焼きにちくわの青のり揚げ。そっちの赤いのは、ええと、みょうがの甘酢漬け、かな?ごはんのふりかけは梅ひじき。たぶん栄養バランスも考えられたパーフェクト弁当。仕上げは、リツくんがお仕事がんばれますよーに!の、愛情まみれのおまじないかなっ?もう、今夜はただじゃおかないよっ?』

「あのさ無断でアテレコやめてくれる?」

スルーを決め込むつもりだったけど、はっきり言わなきゃえんえんと喋ってそうだったからやむを得ない。ぼくの反応を得られて権化(同僚のこと)は嬉しそうだ。

「って顔に書いてあったよ、リツの」
「んなわけあるか。あと文章が稚拙」
「おれじゃないもん。リツの顔に書いてあったこと音読しただけだもん」
「もんとかかわいくないから。みんなとランチ行かないの」
「アオイさんの手作り弁当見ることがおれの日課だから」
「はあ」
「あと、それ食べて幸せそうなリツを観察することも」
「はあ?」
「さいきん充実してんね?なんか、これまでのリツと違うんだよなあ。自信っていうか?まあ相変わらず人付き合いはあっさりしてるけど、そのうち女性社員の間でブレイクするような気がする」
「……くだらん」
「出た、そういうとこ」
「はあ?」
「リツがおれと同系統だったら潰せたと思うんだよね。でも真逆じゃん。うざいです、うるさいです、恋愛とか興味ないですから、って顔して実は……みたいな意外性があるというか」
「べつにそこまで周囲に冷たい態度取ってないと思うけど」
ぼくって周囲からはそう見えてるのか?と少々不安になりながら否定する。観察力だけはある権化のこと。あ、社交性もある。明るいオーラも。立ち直りの早さも。言い出したらキリがない、所詮こいつはあるある尽くしだ。
「まあ、うまくいってんだろ、そっちは」
「権化はどうなの」
周囲に人気がないことを確認しつつ、声を潜めて探りを入れる。
「おれたちはね、いま塩漬け中」
ぼくほど周囲に気を使わない権化が変わらないボリュームで回答する。
「塩漬け?」
「ほら、おれも部長もアブノーマルなの好きじゃん?」
「いや、知らないけど」
「シチュエーション設定とかするのな、割と」
「へえ」
「そんで今は、冷え切った熟年カップルっていう設定。離婚届け提出待ったなし、みたいな」
「地味にリアルで怖い」
「週末まじで燃えそう」
「週末?」
「すれ違ってた心がもう一度結びつくって設定」
「めんどくない?」
「やってもないくせに言うなって。なんなら、やってみ」
「やらん」
眉をひそめて大好物のもも肉にかぶりつく。天才とイケメンは理解不能だ。

会社帰り、店の前を通るとアオイさんがカウンターの客と談笑しているのが見えた。
たったガラス一枚なのに。
大切な人を別次元に連れていかれてしまったような気持ちになる。
この気質はよろしくないかも知れない、と思い近くの公園で待つことにした。

「お、紫陽花」
いつの間にこんなに咲いていたんだか。
手持ち無沙汰だったのでとりあえずスマホにおさめておく。
後でアオイさんに見せてあげよう。まだ知らないかも知れないから。
この花もきれいだ、あの色もいいね、とやっているうちにだんだんと楽しくなってきてしまって、夜(黒猫)が背後からじっと見ていることにも気づかなかった。

「うわ、びっくりした」
「何ぱしゃぱしゃ撮ってるの」
「紫陽花」
「あの人に見せてあげようとか考えたんだろ。点数稼ぎ反対」
「恋人の点数稼いで悪いかよ」
「強欲。あ、そうだ。おれも撮ってよ。水色の紫陽花に毛並みつやつやの黒猫。これは映える」
「あ、充電切れた」
「まじかよ、頼むよおじさん」

写真撮影する手段もなくなり、再びベンチに戻って塾帰りの学生や家路を急ぐサラリーマンなどを見つめる。

「そういえば夜はどうしてアオイさんちの猫になったの」
「家猫じゃなくて、半野良」
「うん。でも、結構長い時間くつろいでるよね」
「あの人は優しい。だから居心地がいい。おれがびちょびちょになって帰ってきても、怒らない。おなかすいてたら食べ物くれるし、おなかすきそうな時間帯とか察して食べ物おいといてくれる。おれの好物とか一度覚えたら絶対忘れないし、ていうかあの人おれのこと好きじゃん」
「は?今なんつった?」
待て待て。猫に嫉妬は良くない。
「おじさんも同じだろ?居心地が良いから、アオイと一緒にいるんだろ?」
「まとめられると素っ気ないけど、まあ、そうかな」

運命とか必然とか、結局どっちだって良いのかも知れない。

一緒にいて居心地が良い。
安心できる。
やってあげたいことが増えて、やって欲しいことが増えて、伝えないと伝わらないことに気づいて、言葉をかわしていく。
目を見て、手をつないで、約束を結んで、相手にとってどうにかこの世が生きやすい場所になるよう、はからいたくなるんだ。

「あ。夜とリツくん。おそろいで」。

あたりが薄暗くなった頃、閉店作業を終えたアオイさんは公園にいたぼくたちに気づいてくれる。

「リツの惚気話ばっか聞かされて、つらかったにゃ〜」

今までそんな語尾じゃなかっただろうが。夜の首根っこを掴んで草むらへ放り投げてやろうとも思ったが、アオイさんが楽しそうに笑うから、まあ、良しとする。

「ふふ。がんばったね、夜。じゃ、今度は私の惚気話も聞いてもらおうかな」
「だめ。アオイさんそれ絶対だめ」
「なんで?私も夜とお話したいな」
「いや、そういうヒアリングサービスみたいなのしてないから。な、夜、してないよな?」
「絶賛してる」
「黒猫だまれ」
「こら、リツくん」

ぼくとあなたは二人で一緒に帰ってきたとしても、玄関先で「ただいま」と「おかえり」をやる。
空っぽの弁当箱を渡して「ありがとう」と「どういたしまして」を、やる。
夕飯はぼくがつくることもあれば、アオイさんがつくってくれることもある。明日の弁当の下ごしらえも兼ねているから、と言ってアオイさんがつくってくれることがほとんどだから、たいていぼくは食器洗いをさせてもらう。

いつか飽きるんじゃないか、とか。
いつか嫌になるんじゃないか、とか。
そういう不安は一切ない。
いや、一切ないは嘘だとしても、無駄に心配しない。
権化たちのような付き合い方も否定しないけど、ぼくは、今の暮らしに満足している。

幸せって飴玉みたいにいつかなくなるものだと思ってた。
舐めたら舐めただけ減ってしまって、最後にはなくなってしまうものだと。
だから甘さが足りなくても見ないようにして、減らさないように減らさないようにって持ち続けてた。
だけど幸せは飴玉じゃない。
減ったり消えたりしないし、何より自分で作り出すことができる。一緒に生み出すことができる。

『おまえはなんで泣かないんだ』。

苛立ったような声でそう言ってきた父親も、悪意で言ったんじゃないのかも知れない。ぼくはずっと誤解していたのかも知れない。真意は、もしかすると。

『泣いてくれたらやりようがあるのに』とか。そういう意味だったのかも、知れない。都合のいい解釈かもしれないけど、都合よくなれるくらい、少しは成長できたんだ。

まあ、ずいぶんと会っておらず、確かめようもないんだけど。

(いや、待てよ)。

ぼくは充電中のスマホを開くと、連絡帳を起動した。何度も削除しかけた連絡先がまだ残っている。よし、奇跡。すかさずぼくは公園で撮影した写真を1枚だけ添付して、迷う暇を自分に与えないよう即座に送信ボタンをタップした。

紫陽花と黒猫のショット。

添えたいメッセージなんかないけど、良い感じに撮れたから見せたいと思った(被写体である夜には言わない)。
それだけ。
鼻で笑われるかも知れないけど、ゴミ箱行きじゃない気もする。

ふっと笑ったぼくを夜が怪訝そうに見ている。
ただの猫にするみたいに、その狭い額をなでてやる。
それから隣にいる恋人に、すくい上げるキスをする。降らせるようなキスをする。