※アオイ視点
シリーズまとめ⇒QUARTETTO(カルテット)
贖罪という言葉にはいつも違和感があった。
何かを差し出しすことで相殺される罪なんか、この世にあるんだろうか?
分かっていた。目的は相殺じゃないことを。だって起こってしまったことは覆らない。過去の出来事を無かったことには、誰にだってできない。違和感を禁じ得なかったのは、それだけ私が贖罪という言葉を意識していたから。
贖罪、そんなものがあるのか?
疑いは信じたい気持ちの裏返しだった。
私は醜く足掻いていた。
信じさせて。
信じさせて。
信じさせて。
あの日きみは私の過去を聞いた後「それでもいいよ」と言ってくれた。嘘偽りのないことは声だけ聞いてたって分かっただろう。それくらいきみは私を信じている。
きみがとらえる私と実際の私が遠くかけ離れているようで不安になることがある。そのくせ、決して不安を見せまいとして大人ぶる。本心を見せたら私の前からいなくなってしまうんじゃないか?そう思うから。
私のお店の軒先で雨宿りをしていた時、きみはまだ高校生だった。窓の向こうに黒っぽい人影があるのを見て私は、ついに幻覚を見るようになったのだと思った。きみを包む黒の学生服が、精神が少々まいっていた私の目には「彼」のスーツ姿と映ったのだ。
ドアを開け、店内に入るよう声をかける。きみは横顔のまま首を振る。引き下がれない私は余分にコーヒーがあるのだと伝える。もちろん出まかせ。しばらく押し問答が続いて、強くなる雨足が私に味方し、最終的にはきみが折れた。
大丈夫。
そう言われるのが私は怖い。
「彼」もそうだったから。
(大丈夫。アオイ、だいじょぶ、さっき言ったこと、まじで冗談だから、絶対気にするなよ)。
(わかってる。酔ってるせいでしょ?悪い冗談、あり得ないし。じゃあ、また明日。おやすみ)。
笑顔で別れた数時間後に、「彼」は自宅マンションから飛び降りた。
最後に会った時、どこか変わった様子はありませんでしたか。
警察からそう尋ねられた時、私はとっさに隠した。
数時間前に「彼」から思いを打ち明けられたこと。
私がそれを悪い冗談だと笑い飛ばしたこと。
あり得ないことだと、言い放ったこと。
贖罪という言葉には卑しい響きがある。
だったらそれらしく、卑しくなる他ない。
せめて矛盾しないよう。
せめて自己防衛に走らないよう。
きみから真っ直ぐな思いを向けられるたびに「この子に託していいだろうか」と自問していた。制裁の役割を、この子に託しても?
きみは一回りも若かったから、私への恋に似た何かも一過性のものだろうと思った。いつか後悔するよ、と諭しながら「後悔しろ」と念じてもいた。きみから酷い形で裏切られ、見捨てられることで、いくらか償いになるのではないかと考えていた。相殺までいかなくとも、多少削り取ることはできるのではと。
だけどきみは私の思い通りにならなかった。
一年経って、二年経って、三年経って、ようやく成人式を迎えたきみは、あらためて私に気持ちを伝えてくれた。内心で(この子はバカなんじゃなかろうか?)と思っていたし、たぶん口にも出したかも。それでも思いは変わらないと言うので、ああ、もういいか、と。もはや根負けだ。
交際が始まると一層きみは私を大切に思ってくれるので、私はしばしば錯覚しそうになった。私は過去に誰の心も傷つけたことがなく、誰のことも殺したことがないのだと。
きみが私のすべてを知ってからも変わらず接してくれるので、私はしばしば誤解しそうになった。きみはこの先私以上に大切にできる人に巡り合わず、これからも私とずっと一緒にいるしかないのだと。
いったい私という人間はどこまで卑しいんだ?
制裁役に据えたきみを、こんな、ふうに、縛りつけて。
「アオイさん?」
空の弁当箱を受け取るまでのコンマ数秒の出来事だった。
アオイさん、何かあった?
きみは私の様子がいつもと違うことに気づいて身をかがめる。何も言えなくて、何を求めることもできなくて、首を横に振った。
私をよく観察しているきみは見逃さない。大きな手のひらで私の顔を挟んで怒った顔をする。
また、そうやってひとりで抱え込むの。ずるいな。ぼくにも、分けてよ、それ。
「ごめん、ぼうっとしてしまった」
「うん。考えごとしてたんでしょ?」
「私、きみのことずっと騙してた」
「そうなの?」
「たまに平気じゃない時もあるんだ。でも、きみの前では平気なふりをしてしまう」
「騙してるって言わないでしょ、それ。強がっているだけだ」
「リツくん」
「うん」
「きみって、かっこよくなったよね」
「へっ」
一拍置いて、耳たぶまで赤くなるんだから。
「大化けも大化け。拾ってよかった」
「お、落し物じゃないから」
「うん。持ち主が返せと言ってきても、返さない。絶対」
もう、私のものだからね。
自分でも意図せず掠れた声が出て、今のは影響しただろうと懸念したとおり、きみの体は熱くなる。
私にも異論はない。あるはずもない。
確かめなくとも空っぽとわかる弁当箱を流しに置いて、目の前のネクタイに指をかける。結び目がほどけたら、外の風の匂いがした。雨上がりに吹く、風の匂いが。
(ねえ、リツくん。
きみに愛される時、私は重ねていたんだ。
きみの姿に、「彼」の残像を。
薄明かりの中で、涙を拭わなかったわけ。
きみが私を呼ぶのに、私がきみの名前を呼び返さないとき。
そういう理由があったんだ。
私、所詮、そういうオトナだったんだ。
でも、もう、これきりにする。
リツくん、きみの勝ちだよ。
だって生きてる。
きみは、今、生きてるんだもの。
だから、これきり。
これきりにするなら、打ち明ける秘密なんて、もう、どこにもないよね。)
「アオイさん、このまましてもいい?」
「嫌だと言ってもするでしょう?そして私は嫌だと言わない」
(これで最後、きみという生に、過ぎ去った死を重ねるのは、これで、さいごにする。)
ごめん、リツくん。
そして、ありがとう。
「彼」の顔が、腕が、首が、背中が、この世に私を置き去りにするのを、分かっていたのに、今までずっと待っていてくれて。