シリーズまとめ⇒QUARTETTO(カルテット)
同じ自分の違う日常を知っていくということ。
億劫でなく、それが生きる動機になっていくということ。
好きな人と暮らせるということは、そういうことなんだと。
いつかのぼくへ伝えに行こう。
「……あっ」
かすかな呻き声ひとつ漏らしてあなたの肩がピクンと強張った。
いったい何事かと見守っていると、こちら向きに寝返り打ち、切ないような目をしてぼくを見上げてくる。
「え、なに。どうしたの」
「リツくん、ちょっと……」
「アオイさんエロい待って急いで準備するから」
「そういうのではない」
ぴしゃりと言われて口を噤んだ。
(どういうこと?)。
あなたはぼくの胸の前で握りこぶしをつくったり開いたりしながら眉根を寄せていたが、十数秒ほど経つとようやくホッとしたように顔を上げた。
「足がつってた」
「えええ、大丈夫?」
「よくあるから大丈夫。大丈夫じゃないけど、慣れてる」
「よくあるんだ。もうビックリした。何事かと」
「リツくん、ならない?」
「なったことない」
「え、一度も?」
「うん一度も」
「もう、子どもなんだから」
「いやいや関係ないでしょ」
「分かり合えないじゃない」
「痛いの?」
「痛いよ、それはもうすごく痛い。でも痛みが去るのも知ってるから平気。後半とか、痛みがない体を想像してワクワクしたりするよ」
「へんなの」
「決まってると助かるよね。終わりが見えてると、耐えられる」
あなたは痛みのない体を堪能するように長い息を吐いてぼくの首筋に額を寄せる。
(とりあえず幸先の良い朝だ)。
口にすると台無しになりそうで心の中で思うに留めた。
珍しく自分から体を寄せてきたあなたの妨げにならないよう、少し離れたところに移動していたスマホに手を伸ばす。
細心の注意を払ったつもりだったけど具合が悪かったようで、あなたは「今はじっとしてて」とでも言いたげにぼくの頭を手のひらで挟んでおさえつけた。
単純に嬉しくてヘラっと笑いが出てしまう。
この場に夜(黒猫)がいたら前脚パンチと後脚キックは避けられないやつ。
初めての夜はこんな日が来るなんて想像していなかったように思う。無我夢中で、その時自分が何を考えてたかなんて、やっぱりはっきり覚えてない。テスト勉強より本気出して蓄えた知識が、スコーンと抜け落ちてしまって、パンツ一枚で正座するだけのぼくだった。あなたはどんな顔をしていたんだろう?見ているだけだった体に触れて、見つめるだけだった肌を撫でて、ぼくたちは不平等に一線を超えた。不平等と言うのは、あなたが先に手を出したからだ。「きみはいつか後悔するかも」。まるで「さっさと後悔しろよ」と言わんばかり、おまじないのように注ぎ込まれる言葉に、「しない、ぼくはしない、後悔なんか絶対にしない」と譫言みたいに繰り返してた。あなたは困っていた。困って、迷って、いつ無責任に後悔するか知れない年下を相手に、わがままを叶えてくれたんだ。
まあ、後悔なんて、する暇もなかったわけど。宣言どおりのぼくだ。
あなたはいつも導く側で、ぼくはいつも導かれる側で。やがてぼくは要領を得て、あなたの指示や助言なくして動けるようになって、ついに導く側に回ったんだ。
痛みのない体を味わうあなたを見ていると、世界が終われば良いのにと思う。今日を、今を、この一瞬を、最後に、続きなんてなければ良いのにと。
ほやほやの幸福を噛みしめるぼくの手中でアラームが鳴った。
今日は休みだ。しかも平日だ。先週の土曜日にクライアントのクレーム対応に丸一日費やし、有給消化も兼ねて水曜日に休みを取った。
今朝はぼくが朝ごはんをつくると約束したんだ。うとうとしているあなたをベッドに残して、ぼくはキッチンに立った。
「おいしい。だし巻き卵、ほんとに初めて?ふわふわしてるよ」。
料理が得意で器用なあなたのことだから、探そうと思えばいくらでもアラを探せるだろうに、いいとこばかり見つけて褒めてくれる。圧倒的年上感。
「料理アプリの言う通りにしただけだよ」
「それにしても上出来。やっぱり人に作ってもらうと美味しいね」
「そうか、あなたはいつも作る側だから」
「きみが作ってくれたというだけで、焦げてても気づかずに美味しい言ってしまいそうだな」
くううう。とんでもなく。とんでもなく。とんでもなくこの人が愛しい。こむら返りとこの胸の痛みってどっちが強いのか?なりたくないけど比べてはみたい。
ぼくは休みだけどあなたのお店は営業だ。平日昼間の客層も見てみたいと隅の席で来る客を眺めていたら、そこへ夜がやって来た。人間の男の子の姿で。いや普通に違和感だろ。小学生が一人で平日の喫茶店に来るとか。
と思ったものの、他の客は夜の存在をそれほど気にかけている様子がない。あなたも特に疑問を抱いていない様子。カウンターに腰掛けた夜の前にオレンジジュースを差し出したりしている。
「あ、おっさん!」
おもむろに夜が振り返ってぼくに言う。
「平日この時間帯にいるってことは、会社クビになったの?」
ぼくは無言で夜の隣の席へ移動した。
「高級猫缶やったの忘れた?」
「あー、あれね、今まで食べた猫缶の中でイッチバン美味しかったよ。ありがとね」
素直にお礼を言われると悪い気はしない。
「あれ、夜とリツくんは面識があったの?」
「えっ、アオイさんこの子が黒猫の夜だってこと知っていたの?」
「そりゃ知ってるよ。夜が話してくれたもの」
んんん?
ぼくは頭を抱える。
これまでの痴態が走馬灯のように駆け巡ったから。
妬みに嫉み、大人気ない闘争心。
「先に言ってよ、アオイさん。ぼくにだけ見える幻かと思ってしまってた」
「ふふ。黙っててごめんね。でも、夜にやきもち焼いてるきみが面白くて」
「完全に弄ばれてんじゃねえか」
「猫は黙ってろ」
「リツくん」
アオイさんの前ではあまり出したことのない態度の悪いぼくが出てしまいそうになって慌てて引っ込めたものの「バレてら」と笑う夜を見ていたら罵声の一つや二つは仕方ない。
幸いなことにアオイさんは他の常連客とジャムの作り方についての話で盛り上がっているようで、ぼくは思う存分夜を睨みつけることができた。
「おっさん、ガラ悪い」
「そうかよ。まず、ぼくのことおっさんて言うな」
「おっさんはおっさんだろ」
「あの人より若いぞ」
「いやいや、おまえ本当に自分がおっさんだからおれからおっさん呼ばわりされてると思ってんの?」
「どういう意味」
「あんた小さい頃、野良猫のおっぱいで育った時期あったろ」
「親父のネグレクトで餓死寸前だったんだ。同じおっぱいなら野良猫のおっぱいくらい吸うだろ」
「うん、それ、おれの祖母なんだよね」
何か重大発言を聞いた気がして気が遠くなった。
カウンターの内側に手を伸ばし、メモ帳とボールペンを引っ張り出す。
えーと?
頭の中を整理した結果、分かったことと言えば。
「えっ、ほんとに?夜ってぼくの甥っ子に当たるの?」
「うん。だから伯父さん」
夜は急に笑顔になると、おじさーん、と甘えた声を出しながらぼくの腕にじゃれ付いてした。
兄弟姉妹もいないのに、甥っ子に出くわすとは。
奇怪なり。
部屋を出た時とは真反対の気分で帰宅する。お風呂とトイレの掃除を済ませてももやもやした感情は晴れなくて、遅れて帰宅したあなたの姿を見たときにようやく落ち着いた。
あなたさ、知ってたでしょう。
何を。
夜が人間になることもあるの。
うん。どっちも可愛いよ。
そういう話してるんじゃなくて。
リツくんみたいで。
はあ?
リツくんと夜は同じ時期にうちに来たんだよね。私にとってはどっちも猫でどっちも人間って感じがする。
ぼくも猫?
そうだね。
夜も人間?
そう。
真剣に怒って見せたいと思うのに、あなたが楽しそうに話すから、だんだんどうでも良くなってしまった。
「リツくんも夜も、ちゃんと大きくなってくれて、私は嬉しい」。
大きくなっただけで。
歳を重ねただけで。
嬉しいと言ってくれる人がいるのだとは思ってもみなかった。
複雑な思いで黙りこくったぼくに、あなたは「今日もお疲れ様」と言ってくれる。働いてないのに。
連日はさすがに応えるかな、まずいかな、とそわそわするぼくの内心をあなたは見抜いて「ほどほどならば」と微笑んでくれる。
どや。これがぼくの大切な人の振る舞い!
どこかの誰かへ見せつけたくてたまらない。それは神さまかも知れないし、親かも知れないし、夜の祖母様かも知れない。通りすがりのあなたがぼくに母乳をおすそ分けしてくれたおかげで、この人と出会えたんだ。きっともういないよね、どうぞ安らかにお眠りください。そしてたまに思い出してくれたら見守ってください。
起死回生のたやすい世界で、明日もぼくはあなたと生きよう。