QUARTETTO#12『待ってろ二画目』

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どうしてこんなことに。

何回目かわからない台詞を頭の中で繰り返す。戸惑っているのはぼくだけで、少なくともぼくにはぼくだけに思えて、混乱してしまう。

呼吸を整え冷静になれば、まあ至って事態はシンプルだ。
ぼくにとってはいつもの場所。
いつもの場所にいつもいない人物らが、と言うよりも、揃うはずのない人物らが揃ってしまった。
というだけ。
偶然などではなくて必然だった。
原因は例によって権化だ。

カウンターの隅っこで黒猫の夜が「なになに?どしたどした?その日焼けしたダンディな紳士紹介して!金持ってそうじゃん金!高級猫缶んんん!」とでも言いたげな目をよこしてくる。やれやれ。

夜の視線をたどり部長のほうへ目をやる。

端的に言うと、貫禄。ぼくや権化(ぼくの同僚のこと)にはまだないもの。ぼくにとってはおそらく今後もないもの。いわゆる大人の余裕というものだ。売ってれば買うのに。

「生まれ育った街にこんなお店があったとは。俺もまだまだ知らないことが多い」と部長。
「まじそれな!リツに案内されなかったらおれも行き着いてなかった」とその隣で屈託無く笑う権化。

ぼくにとっては信じられないことだが権化は部長相手にタメ語で話す。ぼくが信じられようが信じられまいがまあ当然なわけで、なぜって彼らは付き合っている。

しかも交際スタートのきっかけとなったのが、

「リツくんには本当にお世話になりました」
「えっ、ぶ、部長?やめて下さい、そんな、ぼくは、ただ本当のことを伝えたまでで」
「謙遜はやめたまえ。おかげで素敵なパートナーと結ばれたんだ。君は俺の恩人さ」
素敵なパートナー、と言いながら権化の腰に手を添える部長。
んんん。
目のやり場に困ってカウンターの中でほくほく微笑んでいるアオイさんを見上げる。

おいおい今日もかわいいな?朝も見たけどかわいいな。こんな年上と付き合ってる最高は誰だよ。あ、ぼくだ。

「そして、アオイさん。あなたのように美しい方ともお近づきになれた。これも、リツくんのおかげだな」

あなたの瞳に乾杯などと言い出してもおかしくない声色で部長が語りかける。ぼくはテーブルの木目を爪で引っ掻き続けた。

だって、こんな。

「部長さんみたいな男性なら美しい方なんて見慣れているでしょう」とアオイさん。

だって、こんなん。

「たしかに俺の周りにはたくさんの薔薇が咲いている。だが、とりわけあなたには百合のような清廉さ、すずらんのごとき慎ましさ、加えてかすみ草のような純粋さが透けて見えるようだ」

こんなんやってられないだろ!

ぼくはそう叫んで席を立った。おや、と部長が顔を向ける。カウンターのあなたは少しだけ反省の色を見せる。やりすぎたよね、と。

夜の鳴き声がゴングとなった。

にゃーん。

部長。大変恐縮、失礼千万ではございますがぼくの大切な人に気安く声をかけないでくれ。

わ、わかった。リツくん。俺が悪かった。つい本音が出てしまって。

本音だあ?はいはい、弁解まで含めて口説いてますよね?無差別ですか無作為ですかあんたには節操てもんがねえのかよここは行きつけの接待御用達クラブじゃなくて夕方のノーマルな喫茶店ですけど?!アルコールまだ出してませんけど?いやノーマルって言ってもぼくにとっては特別で大切な場所だこの聖域に良からぬものを持ち込もうとする輩は何人たりとも生かしておきたくないのですがあなたはお世話になった上司なんで多少は酌量の余地ありと考えてはいますああよかったですねえ命拾いできて!とりあえずいい加減にしてもらっていいですか。てか権化あんたもなんとか言えよてめえの盛んなパートナーが目の前で他のに手出そうとしてんだぞぜってえ阻止するけどな!

にゃーん。

妄想ここまで。

現実世界のぼくは比較的おとなしめにコーヒーカップのふちを撫でたりしている。何も聞いてませんし何も見えていませんよ。ええ無害リーマンです。

夜から「だっせえおっさん。ゴング鳴らして損した!」とか思われていそうで目をやることもできず。

そうしているうちにも部長の口からはとめどなく賞賛のフレーズが流れ、真似できないぼくは口から砂糖を吐き続けた。

見かねた権化がぼくの肩を抱く。何この似た者アホカップル。羞恥心とかねえのか。

「暗い顔やめろ、リツ。あれ部長の発作みたいなもんだからさ。気にすんな」
「あんたが気にしろ」
「なんで?」
「なんでって、悔しくねえのか。目の前で他の男口説いてんだぞ責任持って止めろや」
「えー。やだ。てかリツさ、口悪いね?面白いから良いけどー」
「えー。やだ。って何」
「おれ、ぺらぺら喋る部長見るの好きだし。さすがうちの営業部を統括するだけあるなあ、って」
「この、お花畑野郎」
「リツだって仕事してるあの人見るの好きだろ?コーヒー豆を挽いたり、窓を拭いたり、戸棚の整理したり、お客さんの相手したり、売り上げ数えたり。そういうアオイさん、見ていて幸せになんない?ああ、この人、ちゃんと生きてるんだなあって実感できない?おれはたくさん喋って生き生きしてるあの人が好きだよ」

何言ってんだこいつ?

という気持ちが変化していった。

権化の視線がどんどん柔らかなものに変わるところを、目の当たりにしたからだった。

こんなわかりやすくて大丈夫か?

他人事ながら不安になる。

だけど「あ、そうだ。こないだ教えてもらった映画の話だけどさ、」と話を切り替えた時にはもういつものスカした権化だったからなんとなく安心した。できる男はソツがない。

ぼくの大切な人が同じ職場にいなくて本当に良かった。ぼくなら権化ほどうまく隠せなかっただろうから。

閉店後、店内の掃除や明日の準備をしているあなたを見ながら権化の言葉を繰り返してみる。

(リツだって仕事してるあの人見るの好きだろ?見ていて幸せになんない?ああ、この人、ちゃんと生きてるんだなあって。)

「待たせてしまって、ごめんね。あと10分くらいで終わらせるから」。

ぼくが真剣な表情で黙っているものだから、あなたは誤解をしたようだった。

ううん、ゆっくりで良いんだ。このお店で動き回るあなたのこと、ずっと見ていたいから。なんだろう、幸せになる。権化に洗脳されたのかな。

今日、部長さん、きみのことたくさん褒めてた。

知らなかった。あなたのことばかり褒めてたけど。

きみは権化くんと盛り上がっていたから聞こえていないだけ。

盛り上がって見えました?

うん。同世代って感じ。楽しそうで、私まで嬉しくなった。

(ああ、ここだ。ぼくとあなたが決定的に違うのは。ぼくは、ただ嫉妬した。あなたは、自分まで嬉しくなったと言う。この差、この差だよ、ぼく)。

あなたは遠い。あなたに追いつきたい。でも、縮められる気がしない。
そう?私にはリツくんの背中が見える気がするんだけど。きみは新しいものとかたくさん教えてくれるじゃない。私疎いから、そういうの。いつも新しいことを学べるよ。

ちょっと論点が違うんだけど、まあ、いいか。

ホウキを戸棚へ閉まって、あなたは「うん」と頷く。今日のお仕事終わり、という意味の「うん」。あなたがあなたの一日を無事に終えたところ、見届けられたこと、素直に自分の幸福として感じられる。

権化の言ってたこと、少しだけ分かった。

アパートへの帰り道、月が丸いとあなたが言う。見上げてぼくも丸いねと繰り返す。

月が丸いね、丸いね月が。

(今日はただ隣り合って眠りたい。)

月が丸いね、丸いね月が。

一歩前を歩いていたぼくの、スーツの裾をあなたが引っ張る。

お?

珍しいこともある、と振り返ると、なかなかお目にかかれないような表情を浮かべたあなたが立っているんだった。

「ど、したの」
「ごめん。帰り着くまで我慢するつもりだったんだけど」
「え、なに」
「きみが、同世代の彼と楽しそうに会話してるの見て、すごく、苦しかった」

初めて見る顔。
でも、知ってる。
ぼくは、この顔、知ってる。

「きみには私じゃないんじゃないか、とか。私がきみを占領するのは、まずいんじゃないか、とか。まずいっていうのは、法的にとかそういうんじゃなくて、もっと、なんか」

知ってる、知ってる、バスの窓に、何度も映した。

「でも、渡したくない」

聞いたことがある。この声、心の中で、何度も響いた。

「私のほうが、ふさわしいと、思っていても、いいかな?」

何度も何度も何度も。

これは、あなたに振り向いてもらいたかった頃の、ぼくだ。

ずっと追いかけているつもりだったけど、あなたはぼくに追いついて、ぼくはあなたに追いつかれたんだ。

(いいに決まってる、)

アパートの玄関に入るなり抱きしめ合った。

「きみ、すごいね。こんな気持ちだったの。これを、一人で耐えていたの」
「そうだよ。でも、あなたは大丈夫だからね。一人じゃないから、ぼくが分かっているから。だから、大丈夫。あなたは大丈夫だ。ぼくが分かっているから」

馬鹿みたいに同じことを繰り返す。

この流れはどう引っくり返したって甘い夜になる流れだった。

仕方ない前言撤回だな、とネクタイに指をかけたぼくの脚の間を素早く横切る黒い影。

しまったと思うがもう遅い。でも思いたい。しまった。

そいつはぽんとベッドに跳ね上がるとそこで丸くなってしまう。

夜。さいきんお部屋に入れていなかったからね、拗ねているんだよね、ごめんね。

あなたの優しい声かけに、夜は「なんのことだか?」とすっとぼけた声を漏らす。

「日中は汗ばむとは言え、夜は少し冷え込むこともあるから、今日はここで一緒に寝ようね」

夜の正体を知らないあなたは、ひたすら可愛い猫に向かって甘やかすようなことを言う。

だまされるな、そいつは、その猫は。
あくどい猫なんだ。

とは、言えない。
窘められて終わるだけだから。
分かっているから。
夜もぼくも。

連勝続きだと思うなよ、と言いたげな翡翠の目に勝ち誇られ、とりあえず火照りを冷まそうと、ぼくはひとり浴室へ向かうんだった。

その夜は望まない川の字で、朝までぐっすり熟睡した。明日こそは、毛並みの良い二画目を、ぼくが悪者にならないよう、秘密裏に取っ払ってやる。待ってろ二画目。ぼくはしつこい男だからな。