QUARTETTO#11『成長痛』

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いちばん始めから見ていたかったな。

あなたが産声を上げた瞬間、周囲で喜ぶ人になりたかった。はじめての食事、はじめての歩行、あなたの身の上に起こったすべてのはじめてに居合わせたかった。ランドセルを買ってもらって張り切るあなたを写真におさめたかった。あなたが悩んだり笑ったりするところを見守りたかったし、反抗期に入って口数の少なくなったあなたからぶっきらぼうな対応を受けたかった(あなたにもそんな時期があったんだろうか?想像つかない)。初めてのデート前日に緊張するあなたを陰ながら見守りたかったし(うそ、絶対阻止)、免許をとった日も、成人式の夜も、いろんな経験をして、オトナになっていったあなたを、ああぼくはどうしてあなたから一周遅れで産まれたんだろう。

会社のお昼時間いつものように権化(ぼくの同僚のこと)と話していると、権化が軽く引いているのがわかった。

ていうか親?あんたあの人の親じゃね?
彼氏ですけど。

どや。今日のお弁当も彩り鮮やかだ。あの人が早起きして作ってくれた。日ごと上達していくのが分かって、愛されていることを実感する。あなたは「お店のメニューづくりのヒントにならないかなあ」とかぼやいているけど、それもぼくが心理的負担を感じないための配慮だと知っている。あなたという人はどこまで気配りできる大人なんだか。付け入る隙もなくて劣等感を感じることもある。

「でもさ、リツ」
「へっ、リツって呼んだ?」
「あ?そうだろ?」
「あ、うん」

さすが権化。営業部きってのエースはさらりと距離を詰めてくる。ぼくは人のことを下の名前で呼ぶことに慣れていなくて、呼ばれることにも当然慣れていない。相手が世俗の権化みたいな存在ならなおさらだ。こんな満たされた外見と感覚の持ち主が、ぼくのことを名前で呼ぶ。これもあの人のおかげだ。いや、おかげだって言うとまるでぼくが権化からずっと親しみを感じてもらいたがっていたかのような言い方になるけど、そうじゃない。あの人の存在が、ぼくの生活のあらゆるものを確実に変えていっていて、権化もその一部ってことだ。ただそれだけだ。べつに、こんな、デリカシーに欠けるやつ。

「おれから見たら、リツとアオイさんの関係は落ち着きすぎてる気がする」
「刺激は求めてない。平和が一番。おまえにとやかく言われたくない。口出しするならあっち行け。飯が不味くなる」
「まあまあ。おまえはそうかもしれないよ。でもアオイさんも同じ考えかなあ?」
「あの人の思考をあんたが語るな。はっきり言って耳障りだ」
「ほんとはっきり言うね!最近のリツすげえ面白い」

屈託無くけらけらと笑う。怯むとか傷つくという言葉はこいつの辞書にないんだろうか。まあ、ないんだろう。おおいにいいことだ。

帰り道、普段は素通りする花屋の前で足が止まった。かすみ草が綺麗だったからだ。かすみ草が綺麗だったから足を止める。そんな感覚もあの人と暮らし始めてからだろうか?かすみ草だけ買うことってできますか。間抜けな質問かも知れない、と軽く後悔した。だけどすぐに杞憂だと分かり安心した。好きな人へのお土産だと言うとリボンまでおまけしてくれた。なんか大袈裟になっちゃったかな。だけどすでにあなたがぼくに笑いかけるのが見える。想像だけど、それだけでもう幸せになれる。

現実のあなたはぼくの差し出したかすみ草を受け取って、あきらかに一瞬目を輝かせた。だけど急にハッと何かを思い出したように、表情を硬くする。えっ。

「……ありがとう」

もうちょっとリアクションを期待していただけに肩透かしを食った気分だった。でも、まあ、他のお客さんもいることだし、考えてみれば渡すタイミングが悪かったかな。カウンターの隅っこで黒猫の夜が「なんだなんだ?どしたどした?肩透かしか?失恋か?いいね最高!楽しすぎるんだけど!おれにも教えろや!」みたいなキラキラの瞳で様子を伺っているのが察せられたからとりあえず瞑想に入った。この店のコーヒーは相変わらずうまい。うん。

閉店後も違和感は消えなかった。それどころかますます強く感じられるようになった。辺りに人気がないことを確認して、いつものように手をつなごうとすると、さらりとかわされてしまう。もう一度試みようにも、持ち替えたかすみ草で埋まってしまった。

今日もお弁当おいしかった。ありがとう。
どういたしまして。

会話はそれきりで終わってしまう。今までどう会話を続けていたか分からなくなる。あなたの態度が変わったのか、自分の感覚がおかしくなったのか、分からなくなる。

一緒の部屋に帰っても違和感は消えないし理由は分からない。夕飯は大好きなハヤシライスだったけど、何度か喉につっかえた。あなたは水を差し出してくれるけど、それ以上の声をかけてくれない。ごめん、となぜか謝ってしまうぼくにも小さく頷くだけで。

何がいけなかった。
何をまちがえた。
何をどうしたらゆるしてもらえる?

考えても間違うのなら訊ねるべきだった。だけど勇気が出ない。勇気なんか、あなたに思いを打ち明けた日に使い切ってしまった。ぼくに背を向けたままキッチンで洗い物をしている。お皿洗いを替わろうと申し出たものの、だいじょうぶ、の一言で遮られてしまった。

(だいじょうぶ、つまり、ぼくがいなくてもだいじょうぶ、と。これは、もう別れたいということ?)。

どこでまちがえた。
なにがいけなかった。
考えろ考えろ考えろ、ぼく。

朝は変わらなかった。お弁当も持たせてくれた。いつもと今日で違うところと言えば、そうだ、かすみ草だ。きっとあの花があなたの地雷だったんだ。ぼくの突拍子も無い思いつきが、あなたとぼくの奇跡みたいな日常、日常になりかかっていた、ぼくにとっての非日常を、ぶち壊しそうになってるんだ。

気づいたらぼくはベランダから外へ向かって花束を振りかぶっていた。

花束の次は自分だ。身投げだ。もう嫌だ、つらい、こわい、あなたに捨てられたぼくは、いずれにせよ生きていられない。屑だ、屑は消えよう。社会のお荷物だ。お荷物なだけならまだしも害悪だ。目障りだ。人間だろうがうさぎだろうが、酸素のない月面で生きていけないだろう?だって無理。早く、終わらせないと、

リツくん!

聞いたこともないあなたの声がした。呼吸が荒くなっていたのが今さら自覚される。何をしていた?ぼく、何をしようとしていた?

月とかうさぎとか、これ、なんの残像?

目の前がスパークして。
スローモーションのように。
花束の白が薄暮の紫に吸い込まれていく。
取り返しのつかないワンシーン。
夢か地獄か、呆然とするぼくが受けるのは、嘘みたいに必死のキスだった。
言葉じゃ間に合わなくて、とっさに重ねられた唇だった。
色恋じゃなく、救命。
これは、生かすための人工呼吸。

ごめんよ、うそ、だから生きて。

あなたの声が鼓膜に届いて、ゆっくり血に溶けていく。

本日、ぼくはあなたから産まれた。

しばらく後、無残にも放り投げられたかすみ草は、背の高い水色のコップに活けられていた。さいわい他所の庭や人の頭に着地することはなかった。

以下、いつもどおりに戻ったあなたが打ち明けてくれたことによると。

本当にごめん。きみはまだ若いので、もしかすると刺激を求めることがあるんじゃないかと思ったんだ。
刺激?
ほら、きみは、だって平成生まれだろう。
は?それが?

首をかしげるぼくの前に、あなたはクローゼットから雑誌を引っ張り出してきた。こんなところに収納されていたとは。雑誌にはところどころ付箋が貼ってあり、該当ページをひらくと頭の痛くなる特集タイトルが目に入った。

年の差婚のデメリット!
退屈な恋愛にさよならしよう♩
マンネリ脱却!!
年下男の悦ばせ方☆

ああ、本当に頭が痛い。

もしかしてぼくがこうだと思ったの?あなたといて一瞬でも不満を感じることがあるのではと?あなた馬鹿だよ。信じられない。ぼくを殺すところだったんだ。
うん。それがよく分かった。きみを甘く見ていた。私が馬鹿だったと思う。雑誌は明日処分する。何よりきみを不安にさせたこと、申し訳ない。魔が差してしまったのかも知れない。

魔?

きみを試してみたいと。自分の気持ちも。
ふうん、結果はどうだった。
始終胸が痛くて、張り裂けそうだった。
ぼくはその何倍も苦しんだ。
ごめんなさい。
魔のせいにしないで。あなただよ。
うん。良くない考えだった。反省している。

言い訳をしないあなたを見ていたら、だんだんとぼくも平常心を取り戻していった。

その一方で、悪い閃きが頭をよぎった。

(これってもしやボーナスステージでは?)

恥ずかしくて言い出せなかったあれやこれ、幻滅されたくなくて押し殺していたあれやこれが雨上がりのタケノコみたいににょきにょき伸びてきた。

(このボーナスステージは誰にも邪魔させない。)

そう決意したぼくは夜の侵入を阻むため、先手を打ってベランダの窓を閉じておいた。これで夜も打つ手がなかろう。

準備は万端だった。

その夜あなたはいつにも増して優しくて、ぼくは何度も自分に言い聞かせねばならなかった。

明日は平日、明日は平日、明日は平日。
週の始め、週の始め、週の始め。
寝不足禁止、寝不足禁止、寝不足禁止。
寝坊厳禁、寝坊厳禁、ねぼうげんきん、だけど、ああ、不可、ぼく、この人が好きだ。

一生でも足りないのに、マイナスからのスタートなのに、たった一夜くらい。

いいでしょう?
ええ、いいですとも。

思い描いたテンプレートな神さまは、期待通りにぼくのわがままを許可してくれた。

翌朝、目の下に薄っすらクマをつくって出勤したぼくに権化が近づいてくる。

「よお、リツ。何その顔。うける。昨日はお楽しみか?」
「訊き方。部長世代のうつってんじゃん」
「はは、でもおれあの人からメール禁止令くらっちゃった」
「は?あの人ってアオイさんか」
「まあ、落ち着いて聞けよ?」

かくかくしかじか。

要約すると、今回の件、権化が元凶だということだ。
なるほど理解。
結論として、ぼくは権化にスイートルームペア宿泊券朝食付きを提供することを約束させた。
おまえらの物差しでぼくたちを計るな。
そう釘をさすことも忘れなかった。

実際にはおかげさまでまあ美味しい思いをできたことは、癪なので言わない。言ってたまるか。

「そうだ、権化。ついでに高級猫缶も」
「へ?猫缶?」
「機嫌取りにストックしとくんだよ、つべこべ言わずに買ってこい。おそろしく気位の高い猫様がプライド投げ打ってでもよだれ垂らして強請ってくるやつ」
「りょ」

これで夜様対策も万全だ。雨降って地固まる。少々荒療治だったけど、ほの暗い部屋でぼくの名前を繰り返す、その声が、今も耳に響くようで、とっくにすべては帳消しになっていた。

そうかそうか、甘やかされたい時には相手に罪悪感を抱かせるのが効果的なのか。小学生のぼくに教えてあげたい。甘やかされたかった、言えなかった、言ったら捨てられるんではないかと、嫌われるんではないかと、人の目を伺って常にビクビクしていた、あの頃のぼくに丁寧に教えたかった。

なあ、ぼく、そうではないぜ。

でももしこの世界にタイムマシンがあったとして、ぼくが甘え方を覚えていたら、あの日あなたの店の軒先で雨宿りすることもなかったんだ。ふと顔を上げたあなたが、ぼくに声をかけることも。

すべてはうまくつくられている。

妙に納得しながら、今ぼく以上に寝不足であろうあなたを想って心なしか少し腫れた唇をなぞる。大人気ないぼくの脳裏に、夜の悔しそうな顔が浮かんで消えた。