QUARTETTO#10『わるいねこ』

シリーズまとめ⇒QUARTETTO(カルテット)

たった数日そのコースを歩かなかっただけで、ずいぶんと景色が変わっていた。雨がたくさん降ったせいかも知れない。花は落ちて緑が繁る。薄く柔らかな葉っぱが太陽を照り返してる。生命の息吹を感じられる、爽やかな風の似合う、そんな形容詞をつけて愛でるべき変化だろうに、ぼくの心では季節はずれの黒い毛糸が絡み合っていた。ぱさぱさに乾いて、ほどくことができなくて、弱いところがぎゅうぎゅうに締め上げられる。助けたいのに、それはぼくに「みすてて」「もういって」と告げていて、ひとりの予感に震えていた。

アオイ、さん。

心を込めて名前を呼ぶとあなたは視線だけじゃなく、顔をこちらへ向けてくれる。
「驚いた。きみが、めったに、その、名前で呼ぶから」
「ごめん、驚かせてしまって。ぼくも、びっくりした」
今さらだけどあなたがあまりにもぼく好みの顔立ちをしていたので、自分の恋人であることも忘れてまた緊張してしまうぼくだった。

「何を聞きたい?」。

ほら、あなたはちゃんと分かってる。最近ぼくが、何かいいかけては飲み込んでいたこと。たぶん、それが何であるかも。あなたから語りかけられた時ほとんどそうであるように、ぼくは、知りたい思いを隠すことをあきらめた。

「あなた、の、過去が知りたい」
「今?」
「できれば」

いや、できればっていうか、今かなと思いまして。

(あなただって、待っていたじゃないか。ぼくが切り出すのを。ぼくに促されるのを。悪い大人。わるい、おとな)。

権化(ぼくの同僚のこと)は、あなたが若く見えるのは秘密を持っているせいだと言った。秘密を持った人間は、秘密を持ち始めた時から時間の進みが遅くなる。正確には、当時と現在で、行きつ戻りつになるんだ。だから、他人が見たら驚くほど若々しく見えたり、へんな色気があったりする。他でもない権化の物差しであなたを見るのは嫌だったが、たしかに一理ある。と思わせるところがあった。そう思ったのは、ぼくがずっとあなたの秘密を暴いてみたいと、気にしないふりをしていながらも、ずっと気にかけていたからだ。

まだ早いよ。
そう言われると思っていたけど、あなたは話してくれた。
驚くべきは、黒猫の夜も静かに耳を傾けていたことだ。いつもなら、思い出させてんじゃねえぞ、恋人ならなんでも知ってて当然とか調子乗ってんじゃねえぞてめ、とでも言いたげにぼくの手の甲に爪を立ててきただろうに。
つまり、あなたは自分の意思で吐露するんだった。
あなたの意思であるなら、夜もぼくを責めない。
話の雲行きが怪しくなってきたころ、ぼくは打算していた。

この話が終わるころ、ぼくはあなたにどんな言葉をかけよう。どんな感想を述べよう。

たとえば、こう。

「過去はもう過去だ」
「あなたは悪くないよ」
「振り返らず、これからを生きていこうね」

うん、とびきり優しくて甘いやつ。

ぼくに話して良かったと、思って欲しかったんだ。

だけど、ぼくがかけた言葉はたった二つ。
一つ目は「つらい?」。
あなたの答えは「うん。でもきみが知ってくれるなら話すよ」。
二つ目は「べつにいいよ」。
それがすべてだった。
それですべてだった。
かっこつけるつもりはなくなっていて、ポロっと、本当に無意識のうちにこぼれていた。

「それでもいいよ。ぼくの、あなたに対する気持ちについて、影響しなかった」。

あなたは「強いね」と微笑んだ。

私だったらこんな恋人いやかな。
嘘だ。もしぼくがあなたの立場だとして、同じこと打ち明けても、あなただって言うよ。べつにいいよ、って。それがどうしたの。って。
後から効いてくるかもね。ボディーブローみたいに。
その時は慰めてもらうから大丈夫。
私に?
そう、あなたに。当然。

いつもはブラックで飲むコーヒーに、シロップを入れた。コップの半ばまで飲み干したとき、夜と目が合う。本音と建て前を見透かす猫の目が、ぼくを見ている。逸らす必要がなくてそのまま見つめ合っていると、夜はうとうとし始め、ついに眠ってしまう。まじか。

メニュー、増やそうかな。
ケーキ?
うん。きみにいろいろ教わりながら。
えっ、ぼくに。
だめ?
いや、大歓迎。ぼくでも役立つことがあるんだなあと。
自覚なかったのかい?きみは天然だな。

あなたに言われたくないんですが。というせりふは飲み込んだ。あなたがぼくを年下ぶらせてくれる間は、素直に年下ぶろうじゃないか。拗ねたようにほっぺたを膨らまそう。

毒と薬を交互に飲んで、死に至らないよう、かつ、退屈にならないように。

そうだ。あなたどうしてあの時ぼくのわがままを聞いてくれたの。
あの時?
いや、何度アタックしてもつれなかったのに、あの日は、違ったと言うか。
ああ、あの頃はもうきみも成人してたし。出会った時はまだ未成年だったしね。
それだけ?
うーん、あとは、なんか必死だったから、もういいかなぁと。
ゆっる。他には。
ない。
ないの?怒るよ。
あるけど、質問形式では答えたくないかな。
えっ。なになに。
いつか私に言わせてごらん。自発的に。言わざるを得ないように。仕掛けてきてよ、待ってるからね、リツくん。

こんな時だけ名前を呼んで、あなたはぼくから根こそぎ言葉を奪ってしまう。

はわわわとたちまち赤くなるぼくの手の甲を、とっくに寝ていたはずの夜の前足が引っ掻いた。