QUARTETTO#9『提言者』

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残業があり夜ごはんを一緒に取れなかった日、あなたはすでに寝ついていた。
物音を立てないようベッド脇に寄り添って、ローテーブルにお酒の瓶をみつける。
もしやぼくの帰りが遅くてさみしい思いをしていたな、と自惚れながら跪くと、シーツの中から蔦のようにするすると腕が伸びてきた。
そのまま首に絡みつく。
されるがままに身を任せていると、掠れた声がぼくの知らない名前を呼んだ。

お店の鍵を一人で使ったことはないけれど、ありかは知っていた。
これはべつに秘密でないのだ。
開いていると勘違いして入ってくる客もいないだろう時間帯。カウンターの真ん中の席に腰を下ろして外国ラベルの瓶を開けた。名前を確認せず一口あおる。
もう少しいけるかな、ともう一口あおる。
ちびちびやっていると、じょじょに店内が明るくなってきた。窓の外は暗いまま、この店だけが夜空に浮かびあがった心地がする。

しっかりしろよ、おっさん。

とつぜん子どもの声がした。

なんでこんな時間に、とか、どうやって入った、とか、すべき質問は出てこず、

おっさんていうな、まだ20前半。

おれにとってはずいぶんとおっさんだよ実際ね。
ぼくをおっさんて言うからにはあの人はどうなるんだよ。仙人か?
ばか、あの人はあの人だ。
扱いが違うじゃないか。
当然さ、あの人とおまえじゃ位が違うんだから。少し可愛がられてるからって、おっさんが自惚れてんじゃねえぞ。

ここまで酒に酔っていなければ首根っこを捕まえてやりたいところだが、体のどこにもしゃんと力が入らない。それを分かっているのか、子どもはぼくのすぐ横の椅子に腰を下ろした。10歳くらいだろうか?

べつにおっさんのためってわけじゃねえけど、あの人のために弁解しといてやる。浮気とかじゃねえぞ。
なんのはなしだ?
あの人が呼んだ名前だよ。
なんでそれを知ってる?
おれはなんでも知ってる。
浮気じゃないなら何。
あの人が死に至らしめたと思い込んでる男。
どういう意味だ。
事故だよ。警察もそう判断した。でもあの人は違うと思ってる。自分のせいだと。だから時々ああやって酔いつぶれる。
あの人の思い込みをといてやるにはどうしたら?
おっさんには自尊心てもんがねえのかよ。自分で考えろ。
きみの名前は?
夜。知ってるだろう。
聞いたことがある。
おれはおまえに呼ばれたことがある。

かろうじて顔を上げると、子どもの横顔が目に入った。知っているような、知らないような。違うものとして、認識していた記憶があるような。

そんなに見ないで。またちゃんと会いに来てやるから。
いつ?
明日の朝とか。
数時間後だ。
それまで眠れよ。
夜。
なに。
ありがとう。わざわざ教えてくれて。自分が、何するか分からなくて怖かった。
あぶないやつ。あの人の護衛はまだ必要みたいだな。

翡翠の瞳を持つ騎士は、ドアを鳴らして出ていった。

翌朝ぼくはベッドの上で目を覚ます。キッチンではあなたが野菜を切っている。いつまでも見ていたくて瞬きも惜しんでいたら、涙がじわりとにじんできた。

ぼく、お店にいる夢を見ていた。緑の目をした子どもが隣に座って、なんか有益な情報とかくれて。
有益な情報?
覚えてないんだけど、あなたに関することかな。あなたに関することしかぼくにとっては有益ではないから。
ふふ、きみの生活は偏ってるね。今日のゆで卵みたいに。ごめん、黄身を真ん中に寄せられなかった。
味には変わりないよ。あなたがつくってくれたということにも。ねえ、ぼくを起こしに来て。
起きてる。
起こしに。

たまに鈍いあなたがたった一度のやりとりで幸運にも気づいて、額にキスを落としてくれる。

今はここまでだよ。

去っていくあなたのシャツの裾に伸ばした手を、横から伸びてきた黒い前足がはたき落とす。

夜。おまえ、いたの。
なうなう。
まいったな。
なーん。

「あの人を困らせるんじゃねえ。盛りのついた社畜めが」、そんな声が聞こえた気がして夜の顔を見返す。
まさか、な。
「おれに感謝しやがれ」、今度こそはっきりと聴こえて夜を抱き上げた。
緑の目。
翠の目。
あ、こいつだ。
とか本気で思うわけじゃないけど、警戒心はとかないでおこう。

週末じゃないのでベッドを抜け出し、頭を冷やすためにシャワー浴びた。排水口にきのう見た夢の記憶が流れていくんだけど、二日酔いに似た頭痛に苦しむぼくには何も見えない。