QUARTETTO#8『まちぼうけ』

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絆なんて結んでほしくない。誰ともつながって欲しくない。1本の糸にすがって欲しい。ぼくがあなたを思うように、あなたにもぼくを思ってみて欲しい。得体の知れない幸福感で、死にそうになるから。

わがままが過ぎるんじゃないか、権化にそう言われて首をかしげる。
わがままとは?
なにその反応。まさか自覚がない?
わがままで何が悪い。
ひらきなおった!

あれ以来、権化はオフィスで昼食をとるようになった。

それまでは他の社員から誘われたらほいほいどこへでもついていったのだが、ぼくと話す時間を楽しんでくれているのか、相談したいことがあるのか、とりあえず居残るようになった。

ちなみに「あれ以来」の「あれ」というのは、第三者的観点から部長を高く評価した日だ。その後どういう経緯があったか興味はないがとりあえずうまくいっているらしい。朝会議で部長と視線が合うことが増えた気がする。彼はぼくの目を見てグッジョブ上出来!とでも言いたげに頼もしく微笑んでくれるのだ。はあ、と会釈を返すくらいしかぼくにはできないけど、まあ、いいことをしたのかな。

今日のお弁当は三色丼だ。あの人が手間暇かけて下ごしらえや飾り付けをしてくれるので控えめに言って至福。もはやあの人の手料理以外のもので細胞をつくりたくない。心臓も胃袋もがっちり鷲掴みにされてしまってぼくは、他の人から話しかけられても聞いていない、もしくは聞き返す頻度が高くなった。

今おまえまたどっか行ってただろ。
もしかしてぼくにしゃべってたか?気づかなかった。なんて?
写真、撮らないのかって。人気、出そうなのに。
写真?
弁当の。毎回、映えてんじゃん。

ぼくは権化の整った顔を見て、それからあの人のつくってくれた弁当を見下ろす。

そうするつもりではなかったというのに鼻から息が漏れた。これは一般的には嘲笑というやつになるだろう。

だから権化だって言うんだよ。ほいほい拡散してたまるかよ。これはぼくのお昼だ。ぼくの、ぼくだけのためにあの人が早起きしてこしらえてくれてんだぞ。他のやつにはやらん。
わかったけどゴンゲって何。おれちゃんと名前あるのになんでおまえおれのことゴンゲって呼んでるわけ。
ああ。声に出てしまっていた?ぼく、あんたのことを世の中の権化みたいなやつだなって思っていて。
どゆこと。
世の中の楽しいもん全部ここに集まるみたいな顔してた。
何それ。
たぶん劣等感。
おまえだって幸せじゃんかよ。
うん乗り越えたよ。だから由来を説明したんだ。
おれが傷つくかもとは?
みじんも考えなかった。ごめんね。
軽い。
ごーめーんーねー。
言い方。
今はもう権化とは思ってないよ。
じゃあ名前で呼ぼう?
今さら変えられないよ。

そんな話をしていたら外で食べてきた一行がぞろぞろ帰ってきて、権化はさりげなく席を離れた。おひらきの合図だ。あれがおいしかった、と報告する女性社員にうんうん頷く権化。まんざらでもないように、少なくともぼくには見える。やっぱり権化は権化だな。世の中はうまくまわってる。

仕事を終えて帰り支度を始めると雨が降り出した。

だが案ずるでない。天気予報を信用しないぼくは折り畳み傘を常備しており、この日もさっそうと鞄から取り出すはずだった。

が、今日に限って忘れてしまっていた。

雨はたしかに嫌いではない。あの人とぼくとを結びつけてくれた仲人的自然現象だから。だけど今まさにあの人のもとへ帰らんとしているぼくに足止めを食らわすなんて正気の沙汰と思えない。ぶつぶつと呪詛をとなえるぼくの横を「こわっ」とつぶやいて女性社員が足早に駆け抜けていく。

振動を感じてスマホを取り出すと、あの人からだった。すかさず応答する。

わ、はやいね。さすが社会人。
ちょうどあなたのことを考えていた。
雨、降ってきたね。きみの折り畳み傘が私の部屋にあって、困っているんじゃないかなって。
コンビニで買うからだいじょうぶ。
もう買った?
今からコンビニに向かおうかなと。
よかった。じゃあ私、きみを迎えに行くね。
えっ。
お金もったいないだろう?あ、それとも会社の人と出かける予定だったかな。もしそうなら、
行かない。もしそんな予定があったとしても、あなたが迎えに来てくれるなら全力で断る。それでクビになってもいい。
よくないよ。

耳元で微かに笑う声がした。くすぐったい。電話越しの会話も悪くない。

十数分後、あなたが車で現れた。

迷わなかった?と尋ねると、カーナビがあるから平気だったよと答える。あなたがカタカナ語をしゃべるとぜんぶ魔法の言葉に聞こえる。インスタグラム。カーナビ。アラーム。スケジュール。似合わないからこそ、本当にかわいい。

お店はどうしてるの。
おやすみの札をかけてる。
そういうところいいね。
会社だとそうはいかないよね。
代わりはいるからだいじょうぶだと思うけど。いろんな人の了解を得なくちゃ。
そうだね。良し悪しだ。お店、軒先で困ってる人がいなければいい。札の文面を「主はでかけております すぐに戻ります どうぞご自由に」などに変えようかな。

軒先で困っている人。あの日のぼくみたいな、か。

あなたはこれからもそうなの?
え?
困っている人や猫を救い続ける?
そうだね。救われるかどうかは分からないけど、しばらくの雨やどりくらいにはなれるんじゃないかなと思っている。

ちゃんとわかっていないな。
しっかり噛み合っていないな。
けど、そういうところがぼくの好きなところだった。
ぼくのわがままで消してしまいたくないあなたの長所だった。

電話1本で迎えに来てもらえるなんて別世界の話かと思っていた。
そうなの。
中学の時とかさ、天気予報で言ってなかったのに、雨が降るじゃん。どしゃ降りのやつとか。そうしたら、電話かけるやつがいるんだ。あ、迎えに来て。って。そしたら本当に迎えに来るのね。家族。母親とか。あれ、魔法だなって思ってた。
どうして。
来てって言って来てくれる人がいるなんて奇跡だなって。雨が降ったくらいで。たったそれだけで。普通、来ないだろ。そんなん。

あなたは次の相槌を打たなかった。沈黙のあいだを雨が縫っていく。車内からは通りが少しだけ見えていて、ぼくら半透明の密室にいる。

だからきみはたくさん吸い込んでたくさん感じることができるんだな。じゃあ、これからのきみには奇跡ばっかりだ。おめでとう。

ぼくは祝福を受ける。
ほんとう、雨粒みたいに奇跡ばっかりだ。

ぼくとあなたが店の前にたどり着いたとき、案の定、見慣れた黒猫の姿があった。
夜だった。
ガラス越しに店内を見ていた夜は、店主の帰りを知ると甘えた声を出す。
待たせてしまったみたいだ、ごめんね。
夜は「気にするな」とでも言いたげに店主の脚に背中をこすりつけ、ぼくのほうをちらりと見上げた。

「てめえの奇跡なんざ夜様が食い荒らしてやるからな」とでも言われた気がするが、ぼくの全身にみなぎる幸福感には到底かなわない。

軒先で散った翡翠の火花に、のんきなあなたは気づかない。