シリーズまとめ⇒QUARTETTO（カルテット）

無条件にあふれるものがぼくを突き通して、捧げているのに捧げられているような、終わりのない安心のなかで。

生まれた時からぼくのまわりには物がたくさんあった。

コンビニの袋。プラスチックの蓋。汚れたオムツ。ライター。空き缶。毛布。謎のプラスチック片。洋服のタグ。リップスティック。ベージュのストッキング。積み重なった食器。ティッシュの空き箱。体温計。植木鉢。短い廊下には何週間もそのままのゴミ袋。殺虫剤。ハイター。ころがるいくつかの芳香剤。

見かねた近所の人が何度か訪ねてきたけれど、父親はあまり家にいなかった。
あるいは、父親不在を狙って訪問していたのか。

破れた網戸から部屋へ出入りするようになった野良猫のおっぱいを飲むこともあった。
これは父親に聞いた話で、嘘かもわからない。
だけど言葉がわかるようになったぼくは近所に住む野良猫を見ると、一方的に親近感を覚えるのだった。

（あれ、てめえの兄弟だよ。）

タバコの煙が充満した部屋で言われたセリフが、タバコの臭いが消えてもまだ体に染み付いている。

おかしな話かも知らないけど、ぼくは父親に恐怖心や恨めしいという気持ちを抱いたことがあまりない。

美化してるだけって言われたらまあそうかも知れないけど、実際、良い思い出もまあまあある。

彼との思い出というよりも彼が家へ連れ込む女性との思い出といったほうが正確だ。
彼女たちはみんなぼくへ対し優しかった。
人間がそのようにされたいと願う扱われ方を誰よりよく分かっているからだったと思う。
ぼくに自分を投影しているみたいだった。
だからぼくの中にはたくさんの女性がいる。
彼女たちはヒステリックに叫んだ後で聖母のように穏やかに微笑む。言葉は違えど決まってこう言う、

世界は広くて美しいのよ。

と、

だから、信じていて大丈夫なのよ。

なんとか小学校に入学できて、少しずつ漢字を書けるようになったぼくは、その一方でいくつもの言葉を飲み込んでいた。

（信じてくれる貴女のほうを、見向きもしない世界なんだね）。

ねえ、それでもなんで生きていられるの？
目を、つぶっているから？
耳を、ふさいでいるから？

世界の広さも美しさも、ちっともあてになんないよ。

「……おはよ」。

リネン素材が多いあなたの部屋で目覚めて物の少なさに驚くことがある。
厳選されすぎていて。あなたは「捨てられないだけ」と言うけど。
捨てられないの分かってるからあまり新調しない。はは、ただの無精かも。
ぼくは生活の匂いを探すように、首筋に鼻を押し当てる。
あなたからは柑橘系の香りばかりだ。
入浴剤、シャンプー、ボディーソープ。柔らかいシーツからはいつでもせっけんみたいな香り。

つくりものだと分かっている。本物じゃない。

そんなにクンクンされると少し不安になるかな。
不安？
私もそろそろではないかと。
加齢臭？
うん。
あなた、いい匂いだよ。これがあなたの匂いで良かったと思う。なんだか懐かしいな。ぼくに母乳を分けてくれた母猫の匂いに近いのかも。
あ、きみは猫だったの。
そう、猫だった。
なんかわかる。
わかるのかよ。

あなたが笑い出すとぼくが手をあてた位置から心臓から少しずれてしまって、もう一度掌中におさめたく思ってサワサワしていたら目覚ましアラームが鳴った。時間切れだね、とあなたはベットから起き上がってしまう。残されたぼくは平日なので駄々をこねることもせず、かわりに枕を抱きしめた。深く吸って、吐く。

（はあ。今日もあなたが美しくてなにより！）。

今日はお肉入れるからね。私きのうもインスタグラム見てたんだ。ねえ、ハッシュタグってもの覚えたんだ。さいきんお店に来る子に教えてもらって、ハッシュタグ。これをたどっていくとね、欲しいものがずらっと手に入る。ヘンゼルとグレーテルのパンくずみたいだよね。
さいきんお店に来る子って、大丈夫？あなたガードゆるいから狙われてそう。
きみみたいなやつに？
そう。ぼくみたいなのに。そいつ許さないから。殺す。
きみが朝から元気で私も嬉しい。
あなたさ、そういうとこだよ。
何が？
もういい、好きだよ。
ふふ。
返事は。
はいはい。

下ごしらえは夜のうちに済ませておいた。完成した照り焼き肉をセラミックの包丁で一口大に切ったら、ヒノキのわっぱに詰めていく。

ぼくさ、あなたが手作業してるの見るのが好き。
手作業って。料理だよ。
うん、料理も含めての手作業。神さまが人間をつくるときも、そんなふうだったのかなって思えてくる。
そんなふう、とは？
優しい。
そう。私は神さまには程遠いけどね。
うん、神さまになんかしたくないや。みんなじゃなくて、ぼくのものだもん。
名前でも書いておこうか。
マーキングしているから平気。

なんて甘い会話をかわしていたら、いつの間ベッドの上に夜が乗っていて「うひゃー」と情けない声が出た。

こいつどこから入ったんだろ。さっきまでいなかった。
ベランダの網戸が破れてるからそこからかも。
えっ。網戸破れたままにしてたの？いつから？
いつからかは知らないけど、だいぶ前から。
言ってくれれば修理したのに。
夜にとって便利そうだから、まあいいかなって。
だめだよ。こいつあなたとぼくの邪魔するじゃん。ほんとうざい。

あ。

「しまった」と思ったが手遅れだ。

夜の爪が腕の内側を引っかいて、ぼくはまた衣替えのタイミングを逃すんだ。

今のは、きみが悪いと思うな。夜は私たちの大切な同居人。邪魔者ではないよ。

あなたにまでたしなめられる始末。
傷口に絆創膏を貼りながら、翡翠の瞳に許しを乞う朝。
もしかするとこいつとぼくは似ているのかも。
同じ乳を飲んだ仲だったりして。
なわけないか。

藍染の巾着袋に弁当箱を詰めて、「いってらっしゃい」に送り出される。

野良猫も、人の親も、優しくて悲しい女性たちも、ぼくも、あなたも、この世界で生きている。信じてたって何も変わらないってことは、裏切られることもないんだ。

なんで生きていられるか？だって？

その疑問があるからだって思ってたよ。だけど答えを見つけても満足しないんだ。今ぼくはあなたのもとへ帰ってくるために生きてる。