シリーズまとめ⇒QUARTETTO(カルテット)
爪を立てて夜を研ぐ あまいくらい闇の底で
鞄から藍染の巾着袋を取り出そうとして、左手の甲に走るひっかき傷の存在に気づいた。
(犯人はあの嫉妬深い黒猫だな。)
浅く長い傷のあたりをぼうっと眺めていると同僚がやってきて肩をたたく。
きのうは、ありがとう。
あなたのことで頭をいっぱいにしていたぼくはとっさに何のことだか思い出せない。こいつに礼を言われるようなことをしただろうか。
あの人に会わせてくれて。
ああ、そのこと。べつに。
(ぼくは今ゆうべの余韻に浸ってるんだよ。どこか行ってくれないかな。)
しかし他人というものはたいていぼくの思惑と逆の行動に出る。
あれは癒やされるよな。なんていうか、夢のような店だ。おまえが月曜日まですっきりした顔してる意味がわかった気がする。
あれって言うな。あとさ絶対惚れるなよ。おまえのこと本気で噛み殺す。凶器とか使わずに歯でがじがじってする。ひとおもいに終わらせたくないから。長引かせる。
まあ、そう警戒するなって。
俗世の権化みたいな同僚はホールドアップのジェスチャーをしながら周囲を見渡した。他の社員は昼時で出払っている。近所にできた洋食屋へ行くのだという。いつもならこいつも連れ立って出ていくはずだが、女性社員の誘いを鮮やかに断っているところを見た。
まるでぼくと2人きりになるのを見計らっていたように。
警戒しつつも腹は減るのでデスクの上で弁当箱のふたをあけた。権化が「おっ」と声に出す。あの人がつくってくれた。
天然ヒノキの曲げわっぱに、塩おむすびと半熟卵、えだまめ、プチトマトがバランスよく詰められている。
食材ひとつひとつ、塩のひと粒ひと粒に対していとしさがこみ上げてくる。
一応確認なんだが、手製か。
いかにも。うらやましいか。
お金払うから明日から2つ作ってもらってもいいか。
だめに決まってら。
けち。
権化は隣の席に腰を下ろした。もっもっもっ。気にせずぼくは食べる。おいしい。ぼくへの愛が詰まっている。
シーツの上で何度も絡め直したあの指で、おむすびに塩をまぶして、半熟卵の殻をむいて、えだまめをピックにさして、プチトマトのへたを取って。
はっきり言うと今にも昇天しそうだ。
もっもっ。もっもっ。もっもっ。
権化が切り出さないのをいいことにぼくは自分ひとり満たされて弁当箱のふたをしめやかに閉ざした。
おまえって満たされんな。
それあんたに言われるとは思ってなかったな。
おれ満たされて見える?
満たされてるっていうか、少なくとも自信は腐るほどありそう。
そうでもないよ。
言いたいことがあるならはっきり言ってくれないかな。
おまえキャラ違うね?普段は猫かぶってんね?
恋人を紹介した仲だからな。
ぼくは席を立ってトイレへ向かう。驚いたことに権化もついてくる。なんだこいつ。何が目的だ。動揺を隠しながら歯磨きを始める。隠しきれている自信はそこそこ。
むりかも。って言ったの、誤解してんじゃないかなって。
なんの話だ?ぼくは権化に視線を向けた。
ほら、あの人の話初めて聞いた時のおれの反応。むりかも。って言っただろ。おまえあれ聞いてすごい目した。なんていうか情熱的なんだなって。無害そうな顔して。
あんたは自分の人を見る目を過信しすぎだ。たぶんだけど。ところで誤解ってなに。ぼくがどんな誤解をしていると?
たとえばだけどおれが「うわ、ねえわ」という意味で「むりかも。」って言ったんじゃないかとか。
違うのか。
やっぱりな。
訂正か撤回でもする?べつにどうでもいいけど。
ナタを振り下ろすような勢いで歯ブラシの水を切る。権化が怯えたような目をする。ぼくも少し誤解していたかも知れない。権化はその派手な見た目で損をしてきたのかもしれない。損というか違うものを求められて違う自分に擬態せざるをえなかったも知れない。一つの可能性として。
おまえ部長のことどう思う?
はっ?
ぽぽぽぽーん、と四人の部長がイメージされて「どれだよ?」と促した。
権化はそのうちの1人の名前を挙げた。
ああ、あの部長。まあ、かっこいいよな。
どういうところが。具体的に。ちょう具体的に。
ぼくが言うの?
そう。第三者の評価が聞きたい。
えーっと、まあ、当然、仕事はできるだろ。部下の面倒見も良い。新入社員の名前もまっさきに覚えてくれただろ。それから、朝会議が短縮されたのってあの人のおかげだと思う。あんまり出しゃばらないから分かりづらいけど、確実にあの人のおかげだよ。理想の上司ってやつじゃないの。
とりあえずぼくは日頃思っているままを言った。
そうしているうちに権化の瞳がきらきらと輝いてきた。ぱあああ、と音が鳴りそうなほど輝き始めて、ぼくはそのへんでやめておいた。
なぜか。なんて。聞くほど野暮じゃない。
(そうか、こいつは。ああ、こいつは。そういうことだったのか)。
であればたしかにぼくは誤解していたんだな。
会社を出て店へ向かうまでの道すがら、夕焼けがあんまりきれいで、あの人が気づいていない時のためにスマートフォンで写真を撮った。
見ていたよ、って言われても見せてあげよう。知らない角度もあるだろ、って。
あの人と恋人同士になってから確実に変わったことがある。スマートフォンの写真データが急増したのだ。
あれを見せたい。これを読んで。あの場所へ行きたい。こんな看板ができていたよ。
親鳥が雛鳥のくちばしにせっせと餌をはこぶように、ぼくはなるだけ集めて保存しようとする。
そこには純粋な喜ばせたいという気持ち以外に、きれいなものをきれいだねって言える自分を信じてほしいっていう弁解みたいな後ろめたさもある。
ぼくは正常だ。ぼくは無垢だ。ぼくはこんなに献身的だ。
だからほめてほしいし認めてほしいし愛してほしい。っていう打算がある。
あ、おかえり。
店の外で会うとあなたはおかえりって言ってくれる。いらっしゃいより好きな言葉だ。
おかえり。ただいま。
噛み合う言葉を返せるからだと思う。
おかえりにはただいま。そうだろ?
ルールにはまるのってすごく安心できるんだ。
今日のお昼もとっても美味しかった。
それは良かった。若い子が好きそうな感じにしたんだ。さいきんお店に来る子にインスタグラムというものを教えてもらって、お弁当の写真などいろいろ見ているんだ。この時期だと運動会に持参するお弁当写真がいっぱい見つかるんだよ。
へえ。あなたがインスタグラムって言うとふしぎな感じ。魔法の言葉みたい。
きみ、前言ってただろう。運動会のお昼休憩が嫌いだったって。
そうだったかな。お肉も入ってると嬉しいな。
うん、そうしよう。私これからがんばるから。きみのお弁当に対する劣等感を払拭してあげよう。
なんてかわいいんだ。その言葉をもらえただけで、弁当に対して劣等感を持っていて良かったとさえ思えてくる。
そうだ。こないだ店に来た同僚。
うん。ブルーベリーケーキの子か。
部長から交際を申し込まれたんだって。相談相手がいなくてぼくのところへ来たみたい。口が硬そうだからって。
なるほど。彼、きみとずっとその話をしたかったんだね。
あなたと同い年なんだ。
相手の部長さんがかい?
そう。それで、
なあ、できんの?
うん、できるよ。
と、いうやりとりをした。
なるほど、できるかどうかという質問を。彼はもう「その先」を考えてたってわけだね。すでに受け入れるつもりはあったんだ。
相談役となったぼくのしたことって、昇進レベル。そう思わない?
だけど組織だからそうもいかない。私に褒めてもらいに来たというわけか。
ご明答。あなたって聡明だな。
ありがとう。今夜は夜もおでかけしているよ。
おお。あの高飛車な黒猫様。その不在を告げてきたということは、あなたもぼくを待ちわびる夜があるということか。
常連のお客さんに良いお酒をもらったんだ。
口実はどうでもいい。
失敬な。口実ではない。
怒ってないから怖くないよ。
ぼくたちは連れ立って歩き慣れた道をいく。
夜に引っかかれた左手を夕焼け空にかざしたら、ちいさなかすり傷は茜色に溶けて見えなくなった。