小説『月の無い夜が来る』

このシリーズの話

サイドテーブルにミックスナッツとビール。髪はドライヤーをかけ乾かした。完璧。いや待て。いったんベッドの上にあぐらをかいたおれはもう一度立ち上がる。クローゼットからフリースを引っ張り出し、再びベッドの上にあぐらをかいてくるまる。スマホを開いて「さあ、ゲームの続きやるぞ」と思ったところで同居人が帰ってきた。

「ただいま」
「なんで今?」
「タイミング悪かった?」
「悪かった。まじで悪かった」
「ごめん。もう一回出勤して来る」
「うそうそうそ!」

本当に玄関を出て行きそうな同居人を後ろから引き止める。

「間に受けんなよ。……困る」
「要らないと言われた気がした」
「気のせい。おかえり。ごはんは?」
「まだ。でも空いてない。要らない」
「ビールは?」
「要らない」
「ピーナッツ?」
「ハレが欲しい」

口に含んでいたビールを盛大に吹き出したおれはジウを叱りつける。

「あのな、いきなりはやめろって言うだろ。いっつも。こうなるから!」

こう、と繰り返してアルコールでびしょ濡れになってしまったフリースを指す。とりあえず洗濯かごに入れて戻ってきたおれをジウは途方にくれた目で見つめた。

「なに。おれぜったいわるくないのに、みたいなその顔なに?」
「ハレは俺に言った。おまえは顔に出づらいんだからもし言いたいことがあったらちゃんと口に出せと。人に伝えるにはそれしか無いんだと」
「うん、言った」
「だから、言った」

おれはベッドの上に戻るとうーんと唸って頭を抱えた。

「それともハレは嫌だった?」
「いや、べつに嫌とかじゃなくて、ただそういう気分じゃないっていうか」
「どうしたらそういう気分になる?」
「さあ。今日はずっとならないかも」

割とはっきりめの口調で告げるとジウは食い下がらない。それを知ってる。おれがそれを知ってるってこともジウは知ってる。

「……とりあえずお風呂入ってくる」という一言に「おうよ」と答えたおれはミックスナッツをぽりぽりかじりながら「今のは焦らしか?」と自問していた。

「いや本音だ」「期待している?」「いやいや期待って何?言葉どおりだから」「嬉しいくせに」「勘違いすんじゃねえぞ」など自問自答した。

そうこうしているうちにスウェットパンツだけ身につけ上半身裸のジウが戻ってくる。なんという腹筋。首にかけたタオルで髪をふきながら冷蔵庫の扉を開けると、ビールでも牛乳でもなくミネラルウォーターを取り出してごきゅごきゅ飲み干した。空っぽのペットボトルを握りつぶしてダストボックスへ。ようやくおれの視線に気づいて「ん?」と首をかしげるところまで完璧ださすがおれの恋人である。

「ごめん悪いんだけど前言撤回して良い?」

一拍置いた後、微笑んだように見える風呂上がりのジウは「髪乾かしてくる」と言いかけ、「……やっぱ後で」と呟いた。

思い知ったか、ハレよ。
何だよそのキャラ似合わないから。

なんて交わしながら顔を上げるとカーテンの隙間から満月が目に飛び込んでくる。まぶしっ。とっさに顔を背けようとしたおれの顔を力づくで固定してジウが近づく。

「すごいな。月がきれい」
「何言ってんだ。眩しいから離せ」
「ハレの目に月が映り込んでて、ほんときれいだ」
「いやいや眩し過ぎて軽く拷問なんですけど?」

振り払うように頭を振るとようやく解放してくれた。

「ハレはいつも俺を人間にしてくれるね」
「どゆこと。もとから人間じゃねーのかよ」
「人間だよ。でも忘れる。ハレは俺に人間を好きにさせてくれる。何度も何度もだ」
「……どゆことだよ」

二度目は意味がわかった上での質問だったので、答えは無かった。もちろん期待もしていなかった。

星が視界に入らないよう、左手でカーテンの裾を掴む。すぐにすり抜けてしまった。だけど大丈夫、厚い背中が光をちゃんと遮ってくれるから。おれを人間にしてくれるこいつを感じたくて、あとしばらく目を開けたりはしないから。だいじょうぶ。瞼の裏で残像の月がどんどん膨らんで、ジウが何度目かで吐く息に押されて破裂した。そして月の無い夜が来る。目を開けても閉じてもおんなじの、深くてあまい夜がくる。