QUARTETTO#20『羽化』

最終話です。
※ハレ視点のジウ✕ハレ。前編後編分けようと思ってたけど分けなかったので長い。

シリーズまとめ⇒QUARTETTO(カルテット)



あいつの部屋で半裸で目覚めた日から数日後、おれは、あいつが経営する店の前に立っていた。

(怯むなおれは営業部のエース!)

重厚そうな扉を開けると、手前にテーブル席。奥にカウンター。
長身のシルエットが視界に入った。

ジウだ。

カウンターのジウはおれのほうをちらりと見て、端に座る女性客のほうへ顔を向けた。彼女と二言三言かわしてから、ようやくおれのほうへ近寄ってくる。

「いらっしゃいませ」
「もてなしが遅い。口コミ評価下げてやるから」
「まさか本当に来るとは」
「初来店の客に面と向かって言う台詞か。迷惑かよ?」
「いや、嬉しい」
「嬉しいって顔はしてない」
「本心だ」
「おまえの顔は感情が読み取りづらい」
「よく言われる」
「改善しろ」
「だがそこが良いとも言われる」
「わかる」
「え?」
「何でもねえ気にすんな!てか、ふーん、か、か、かかか」
「か?」
「っこいいじゃん。その服装」
良かった。言えた。

くうう。
ジウのジレ姿だよ。
何年待った?
ついにご対面だ。
涙がこみ上げるおれとは対照的に、ジウはあっさりと答える。

「そう?どうも」

ジウはおれにテーブル席を勧めてくる。
あきらかにあの女性客を気にしている態度だったため、あえてカウンター席を所望した。
おれの頑なな態度にジウも諦めたか、おしぼりを手渡してくる。
いつもの癖でおしぼりを顔に近づけたおれは、
「何これ、めっちゃ良い匂い!」
思わず声を上げてしまう。
「柔軟剤?おしぼりまで高級感!」
端に座る女性のほうからくすっと笑い声が聞こえてあわててテンションを下げた。
空咳一つついて、
「さっさとメニュー寄越せ」
ジウの方へ手を出した。
「メニューは無い」
「はあ?」
「どういうのが飲みたいか言って。それを作る。そういう方針」
知らねえし。
おれは出した手をぎこちなく引っ込める。
「おれ、ビールとハイボールしか知らない。お酒の名前とか詳しくないんだけど」
(嘘だけど。)
「雰囲気で良いんだよ。すっきりするやつ、とか、甘いの、とか、花をイメージしたやつ、とか」
「まじか。そんなふわっとしてて良いの。えっと、じゃあ、」
何をリクエストしてやろうかと視線をめぐらせていたら、やっぱり端っこに座る女性の姿が目に入る。
どうしても。

「初恋」
「はつこい?」
「そう。おまえのイメージする初恋つくって」

苦笑されるかとも思ったけど、ジウは至って真顔だった。

数分後、目の前に差し出されたカクテルを見ておれは、

「すごい」

と呟いていた。

「すごいな。すごく綺麗」
「どうも」
「好き。これ、すごい好き。おれのために作られたってとことか最高」
「召し上がれ」
「良い匂いする」
「でしょ。匂い、好きなのかなあと思って」
おしぼりではしゃいでいた自分が恥ずかしくなる。
とりあえず一口。
「あ、結構あっさりしてるんだな」
心なしか端の女性からも視線を感じ、テンション控えめの感想。
(すっげーうまい!なにこれ飲んだことない!)
「うん。雨をイメージした」
「へえ。おまえの初恋って雨が関係してんの?ふーん……」

奇遇だなおれもだ。

その言葉は飲み込んだ。
雨の降る日なんか珍しくない。
誰の記憶にあってもおかしくない。

すぐに飲み終えるのがもったいなくてちまちま飲んでいるうちにジウの姿はおれの前から消えていた。
やっぱりあの女性の前に移動している。
トーンを落とした会話の内容までは聞こえてこないけど、何かささやかれて焦った表情を浮かべているのが見えた。
あいつが焦るなんてめずらしい。
あらためて女性のほうへ視線をやる。

煙草を咥えた横顔、赤い口紅から煙が吐き出される。

ははーん、そういうのかよ。
ちょっと女王様入った年上系?
おまえが好きなのってそういうのかよ。
なんか、幻滅するわ。

じゃあどんな女なら幻滅しなかったのかと聞かれると、たぶんどんな女でも幻滅した。

視線を戻しグラスを照明に透かして見たら、淡い紫と水色の層に分かれている。

「紫陽花みたい」。

おれの思い出の中に紫陽花はあったかな。
あいつとおれが一緒にいた場所に、紫陽花は咲いてたかな。

(絶対おれのほうが良いし)。

あんな女なんか好きになりやがって。

今までになくセンチメンタルになってるおれの横で、珍しく同僚から先に口を開いた。

「ジャムの蓋をきつめに締めて、冷蔵庫に入れておく」
「へえ。そんで?」
「そんでアオイさんが、使う時に、リツくん悪いんだけど開けてくれないかな?やけに硬くて。ってぼくに頼んで来るから、目の前でぱかっと開けてあげる。5秒以内に」
「5秒以内?」
「あんまりあっさり開けたらアオイさんのプライド傷つくじゃん。あの人は気にしないとは思うけど」
「頼んでる時点で」
「うん。でも、まあ、そこはもったいぶるよ。仕込んだほうとしては」
「で、5秒ってのは?」
「あんま時間かかるのもサマにならないから。逆に10秒だとちょっと頼りないかなって」
「うん?」
「だから、締め方の塩梅って結構難しい」
「うん、なあ、何の話?」

ランチ組が外出してがらんとしたオフィス内でリツは恋人の手作り弁当、おれはコンビニのカップ麺をすすってる。
何だこの格差。
いや、カップ麺美味しいよ?好きよ?コンビニ大好き。
でも、何だこの格差?

「リツの話それで終わり?」
「うん。アオイさんかわいい」
「じゃあ次おれが話して良い?」
「いいよ」
「昨日ジウの店行った。ほんと分かりづらいとこ。でも、今までにない雰囲気」
「ふうん」
「おい、もっと興味持てよ」
「持ってる。表情に出づらいだけ。で?」
「ジウは最高にカッコ良かったです」
「おめでとう。寝た?」
「そんなスピード感ある展開とか見たことねえよ」
「疑問に思ってたことは聞けた?ほら、なんで一つのベッドで寝てたかっていう」

そう。
そうなんだよ。
こないだおれはジウの部屋で目覚めた。お互い半裸の理由について、ジウは、酔ったおれがシャツに吐いたからだって言って、その時はおれも疑問を抱かなかった(酔っていたのは事実)。
けど、べつに一緒のベッドで寝なくても良くないか?
むしろ、ゲロ吐いた奴とは離れて寝るもんじゃないか?
と後から疑問に感じ、それを問い詰めに、もとい、口実つけて会いに行ったんだ。

「聞いた」
「なんて?」
「覚えてないって」
「終了〜」
「あとさ、店に女がいた」
「べつに男限定の店じゃないんだろ」
「いや、なんていうか、只者じゃない感あった。モデルみたいな。あれ絶対ジウのこと狙ってるね。なんならもう付き合ってるかも」
「ジウ本人に聞けば?」
「ばか、そんなこと聞いたらおれがあいつのこと好きだってバレんじゃん」
「交際相手について聞いたら聞いた方の好意がバレるって、流れとしておかしくない?」
「いや、なんていうかボロを出さない自信がないの。おれの問題」
「ハレってそんなタイプか?」
「おれもこんなの初めて。……だから、困ってんだっつうの」
本音が漏れて初めて、ああこれが本音かと自覚する。
漏らしてみないと分からない本音もあるもんだ。

人と付き合うこと、好かれること、これまで意識したことなかった。
だからこそ、いざ自分から踏み出そうとすると、何から手をつけたら良いか本当にわからない。

「リツは不安になんなかった?アオイさんに片思いしてる時。学生時代からだろ?自分以上にアオイさんを好きになれる人なんかいるはずないって分かってるのに、ちゃんと伝わるかどうか、不安になんなかった?」
栄養バランスのとれたお弁当持参ですっかり最近顔色の良い同僚の横顔におれはぼそぼそと壁打ちする。
「気づいてもらえないかも知れない、って。おれが感じたような運命を感じてもらえないかも知れない、って」
「そりゃあ不安だったよ」
「そか。リツでも不安になることあったのか!」
「自分があの人を傷つけやしないかと」
「ん?」
「もし徹底的に拒まれたら、あの人を殺して死ぬより他にないと考えていた」
「ははは、やべえ」
「それに何より、あの人が可哀想だ。ぼくじゃない相手を選んだとしても、そいつは1番じゃないんだ。自分のことを1番思ってる人と結ばれないなんて、アオイさん、かわいそうだ。無理矢理でも教えてあげなきゃ。誰があなたの1番かって。それが、優しさというものだよね」

はははなにそれ笑えねー冗談きっつー、と笑いながらリツを見やると至って真顔だったので体温が軽く2度下がる。

溺愛という言葉に収まりきらない愛情に溺れているあの同僚くらいとまでは行かなくとももう少し頭のネジを緩めてもいいんじゃないか?

土曜の午後、同僚のリツに勇気付けられたおれは、またもやジウの店の前に立っていた。

「ハレ?」
「うおっ!」
心臓が跳ね上がる。
まさか背後から出現するとは、しかもおれの名前、呼んだ?
呼んだよな?
初、名前呼び。
後でカレンダーアプリに入力しとかないと。
毎年繰り返し設定で。
「おれの名前知ってたのか」
「え?そりゃあ、毎日あれだけ呼ばれてれば」
「毎日?」
「ハレ、輪の中心だったじゃん。いつも。名前が呼ばれてんの聞かない日なんか無かった」
ああ、ジウは高校時代のこと、言ってるんだな。
輪の中心、か。
おれのことなんか興味ないと思ってた。
クラスのこととか。
「あっ、悪い、もしかして今から店の準備か?」
「いや。今日は休み。他の従業員に任せる」
「へえ、てっきりお前一人で回してるのかと」
「ちょっと前まではね」
「すごいな。雇い主か」
「べつにすごくないよ」
「いや、すごい。自分で店持って人雇ってって」
「日本にどんだけいると思ってんの」
「まあ、そうだけど」
「おまえだってすごいよ。ハレ」
何が?と聞き返す声が上ずっていなかったか自信がない。
(こいつの低い声で名前呼ばれんの、想像してた以上にやばい。)
「ハレみたいな営業職とか、たぶんおれ無理」
「はは!でしょうねー」
ジウがかっちりネクタイを締めて取引先で打ち合わせしてる姿をイメージすると笑えてきた。
「……いや、意外とあり」
「何?」
「こっちの話。……えっと、じゃあおまえは今から何すんの?てか、休みなのになんでここ来てんの?」
「店の前に小一時間くらい立ち尽くしてる奴がいるって、今日出勤の奴からメール来て。念のためと思って様子見に」
「は、マジで?やっば!っぶねーじゃん!どこだよ?気づかなかった!」
周囲を見渡すおれの顔に人差し指が突きつけられる。
「おまえだよ、ハレ」。
指の向こうでジウが苦笑いしている。
(な、なんだよかっこいい笑い方しやがって……!)
顔が赤くなっていくのを指摘されないよう、慌てて俯いた。
たぶん間に合ってない。
「なあ、ハレ」
「な、なに」
「良かったら、デートしない?」
「は?」
「あ、もしかしてこの後予定、」
「んなもんあるわけない!あっても却下!いいね、おまえとデートとか最高じゃん絶対承諾!」
「んじゃ行こうか」
「いいぜ喜んで!」
会話の端々でつい心の声が出てしまったが、そんなおれをジウは気にせず大きな歩幅でスタスタ歩き出した。

まず映画館へ行った。海外の恋愛映画だ。出てくる俳優や女優の名前だって一人も知らない。見るとしたってアクションかホラーしか見ないおれは上映開始後間も無く、日頃の疲れとジウとの初デートによる緊張のあまり眠ってしまった。途中ふと目覚めたらジウの手を握っていたことに気づいて、それから眠気は吹っ飛んだ。「さっき、ごめん」。映画館を出てから謝るけれど「なにが?」と聞き返されたのでそれ以上謝るのはやめた。なんでおとなしくつながれたままにしとくんだよ。こっちは寝ぼけてるんだから振りほどいてくれればいいのに。あ、でもこれデートだった。それも込みか。

次にカフェに行った。流れ的にはここで映画の感想とか語り合うんだろうが寝ていたおれに見ていない映画の話はできないので、お互いの仕事の話で盛り上がる。ジウの恋愛遍歴についても気になったけれど、結局聞き出せなかった。今ジウが幸せだとしても、そうじゃないとしても、誰かを呪うことになりそうだったから。ジウは高校を卒業してすぐに、昼間は交通整備のバイトをしつつ、夜から明け方にかけてはバーで働いていたそうだ。現在飼っている猫のサニーは、昔働いていたバーの裏口で拾ったんだと言う。
「捨て猫なんて珍しくないのに、なんかそいつだけは見捨てられなかった」
「ふーん」
「ほっといたらカラスに持ってかれちまう」
「ふーん」
「太陽みたいな色してるだろ」
「ふーん。それ言うならおれなんか名前がハレですけど」。
ほら、ジウに愛されているというだけで、いたいけな猫まで呪ってしまう。

続いて向かったのはドラッグストア。
日用品買い出しにまで付き合わされる。
すっかり油断していたがそこでおれは衝撃の事実を突きつけられることになる。
「……ごめん、今なんて?」
「だから、歯ブラシ。相手のもそろえないと」
「相手って?」
「恋人」
「ジウ……おまえ、恋人……今、いんの?」
「いないけど、できそうかな」
「できそうかなって。どういうこと。まだ付き合ってねえってこと?」
おれの脳裏にはこないだバーのカウンターで見かけた女王様が浮かぶ。間違いない、あの女だ。そして絶対あの時だ。おれはまさにジウが口説かれている現場を見せられていたと言うのか。それなのに何もしなかった。おしぼりの匂いをかいで、良い匂いだとはしゃいだところを鼻で笑われて、初恋という酒をリクエストして、ほろほろに酔ってただけだ。腑抜け。
「うん、まだ付き合ってない」
「じゃあ、わかんないじゃん。勝手な妄想で歯ブラシなんか買ったって、どうせ無駄になって死ぬほど虚しいから」
死ぬほど虚しくなりやがれ。
「そうかな?」
そうに決まってる。
「自信あんの?」
あんな女にお前の良さなんて分かんねえよ。
「自信?そうだな、相手からベタ惚れされてる自信ならある。罠か?と思うほどに。……でも相手は、おれにダダ漏れであることを自覚してないかも知れない」
「おまえも、その相手のこと好きなの?」
歯ブラシの硬さを比較していたジウは、その時おれの目を見た。
「うん。好き」。
ああ、こんな時おれは、どんな表情をしたらいいんだ。
ジウが好きなのはあの女なのに、今おれに言ったみたいに聞こえた。
おれのことを好きみたいに錯覚した。
なにいまの顔。
なにいまの声。
すっげー好きじゃんそいつのこと。
まったく喜べない状況なのに、なぜだか嬉しくて涙が出そうになる。
「好き。……すごく好き。前にも気になってた時期あったけど、住む世界が違うと思ってた。成人してからたまたま再会できて、運命かも知れないって思ったら、もう他のことなんか考えられなくなった。おれは自分が思ってたより偶然とか奇跡めいたものに弱いみたいだ。とにかく好きだ」
「あー、わかったわかった。何度も言わなくていい。まあ、ジウがそこまで好きなら、良い一面もあるんだろうな」
「一面どころじゃない。たくさんある。明るくて、誰とでも話せて、あと、びっくりするくらい嘘が下手」
「最後のはどう考えても短所だろ」
「ただ、あの酔いつぶれ方は少し心配になるな。今まで何事も無かったのか……。自棄酒はやめた方がいい。いや、おれがやめさせてやる」
女王が酔いつぶれている姿は想像できなかったが、好きな男の前では違うのかも知れない。
店で見たときは、酒に強そうに見えたけど。
煙草の煙。
赤い唇。
あれがジウの唇や体のあちこちに触れたりするんだなあ。
なんとなく系統が似ていたからか、嫉妬のフィルターをはずして肯定的に見れば、おれが今まで見たどのカップルより似合いだった。
「……まあ、きれいだもんな」
おれはばかだ。
ついに女王の肩を持つようなコメントを。
きっぱり嫌われることもできないで、下手に出たか。
「きれいと言うか、うーん、かわいいかな」
「かわいいか?」
「うん、かわいい」
「……へえ?」
こいつちょっと感覚わかんねえとこあるからな。
しかし、まあ、ああいう女性ほど好きな男の前ではかわいくなるものだ。
つまりジウはあの女性のかわいいところをもう知っているという意味で、そんな話は聞きたくなかった。
「サニーは、その人のこと受け入れたのか?」
「そうだな。おれのベッドにおれ以外が寝ていて、サニーが引っ掻かなかったのは初めてかもな」
新事実。ジウはすでに女王をベッドに寝かせている。
「へ、へえ、それは、おめでとう……」
「うん、おめでとう」
何がめでたいんだか。
はあ。

閉店間際のドラッグストアで失恋決定。

人生初の。
やっちまったな。
これからこのドラッグストアで買い物をすることはできなくなった。
ここへ来るたび虚しさとやるせなさに襲われるから。
良い立地だったのに。

ジウがこれから付き合う相手の歯ブラシどころかシャンプー、ボディーソープ、タオルまで選んでやった。

このお人好しめ。とんだピエロだ。

こうしてジウとの初デートはスタート地点に戻ってきた。

ジウの店の看板に明かりが灯る。

おれが親の金で大学通わせてもらいながら遊ぶ金欲しさに勉強そっちのけでバイトしている時も、新卒で入った会社でもらった初ボーナスでブランドの革靴を買った時にも、ジウが貯めたお金で開いたお店だ。

ぼうっと光る店名がにじんで見えるのは、薄闇のせいだけじゃない。

「今日は楽しかった。ありがとう」

ジウが手に提げたドラッグストアの袋から目を離さずにおれは礼を述べる。

あの中にはいずれあの女が使うことになる歯ブラシとかシャンプーとかボディーソープとか、いや、想像するのはやめよう。呪ってしまう。

じゃあ、と踵を返しかけたおれは「あっ」と声をあげた。

今なら聞ける。
今しか、聞けない。

「あの日、ジウさ、なんでおれと寝れたわけ?ゲロ吐いたおれの」
「かわいかったから」
「ん?」
「ハレがずっとおれの名前呼んでんの、かわいかったから」
「何それ気まずいんだけど。こないだは言ってなかったじゃん。てか、かわいいって何だよ」
「そのまま。きれいって言われたかった?」
「なんだよそれ、まさか」
「それに、サニーも引っかかなかったし」
「いやー、ありがたいね」
「ただ、あの酔いつぶれ方は少し心配になるな。今まで何事も無かったのか?」
「目覚めたらゴミ捨て場でした、みたいなの?あはは、無い無い。目覚めたら名前も知らない女の部屋でした〜みたいなのは何回かあった、け、ど……」
笑い話のつもりだったけれど、ジウに鋭く睨まれていることに気づいたところから語尾がかすれてしまう。
「……な、なんだよ、べつにおまえに迷惑かけてねえだろ」
「すごい迷惑だ。心が掻き乱されて、精神の平穏を踏み荒らされる」
「はあ?」
「自棄酒はやめた方がいい。いや、おれがやめさせてやる」
「はっ、酒を商売にする奴が言う台詞?」
「おれがやめさせたいのは酒じゃなくて自棄酒。あんなふうに酔いつぶれたら誰だって、そうだこいつを持ち帰ろうって思う」
「誰もは思わねえって」
「おれは思う」
「はは、んなわけ」
「事実、思った。だからあの日連れて帰った。知らないふりをすることだってできた」
ん?
どゆこと?
右に左に首を傾げるおれを見ていたジウから大きなため息が聞こえた。
「……ハレさあ、鈍過ぎ。こっちがからかわれてんのかと思った」。
見上げるとその眉間には深い溝が刻まれている。
「な、何が」
「ハレ」
「はい」
「おまえ、おれが誰のこと好きだと思った?」
「女王」
「女王?」
「あー、ほら、こないだ初めておまえの店に行った時、カウンタの端っこに座ってた迫力ある美女」
「あ?……ああ、姉貴のことか……」
「姉ちゃんなの?!」
「たまに弟の店を冷やかしに来る」
「おれのほうチラチラ見て笑ってるような気がしたけど」
「それは、ハレのこと気に入ってたからだと思う。誘われてたんだよ。おれが釘をささなかったら」
「……まじ?」
さすがおれ。あんな美女に目をつけられるなんて。
言っている場合じゃない。
「絶対手を出すなって言った。おれと姉貴って、好きなタイプがかぶるんだよ。昔から。だからハレにはカウンターに座って欲しくなかったのに……」
情報が整理できない。
頭が追いつかない。
と言うより、追いつきたくない。
「え?じゃあ、おまえが好きな相手って」
「言わせたいなら、おれの家でごはん食べながらにしない?ふるまうよ。そのまま風呂も入れるし」
「風呂?なんで?」
「そのまま宿泊できるって話。歯ブラシもタオルも、さっき買っただろ。シャンプーだってハレに選ばせたじゃん。きしまないやつ、って」
「あ、はい、そうでした」
「部屋着は貸すし。明日は日曜でお互い休み。サニーは引っかかない。ほかに何か問題ある?」
「……ない」
おれの返事を聞いたジウの眉間からやっと皺が消える。
「そうか。無いなら良かった」
「うん。……ちょっと頭がまだ混乱してる。おまえ、おれのこと嫌ってたじゃん。高校の時」
「嫌うほど会話したことない」
「ほら、雨の日に話したよ。傘が盗まれた日」
「ああ」
「あん時はおれのこと、うわべだけって言ってくれたじゃん。けっこう傷ついた」
「ああ、その時は本心」
「ほらあー」
「でも、その後からハレの視線感じるようになって、そしたらこっちも意識しちゃうじゃん。みんながおまえのことかっこいいって言うの理解できなくなってきた。かわいいの間違いじゃないか?と」
「……おれが見てるの気づいてたって?」
「そりゃ、あれだけ熱い眼差しを送られりゃあ。でも、住む世界が違いそうだったし、忘れようと思って。早く自分の店持ちたかったし」
「……そっか」
「遠回りが一番の近道って言うけど、あれ、本当なんだな」
ジウが不器用に笑うと、おれの周囲をふわふわ漂っていた事実がやっと腑に落ちて、からだじゅうに安堵と幸福感が満ちてくるのを感じる。
どこまで満ちるんだろう。
飽和しそうだ。
「ジウ。おまえばっかずるいから、おれにも言わせて」
言わせてと言っておきながらジウの視線を感じると恥ずかしくなって俯いてしまう。
「うん。聞く。何?」
「おれも。おまえの好きな相手が、おれで、よかっ……た……かな」
後半はおれ自身にも聞こえないほどで、向かいのジウに伝わったか定かではない。
「…………」
「…………」
気まずい沈黙の後、ジウがぽんと手を打つ。
「あ。ごめん、ハレ。買い忘れた」
「何を」
「今からドラッグストア戻っていい?」
「だから何を」
「ゴムとローション」
「情緒だいじにしろ!」
だけど異論のないおれはすでにターンしたジウの背中をのろのろと追いかけた。
一週間分の気力を使い果たして。

めくるめく夜が明け、朝におれはひとりで目覚める。
夢オチだったら死ぬ。
と思って目をつむったまま、おそるおそる手を伸ばす。
誰の体もそこにはなくて、やみくもに引っ掻き回して挙げ句にはベッドの上でクロールしていたら、誰かが部屋に入ってくる気配があった。
「ただいま……うわ、シーツぐしゃぐしゃ」
ジウだ。
目を開けて確かめる。
ああ、本物だ。
やっと実感が湧く。
サニーがジウのふくらはぎに体を擦り寄せているので意識だけサニーに乗り移る。
「朝っぱらから置いていくな。捨てられたかと思うだろ、ばか」
「要らなくなったとしても自分の部屋に捨てていかないよ。おれが住むとこなくなるだろ」
「いや、そこは『お前を捨ててどこにも行かないよ』だろ。なんだよ、おれが住むとこなくなるって。知らねえし」

ぶつぶつ不平を垂れるおれの前にドーナツショップの箱が差し出された。

「食べる?買ってきたよ」
「食い物で釣ろうたってそうは……」
「要らないならもらうけど」
「……食べる」
「牛乳もいる?」
「……いる」

起き上がるのもだるくて寝転んだままドーナツを食べる。
牛乳を飲みたい時はちょっと頭を持ち上げれば、傍らのジウがストローを寄せてくれる。

「これもプレイの一環?なにこの食事」
「たくさん体を動かした後は糖分とカルシウムが欲しくなるだろ」
「さらっと言われるとそんな気がしてくる。ていうかなんでおまえはいつもどおりなんだよ。すっげえムカつく今日も余裕でかっこいいなおまえ。できたばっかの恋人を置き去りにしてドーナツと牛乳買いに行くとかちょうクールじゃん。真似できねーわ」

シーツの上に砂糖をぱらぱらこぼしながらおれはもう心置きなくジウに視線を送る。
見ても良い。
いつでも見つめて良い。
こんな眼福。
神様。

「いや、おれなんかぜんぜんクールじゃないよ。今すごいドキドキしてる。さわって」

言われてジウの心臓に手のひらをあててみる。
普段と比べてはやいのかどうか?
分からない。

「初めてだからわかんない」
「はやいよ。いつもよりずっと。帰ってきた時にハレがいなかったらどうしようって思ってた」
「じゃあおれを置いて買い物とか行くな」
「確かめたかった」
「何を?」
「おれの妄想じゃないんだ、って。ハレとたくさん愛し合えて気持ちよかったし嬉しかった。夢じゃなかった」

飲み込みかけていた牛乳に咽て体を起こす。

「口にすることか?」
「するよ。表情に出ないぶん。しないと伝わらないんだろ?」

ベッド脇に座り込んでいたジウを見下ろす格好になった、自分の影が朝日の中を長くのびている。
何かを確かめたかったけど、何を確かめる必要もない気がして、じっとジウがおれを見上げるのを見た。
今この部屋の中で動いているものはサニーだけ。

「あ。ハレの体、すげえきらきらしてる」
「え?」
「砂糖、ほら、あっちこっちについてる」
「……あー、寝ながら食ったから」
「舐めさせてくれるってこと?」
「いやいや、やだなあ、そういうつもりで砂糖を付けてるわけじゃ」

笑ってやり過ごそうと思ったけれど、ジウの目は本気だった。

体格差は嫌ってほどもう思い知っていて、だるいとかきついとかしんどいとか拒否する理由がいろいろ浮かんでくるんだけど口にはしなかった。

ジウが今感じている気持ちとおれが今感じた気持ちが大部分で重なり合ったことがわかったから。

しあわせ、すき、かわいい、しにそう、しあわせ、しあわせ、しあわせ。

おれの気持ちなのかジウの気持ちなのか分らなくなる。おれのオリジナルな思いなのかジウの心に浮かんだものが流れ込んできた結果なのか。

「甘いけど、ちょっとしょっぱい」。

ジウの体からは雨のにおいがして、汗をかいたおれの上で砂糖は溶けて、外からは夏の声が聞こえてきた。
これさえ持っていればどこへだって行けるんだ。
握りしめてたぼろぼろの初恋は、羽化して愛になりそうだった。

Fin.

〜QUARTETTOシリーズは以上です。ここまでお読みいただきありがとうございました。〜