QUARTETTO#5『侵入者』

シリーズまとめ⇒QUARTETTO(カルテット)

眠ってるあなたの額に揺れる光で天国という熟語ができる。

毎週末になんか良いことあるの?
仕事のこと以外で話したことのない同僚からそう声をかけられた。
え?
いつもすっきりした顔してる。金曜日はわかるんだよ、次の日は休前日だもん。あさっては休日だし。普通にみんなそうなる。でもおまえ月曜日まですっきりしてるんだもん。おかしいよ。こりゃ土日に良い人と会ってるんだな、って。しかも消耗するやつじゃなくてチャージできる系。商売じゃないと見た。
え。
美人?
えっ。
へえ、ほんと。ずるいなあ、無害そうな顔して。
何も言ってないんだけど。
じゃあ聞かせてくれる?

(こいつ)。

返事がワンテンポ遅れたばっかりに、ぼくは白状することになる。

口外したらたぶん殺すんだけど、と前置きした後で、柚子胡椒チキンバーガーにかぶりつき。
相手は男性で、と言ったときには顔色ひとつ変えなかった同僚が、年齢を言ったときに眉をひそめた。

なあ、できんの?
うん、できるよ。

これ以上聞かせたくないな。やっと報われて最愛になったあの人を、俗世の権化みたいな、目の前の男の前に晒すのは死んでも嫌だ。いや、死ぬくらいならこいつを殺す。
と思ってたのに。
おまえ、すごいね。おれ、むりかも。
そう言われたときに何かがプチっと切れて。
言い逃げする気か。許さねえから。その人の店に連れてってやるよ。
権化の肘を自分からつかんでいた。

激しい後悔の道すがら、同僚はやけに上機嫌だった。
もしかしてぼくは誘導されたのでは?という気がしないでもないが、真相を知ってどうできるわけでもない。
ぼくが渋々といつもの扉を開くと、カウンターの向こうではあなたが戸棚の整理をしていた。
店内には読書をしているご婦人が一人。その足元に黒猫の夜がいる。
ぼくと目が合うと「へえ」とでも言いたげにしっぽを揺らした。
(へんなの連れてきやがったな。)
まさにそんな顔だ。
あるいはぼくの深層心理か。

「いらっしゃい」。

あなたはぼくに対しても「いらっしゃい」と言う。「おかえり」に聴こえて「ただいま」と言いそうになること、しきり。きっとぼくだけじゃない。このお店に来る人はみんなそう。今日も会えてうれしい、とあなたの顔に書いてある。かわいい。「あいしてる」と「ごめんなさい」の混じった視線を送った。
あなたの視線がぼくの肩越しに同僚の姿をとらえたようだった。
いらっしゃい。
あなたはぼくに対するのとまったく変わらない、まぶしいものを見るような目をして初対面の若造を歓迎する。
いいのに。そんな笑顔で言うことないのに。もったいない。

あ、え、はい、どうも。
歯切れの悪い返事だ。営業成績ナンバーワンの、いつものこいつらしくない。
後から聞いたところによると、ぼくが恋人の年齢でサバを読んだと思ったらしい。

(ばかめが。)

その日同僚はオリジナルコーヒーとブルーベリーケーキを注文した。
カップとソーサーがうまく噛み合わなくて、一口飲んではカチャカチャ音を立てていた。珍しいこともあるもんだ。
いつのまにかカウンターの隅に移動していた夜が「ざまあねえな」といった風情であくびをしていた。

夜の7時過ぎ。

スーツ姿はいつも見るけど会社員やってるきみ初めて見た気がする。すごいね、ちゃんと働いていたんだ。

あたりが暗くなっていくのをバルコニーを通過する風の気配で感じながらあなたが言う。

そりゃまあ、ちゃんと会社員やってる。
一緒に来た彼は同い年?
あなたのこと話しちゃったんだ、ごめんね、いきなり。
うん、そんな顔だった。私、おかしいことしてなかった?きみの会社員生活が気まずくなるようなこと?
ちっとも。だけどもうあいつ連れてこないよ。
なんで。
惚れられたら困る。
欲目。
そうでもない。経験者だからわかる。
そういうとこ昔のまんま。過保護。
あなたが無防備すぎるのが悪い。
接客業だから。いちおう。
ぼくだけ見ていて。
おや、めずらしい。
うんと言わないともう話さない。

やれやれ困った子だ。声が頭上から降ってきて、二枚の手のひらで目隠しをされた。

答えはノーだよ。私はいろんなものの中に生きているきみを見るのが好き。周囲に押しつぶされそうになりながら、ときどき光ることがある。たとえば遠くから私のことを見つけた時。霞んでた景色が一気に鮮やかになるんだ。私はそれを見るのが好き。だから答えはノーだよ。

だからこれで我慢してくれないかな。

そう言って柑橘系が耳朶を食む。

私が知ってる世界の一部で、きみはじゅうぶん強烈だよ。他のものに奪われる余裕なんて、私にもないんだ。

これ以上はない。
これ以上はないほどの安心の言葉と仕草だった。

満足して自信をつけたぼくはこのまま体を反転させてソファにもつれ込もうと思うけど、どこからともなく夜が現れ、あなたの腕の中を占領してしまう。

悪い猫だ。
悪い猫の侵入者だ。

(侵入者はどっちだ。)翡翠の瞳がきらきら燃えている。

なんだ、この嫉妬深さは。まるでぼくを見ているよう。

ぼくだってそれなりに計算はするけれど、夜相手に本気にもなれない。うずく唇を噛み締めながら、夜の前脚に許しを乞うた。