【雑記】きみをまもる

なぜ書くのか。
長いこと考えていた。問われることもちらほらあった。なぜ書くんですか。書き続けるんですか。
うん、なぜであろう?

息をするのとは違う。眠くなるから寝るのとも、お腹が空いたから食べるのとも、似ているようで、なんだか違う。しっくりこない。書けなくなったら死んだ目になるかもしれないけどたぶん死なないし。

では、なぜ。

ほめられたいから立ち回るのとも、注目を浴びたいから為すのとも、誰かから感謝されたいからとか救いたいからとか。とも、違う。むしろさっきより離れた。自分にとって書くということはどんなふうに、何を、意味するのか。そもそも意味するのか。もしかすると時々で「それはだな、」とかもったいぶり、すでに回答したことがあったかもしれないが、そのどれにも納得はいっていない。なぜなら今この自分が覚えていないからだ。間違っていないことなら自分で覚えているはずだった。そもそも忘れないはずだった。だから思い出す必要もないはず。

きいてほしい。
いつものバス停でバスを待っているときに、ふと気づいた。
(逆、なんじゃないのか?)。
逆って、視点。
「自分が」どうか、「自分にとって」どうだったか、について考えるからいつまでも答えが出てこないわけで、いつまでも答えが出てこないというときには、問いから疑ってみるべきだったのだ。
つまり、こうだ。

書いたもの、にとって、私は、何であったか。

私の書いた文章はどんなふうに私をとらえていた。思っていた。何を感じて何を思っていた。
そうやって立場を替えてみると、答えはシンプルだった。
「きみをまもる」。
それだった。
「きみを、まもる」。
確かにずっとそうだった。
それ以外もそれ以上もない。
私にできることは、私のしてきたことは、何もなかった。もらったものなら、幾らでもある。私はずっとまもられていた。そうと気付かせない相手によって。さかさまの問いかけを何遍も繰り返す、馬鹿のままでも。

なんたるのろま。