小説『遅刻できるひととそうでない僕』

遅刻できるひとが羨ましかった。昔から。今でもそう。堂々と遅刻できるきみが羨ましい。僕にはできない。

必ずみんなが笑うから、嘘か本当か分からない。あまり笑ったところを見かけない、あの子が、あの子までが、窓際の席で微かに笑っている。いや、そう見えた、だけか。僕がそう思うから。バイアス、と言うのだっけ。

遅刻できるきみはすごいよ。ルールを破って、誰のことも不幸にせず、笑顔に変えてしまう。タダシイコトをしなくても、それで良い存在を、神さまは作ったんだろうな。

同級生からの、好意に満ちたからかいを、冬のコートについた雪のように振り落とし、きみは席に着く。クラスの八割ほどがようやく正面に向き直ったとき、きみの視線が僕を射抜く。

「あ。先生、おはよ」。

そうにっこりと笑われて、叱責のタイミングを失う。いや、失ってた、か。ずっと前に。「おはよう」。素っ気なく挨拶を返すと、きみは「おや?」という表情をする。微かに。

遅刻者を見ても劣等感を抱かず、宿題を写させる自分を嫌悪せず、つまらない状況でも深呼吸するのは、本当は、かんたんなこと。

「授業を再開します」。

僕はそう言いきみに背を向ける、そして、爪を切ったばかりの右手でチョークを持った。これまで数え切れないほど多くの人が、感じた程度の奇跡だろう。たまたま僕にも降りかかったんだ。

この爪を昨日、きみに切ってもらったことを、知っている人は、どこにもいない。遅刻できる側のきみと、そうでなかったぼく以外で。誰も。字を書く。