No.786

季節が過ぎ、つなぎのための風が吹く。防波堤にたたずむ人影を見て、私があれだったら良いのにと思った。あの男だったら。今にも踏み出そうとしている。打ち砕かれる波に自分を投影している。そんな光景に焦がれなくても同じようにいつかなるのに。貝殻をひとつ拾った時にぜんぶ見えるんだ。何がってぜんぶだよ。貝殻が誕生してから漂流してきた海中の景色。砂浜にやってきてはしゃいでいた幸福な子ども。その中に男がいる。数十年前に子どもだった男だ。曇りのない瞳を、無防備に世界へ晒している。はらはらするような、無垢の笑顔で。私がなりたかった。あなたになりたかった。だけどなれなかったから、あなたに、あなたは間違えていると伝えに行こう。あなたは正しくないと。取り違えていると。捨てるのは貝殻のほう。死ななくていいと伝え、固く握り締めた拳をひらいてやる。ひらくと分かる。何も握っていなかったこと、だから何でも握れることを。