小説『バジルの告解』

ドアを開けた。開けても開けてもどこにもたどり着かず、ドアは消えなかった。一枚だけ色の違うドアがあってこれを最後と開放したら、その先にあったものは。

やけにすっきりとした気持ちで目覚めるとぼくは泣いていた。洗濯物と雲のない空、色を変えた樹々、窓辺のバジル。パスタを作った時に使おうと言っていたのに、いつも忘れてしまう。

見慣れた風景をぐるりと見渡して最後に傍らに目をやった。ぼくを見下ろして泣いている。つまりこの部屋には泣いてる人が二人いるということ。二人しか、いないということ。

おまえ、なに泣いてんの。
きみが泣いてるところを見て感動した。なぜ。
悪夢だよ。起こしてくれると助かったんだけど。
きみの感情があふれ出すことを邪魔する権利なんか俺に無いから。

ぼくは寝返りを打った後もう数分間目をつむったものの二度寝はできないと確信して起き上がった。

もう起きて良いの。
泣いたら治ったみたい。

ぼくが回復したというのにおまえはなぜか不満そうだ。気にしても仕方ない。廊下の向こうに玄関のドアが見えて、夢のなかの出来事に引きずり込まれそうになる。開けても開けても終わらないドア。存在しない出口。入り口は果たしてどこだったろう。

玄関から顔をそむけ、キッチンに目をやる。

パスタつくってやろっか。
きみが?
うん。
俺に?
うん。
死んでも良い。
バジルを使う。
ちぎって待機する。
軽く洗っといて。
うん、わかった。

たった2分で茹で上がる麺に味気なさを感じつつ、空腹だったのは確かでいそいそと皿に盛り付ける。パスタドレッシングをかけて少し混ぜ、仕上げにバジルをのせた。

完璧。
違いない。

フォークに巻きつけた麺を口に運びながら、ああ、と気づく。ぼくが作れば良かった。料理当番を、はやく変わっとけば良かった。そうしたらこいつも変な気を起こさなかっただろうに。

少量の毒を混ぜなくて済んだろうに。

ぼくを殺したかった?
まさか。生きて欲しかった。耐性をつけて欲しかった。
殺人未遂だからほんと。
怒ってる?
いいよ、もう。

適当にはぐらかすぼくもぼくだと思う。廊下の先に玄関があって、そこにぼくの靴はない。この部屋に連れて来られた時から一度も出ていないので、ドアの向こうの世界がどう変わったかも知らない。ベランダで育てていた朝顔や、キケンと書かれた用水路や、隣の家で飼われていた三毛猫や、ぼくが欲しかった一人部屋や、喧嘩の絶えなかった夫婦は、今どうなっているだろう。彼らもリセットできたかな。それぞれの道がちゃんと続いているといいな。ぼくは変わりないから。

美味しい。
まあまあ。

他愛もない会話。悲劇も喜劇も見当たらない。似たようで違う日々が淡々と流れるのだった。開けたことのないドアに鍵のかかっていないことを、ぼくはずっと前から知っていた。