No.747

あなたはぼくを忘れると言う。それは睦言かも知れなかったが、少しでもそうだと言い切れず泣くしかなかった。子どもの頃だってこんなふうには泣かなかった。

肺が体に酸素を送り込む仕組みや、たんぽぽの綿毛の飛行する軌跡、ほんとうは儚い土星の輪。あなたはたくさんのことをぼくに教えてくれたひとだ。犬の尾で機嫌を図るすべや、海辺でのサバイブ術、食欲がない日の冷たいうどんのつくりかた。

熱が下がらないときには首元を冷やすんだ、ほら、意識できるかい、太い血管がここにある。とても無防備だね、こんな皮一枚で人は生きていて。どうぞ殺してくださいと言ってるようなものだよ。そんなつもりがなくても、いともたやすく殺めてしまいそうになる。人は、できるさ、まるで善行をほどこすようにね。

あなたの発言は文字として取り出すと物騒かも知れないが、声がともなうとそんなことはなかった。何を話しているか理解が及ばなくても、あなたが話しているのだから耳を傾ける価値はあるだろう、もしもあなたが稀に見る大嘘つきだったとしても、委ねる価値はあるだろう。

そうやってぼくは、いまという時間を生きていた。

怖がらないで、嘘だよ。
怖くないさ、それも嘘なの。
そうすることはできる。
じゃあそうしないでほしい。

約束の限界をよくわかっている人だった。
それが人をどこまでも束縛することも。

あなたの背中は濡れているのに、ぼくには差し出す傘がない。もう背中を濡らさなくても良いんですよと、たった一人、あなたに伝えるための口実もない。(ただ伝えられたら良いのに)、羽織っただけのリンネのシャツを湿らせていくのが何であるかなんて、この夜の下ではたいした問題じゃないよね。

もしもここが最初から贋作の舞台なら、ぼくにはあなたを哀れむ役をください。そしてあなたはそれを、ぼくがぼくのわがままでそうすることを、どうかけして遮らないでください。愛をさせてください。恋はしてしまった。つねられたので、つねり返す。あなたを突き動かす衝動すべて、ぼくが原因であってほしい。ぼくに責任を負わせてほしい。