【小説】一秒前の記憶

カーテンの陰に隠れた。あまり意味のない行為として。強いられることから逃げたがっていることを示したくて。
外は青い空と海の街。名前を知らないたくさんのものが今日も同じ場所にある。あちらから見たら僕たちの住むアパートもいつもの光景の一部で、誰かを幸せにしたり不安にさせたりするんだろう。
「おとなになることは」、書棚の本が声を上げるから見つかるのではないかと冷や冷やしたハイアンドシーク。何か伝えようとすると咽喉元がナイフの先で引っかかれたようにひりつく。欲求と恐怖はコントロールされてここに自由はないから、そのおかげで僕は生きていられる。あまりたくさんのことを考えるのは得策ではないよ。博士の声は一番最初に吹き込まれた音声でそれは消去することができない、なぜならそこには疑念を挟む余地のない切実さがあったので。
毎朝こんがりトースト、ママレード、ブルーベリーを潰したミルク、食器のかち合う音、僕は食欲を知らないけど対面することをインプットされているから真向かいに座って、博士が咀嚼しているのを眺める。博士は新聞を広げてコーヒーを飲む。この街で昨日起こった出来事を僕に読んで聞かせる。しかし博士はこの街で、いやきっとどの街ででも、何が起ころうと知ったこっちゃない。誰がどんな方法で殺されようが、政治やスポーツやクロスワードパズルの回答でさえ。博士にとって大切なことはこの街で起こった出来事を僕に読み聞かせるという行為そのものであって、それ以上でも以下でもない、なりえない。
博士は嫌々ながら外出することがある。仕事の話だとか上司がどうだとか学会だとかで。そういったものから完全に離脱して生活するほどにはまだ認められていないのだとぼやいていた。
博士はどこへでも僕を連れて行って、会話の内容を記憶させる。人の名前と顔を一致させる。博士はそういうことを苦手とする。博士はたまに女の人から言い寄られている。その場しのぎのために適当な返事をする。女の人は嬉しそうに見える。僕は博士が何故、後から彼がぼやくように「きみの口紅の色をみていると胃がムカムカしてきて食欲が半減するんだよ」と言ってやらないのか分からない。博士は人付き合いだから仕方ないのだと苦笑する。その笑い方のあとはしばらく無口になる。何を考えているんだろう。
博士は週末になるとどこかへ出かける。そこへだけは僕を連れて行かない。一度だけ行き先を訪ねた。お墓なのだと言う。
「誰の」。
「お前の」。
博士は何故、困る時に笑うんだろう。
夕方くらいに帰ってくると僕を連れて海岸に行く。僕は砂浜を歩く時の足の裏の感触が好きだから博士を置いて随分と先を歩いてしまうことがある。慌てて振り返ると博士は驚いた顔をする。
「博士、どうしたか。何に目を丸くした?」。
「お前が、振り返るとは思わなかったから」。
波のラインは時間によっても日によっても季節によっても違う。すぐ近くまで来たり、でも絶対に離れていくところだけおんなじ。僕が好きだと言った色をマジックアワーと教えてくれた。誰が命名したのか知らないが、良い名前ではないか。
博士はやがて随分と歳をとった。博士には家族もペットもいない。僕が家族で、僕がペットでなければ、の話だけど。博士は人付き合いをあまりしなくて良いほど実績を残した。住むところもアパートから一戸建てに変わった。お屋敷と呼ぶ。お金はたくさんあってどこかの施設へ寄付した。
「おいで、さよならをして」。
博士はカーテンをめくって僕を見下ろし、コードを入力した。sayonara。ぴぴぴ。短いゲームだった。博士の髪は銀色に輝いて、その目はどこまでも青かった。僕はプログラムが命じる通り博士の眉間に銃弾を放った。規定された位置に寸分の狂いもなく。考えることを許されなかった僕はひとつだけ秘密で思った。博士は幸せだっただろうかと。博士の脈が無くなっていることを確かめてから僕は僕のネジを外し、すべての記憶を抹消した。博士が冗談めかして言っていたように、ここにいた一人の人間の死が発覚するのは、ポストに溜まった新聞を訝しんだ新聞屋だろう。僕の頬が濡れている。どんなに良いだろう、今この時間の風景がマジックアワーに包まれていたなら。侵入は絶対に不可。博士のメインマシンとしての僕の回路に入りたがる同業者やマスコミは数知れない。だけど一人として立ち入らせはしなかった。どんな殻よりも強固なんだ。内側からだけは簡単に操作できるデータが、ぽろぽろと零れ落ちていく。零れ落ちる途中でどこへも消えて無くなる。僕はその中に博士の青春を見た。何かの過程で入れてしまったんだろうか。僕がまだ存在する前の記憶なんだろう。博士は随分と若々しい。幼いと言って差し支えない。そこに僕がいた。僕は最初それを僕だとわからなかった。笑っていたから。
博士は幸せだった。僕は唐突にその答えを得た。
外はマジックアワーだ。僕は目前にその光景を真に見た。
暗闇がすべてを優しく飲み込む一秒前。

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