No.712

これじゃいけない。認めることは怖かった。ぼくを好きな人なんてどこにもいない。考えてみればそれはそうだった。ぼく自身が好きではないぼくをいったい誰が好きになると言うんだ。それでも生きていれば日常を覆すような出来事が突然降ってくる。あと一歩踏み出せば明日が来ないんだなあ、それって素晴らしいよなあ、あと一歩で。思ったぼくの前を列車が通過する。駅員さんにこっぴどく叱られた。遅刻だな。とぼとぼ会社に向かう途中で、コンタクトレンズを探しているひとに遭遇する。言い訳に使えそうだと声をかけた。それが六日前のことで、きみとぼくはどういうわけか同棲を始めた。本当にコンタクトレンズを探していたの。ちがう、探すふり。車に敷かれないかなあと思って。きみはそんな無謀な考えをしていた人物とは思えないほど朗らかに笑う。死んでしまうにはもったいないと思わせるほど生き生きと笑う。すごく迷惑な発想だよ、それは。善人かも知れないひとに、一生の罪を負わせるつもりだったの。ぼくが言えたセリフじゃないけど。それからぼくはきみと暮らして、ときどきズルすることを覚えながら、好きとかかわいいとか素晴らしいとか尊いとかを言われ慣れていく。じゃっかん不本意なこともないではないけど、きみはぼくに強いないところが安心できる。幸せと言ったら幸せは逃げていきそうで、好きと言ったら好きが減りそうで、臆病なぼくの目のこと、きみはいつもきらきらしてるって言ってくれる。きみが映ってるからだよ。死にたいの二乗が共鳴しあって、誰も知らなかった乱反射でかがやくんだよ。西陽さす六畳半の橙色のまんなかで。